「明治天皇すり替え説」を追う
2年以上前にこのブログで「明治の皇室と仏教」という記事を書いた。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/37/
内容を簡単に振り返ると、明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、上古以来、宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃することになった。その時に3人の皇族の女性が明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否したことを記事の中で紹介したのだが、皇族の男性が反対したことがなぜか見えて来ないのである。
私はこの記事でこのように書いたのだが、その気持ちは今も同じである。
「皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。」
明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえどもこのようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族男性すべてが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離し仏教を捨てるべきだとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかしか考えられないのではないか。直感的には前者の可能性が高いだろう。
2年以上前にこの記事を書いた際に、明治天皇暗殺説があることを少しだけ触れておいたのだが、それくらいの事件がなければ、皇族の男性全てが、1400年以上の歴史のある仏教をさしたる抵抗もなく捨て去ることはなかったのではないかとも思えるのである。
今回は明治天皇が暗殺されて別の人物にすり替えられたという説を、もう少し詳しく追ってみることにしたい。
以前紹介した記事に、少年期の明治天皇の写真と伝えられるものを掲載したのだが、今回も掲載しておこう。中央に立つ背の低い人物が明治天皇であると伝えられているのだが、この写真は我々の知る明治天皇とは別人にしか見えない。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html
実はこの写真は小学校の時に一度雑誌の記事で見たことがあるので、かなり以前から明治天皇の写真であるとして伝えられていたはずなのだが、ネットでいくら調べても、誰がいつ撮影したものであるかも、周囲の人物が誰なのかもよくわからなかった。
いわゆる、「明治天皇すり替え説」は古くからあったようだ。土佐藩出身の田中光顕元宮内大臣が昭和4年(1929)の2月に、三浦芳聖氏に語ったという話に注目したい。三浦氏は自らが南朝正統の皇胤であることを主張した人物で、三浦氏の『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』という著書にその内容が書かれているらしい。
この本は自費出版されたもので手に入れることは難しそうだが、次のURLに田中光顕(下画像)の証言内容が引用されている。
http://wiki.livedoor.jp/niwaka368/d/%B8%B5%B5%DC%C6%E2%C2%E7%BF%C3%C5%C4%C3%E6%B8%F7%B8%B2%BB%E1%A1%A2%CC%C0%BC%A3%C5%B7%B9%C4%CA%C5%B2%BC%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8%B9%F0%C7%F2
重要な部分を紹介しよう。
「斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、『私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました』
と前置きされて、
『実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、 代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。
吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。』」
この証言内容をどの程度信じるかは、読む人によって異なると思うのだが、かなり具体的なことを語りながらも結構筋が通っていて、私にはあまり嘘っぽく感じられないのである。
このような重要なことを維新の元勲が軽々しく語るのはおかしいとも思えたりもするが、その点は読者の判断にお任せしよう。
田中の述べたことを要約すると、長州は南朝末裔の大室寅之祐を匿っていて、薩長は「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだということである。
「南朝」という言葉がいきなり出てきて戸惑った人も多いと思うが、建武三年(1336)に足利尊氏が光明天皇を立て、後醍醐天皇が吉野に逃れて、京都の「北朝」と吉野の「南朝」に皇室が分裂してしまう。それから、それぞれが正当性を主張する時代(南北朝時代)が元中9年(1392)まで続くことになるのだが、その後も南朝の子孫がずっと生き延びていてそのうちの一人が、長州が匿っていた大室寅之祐だと述べているのだ。
北畠親房は南北朝時代に『神皇正統記』で、三種の神器の所在と皇統における「正統」概念をもって南朝正統論を唱えた最初の人物であるが、『太平記』が公家や武士の間に愛読されて南朝方に同情的な見方が次第に広まって以降、著名な学者が南朝正統論を唱えるようになる。
江戸時代に徳川光圀が編纂した『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱っていたそうだし、『日本外史』を著した頼山陽も、また幕末・維新の志士に大きな影響を与えた山崎闇斎も南朝正統論であった。
江戸末期に全国の藩校では南朝を正統とし、北朝系を天皇家とした足利尊氏を逆臣とした考えが教えられていたのである。維新後になされた施策を追っていくと、明治維新を成し遂げた志士たちが、南朝正統論の影響を強く受けていたことがよくわかる。
Wikipediaによると、
「1869年(明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。また、1877年(明治10年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、続いて1883年(明治16年)に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。なお、1891年(明治24年)に皇統譜の書式を定めた際に、宮内大臣から北朝の天皇は後亀山天皇の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、認められたとされている(喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』)。」
田中光顕の証言が正しいとすれば、明治維新を成し遂げた志士たちは、北朝の天皇を廃し南朝の天皇を即位させたことになるのだが、そのことは南朝を正統と考えていた志士たちにとっては、その動機が充分にあったのだと考えられる。だから長州が南朝の末裔を匿って、「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだという田中光顕の話も、決して荒唐無稽のものとは思えないのだ。
また田中光顕は睦仁親王(京都明治天皇)と明治天皇(大室寅之祐)との違いを次のように語っている。
「睦仁親王は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に『あばた』は無かった。
明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに『あばた』が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた『肖像画』を写真に撮らせて『御真影』とした。又、『あばた』を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。」
明治天皇の即位に関する問題について詳しく研究された人が何人かいる。故人となられたが、鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇…明治維新の謎』という本に、暗殺され大室寅之祐にすり替えられた証拠となる話がいくつも紹介されているそうだ。
たとえば、学習院院長を務めた元宮中顧問官の山口鋭之助氏も「明治天皇は、孝明天皇の子ではない。山口県で生まれ、維新のとき京都御所に入った」と語ったという。
また長州出身の元首相・岸信介は「今の天皇家は明治天皇のときに新しくなった。実はそれまでの天皇家とは断絶している」と述べ、元公家の広橋興光氏も「睦仁と明治天皇は別人」との言葉を残しているそうだ。
また、明治天皇の正后を「昭憲皇太后」と呼ぶのはおかしな話で、普通なら正后なら「皇后」と呼ぶべきである。この疑問は「昭憲皇太后」が睦仁親王の正后であり、親王の死後は皇太后として処遇するしかなかったと考えれば納得ができる話だ。
この問題についてもっと詳しく知りたい人のために、れんだいこ氏のサイトを紹介しておこう。他のサイトに書かれている説などがよく整理され、リンクも貼られている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuootyokotaico/oomuroco.html
以前このブログでも書いた通り、明治天皇の本来の父親である孝明天皇は攘夷論者であり佐幕派であった。孝明天皇は慶応2年(1866)の 12月25日に崩御され、死因については表向きは病死だったが、倒幕派によって毒殺されたと言う説がある。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/81/
れんだいこ氏が、先ほど紹介したURLで睦仁親王と大室寅之祐との人物の違いを纏めているが、睦仁親王は幼少より『虚弱体質』で運動能力に乏しく、16才になっても、宮中で女官と一緒を『遊戯』を好んだというレベルであり、とても政治力が期待できる人物としては育っていなかったという。
そこで倒幕派は、「北朝」系の孝明天皇に続いて慶応3年(1867)7月に睦仁親王を暗殺し、10月に「南朝」派の大室寅之祐に明治天皇になりかわり倒幕の密勅を出させて、徳川幕府による大政奉還の後、12月には王政復古の号令を出させ、翌慶応3年10月に正式に大室寅之祐を明治天皇として即位させたという流れになる。
これまで「北朝」系の天皇を支えてきた徳川将軍家や会津松平家が、明治天皇(「南朝」派)の逆賊となったという理解もできるし、「戊辰戦争」は「第2次南北朝戦争」であったという解釈も可能になってくる。
この様な説を「荒唐無稽」と切り捨てる人も多いのだが、これを切り捨ててしまうと、この記事の冒頭で私が書いた明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」で、男性皇族全員が仏教を廃することに一人も抵抗しなかったことが非常に不自然に思えるのである。
もし三浦芳聖氏の著書の田中光顕の発言が正しいとすれば、「北朝」派の睦仁親王が暗殺されて、「南朝」の末裔とされる人物が皇室に「明治天皇」として乗り込んできたという異常な事態が起こったことになる。
しかし、これくらいの異常なことが起こらないかぎり、この時に皇室の男性の誰もがさしたる抵抗もせずに、1400年以上の歴史のある皇室における仏教の信仰を捨てることはありえなかったのではないだろうか。
ところで、大室寅之祐が本当に南朝の末裔であったかについては、それを否定する説もあるようだ。もしかすると薩摩や長州藩にとっては、幕府を倒すのに都合がよく英邁な人物なら誰が天皇になっても良かったということなのかも知れない。
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【御参考】
このブログで孝明天皇・明治天皇に関連してこんな記事を書いています。興味のある方は覗いて見てください。
明治の皇室と仏教
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-125.html
幕末の孝明天皇暗殺説を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html
幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える〜〜GHQが封印した歴史 3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-158.html
「明治天皇すり替え説」を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-255.html
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2012-07-01 10:56
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歴史雑記 /
幕末〜明治時代雑記 |
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45番あたりをみてくださいな。ほかでもいいし。ネットの時代になって謀略もばれてきたというより疲れてきた。社会崩壊するかも。擬史を意図的に流すようですね。半島系某宗教団体が流してるようですよ。nwoでの陰謀と天皇家は手打ちをしてるのかどうかでしょうか
やはり明治政府は南朝を称揚する姿勢を示したのでしょうか?
ネットの時代は、誰でもその気になれば何でも書けるところがありますね。昔であれば、政府や官僚が世論誘導ができましたが、それが出来なくなってきたことは間違いがないと思います。
最近の若い人は新聞も購読しませんし、テレビのニュースよりも、インターネットで情報を拾うという人が多くなってきました。
メディアとしての新聞やテレビの凋落はまだまだ進むでしょう。それが必ずしも意図的になされているとは私は考えていませんが、ネットの情報は玉石混交なので、国民は何が真実かを見極める眼を持って、いい加減な情報に騙されないようにしなければいけませんね。
紹介いただいた手記については、知らないことばかりなので、じっくりと読ませていただきます。
公文書が残っているわけでもなく、記録されている「証言」が、本当に当人の言葉であったかどうかは、今は知る由もありません。たとえ真実であったとしても、歴史が書き換えられることはないと思います。
田中光顕の証言が真実だとすれば、明治維新は「南朝革命」ということになりますが、実際に明治政府の施策を見ていくと、本当にそうだったかも知れませんね。
この問題は、私も興味を持っております。
まだしっかり読んでいませんが、
ももちやんさんの資料の補足を置いておきます。
落合莞爾「公武合体政権と京都皇統(5)」月刊日本4月号
http://gekkan-nippon.com/?p=3502#Link
落合莞爾「疑史 堀川辰吉郎と閑院宮皇統(2〜5)」
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-category-10.html
ももちやんさんからも紹介のあった、落合莞爾さんの「読書日記」はなかなか面白いですね。勉強になります。
参考文献などの明記があればありがたいですが…。
緻密で深く、かつ難解・・・・、
しかも、
私は調べる時間がとれません。
このうえは、
しばやんさんの腕前におすがりするしかないかと・・・・・・・(笑)。
参考文献などは、根本さんに直接聞くしかないかも・・・・。
いくつか本も出されておられるようですが、このテーマで、是非出版してほしいものです。
その当時の記録や利害関係者の供述などから、仮説が正しいことを誰もが認めざるを得ないだけの決定的な事実を発見しなければ、その仮説がたとえ真実であったとしても、世の中の大半の人から相手にされないでしょう。
ネットの世界で匿名で書く世界は、書きようによっては何でも書けますが、その論拠が正しいものであるか、論理構築が説得力のあるものであるかは、読者が判断するものだと思います。結局は読者の評価に耐えうるものだけが残っていくのだと思います。
売国の輩がいくら歴史を書き換えようとしても、論拠のいい加減なものが広まることはないでしょう。国民の良識を信じましょう。
私は、古代史や不思議なことが大好きで、いろいろ本も読んだりしていたのですが、十年ほど前、まず「孝明天皇暗殺説」を知りました。その頃に見ていたいろいろなものが、ひとつの方向に向いているようでした。
明治に入って南朝系の神社が急に相次いでいくつも復活したり建設されたり、古代からの忌部氏の祭祀の復活、八瀬童子の祭祀への復帰、「古語拾遺」で斎部広成が朝廷や神社などの祭祀が藤原氏にほとんど乗っ取られたと嘆いていますが、明治の頃には忌部氏が大勢を占めている、という記述・・他にもいろいろあったように思いますが、忘れてしまいました。
それが、明治天皇のすり替えとやはり関係がありそうだ、と思っていた時、これらのサイトを見るのに疲れて、気分転換私の母方の祖母の祖父(確か・・)の親友で通天閣の名付け親でもある「藤沢南岳」のことがふと気になって検索しました。
すると・・びっくり・・。
明治期に国会で南北朝正閏論で大騒ぎになった時、
息子が議員だった関係か何かで引っ張り出され、最後にはしどろもどろになった・・と。
結局、北朝の天皇が南朝が正統だと認める、一般には不思議な形で決着し、世の中がなぜ騒がなかったのかが?ですが、まさか、関係が出てこようとは夢にも思いませんでした。
そして、南朝というか、もっと古く吉野、海部・・・もっと日本の根幹に関わる大元に因縁があって、私が思うよりずっと永い間の念が働いていたように思いました。
・・・今、また、半島勢力か何かに乗っ取られようとしているようですが・・・。
ここ何年かで、この話題が新たに本になっていくつか出てきたので、やはり、明るみに出したい大いなる意志か何かが働いているのでは、と興味深くいろいろ読ませていただいています。
この問題に関しては、くくりさんの方がずっとよくご存知のようですね。藤沢南岳いう人物のことは、このコメントを頂くまで知りませんでした。
この明治時代の国会での南北朝正閏論の話は面白そうですね。当時の記録がテキストで紹介されているサイトを御存知でしたら、ご教示ください。
ひさしぶりに出してきて読むと、もう一度感動できるほどです(^^;)
南北朝正閏論 につきましては
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-satou-nanbokuchonodouran.htm
こちらに載っているようです。
今、読み直しましたところ、「議員を辞職」と書いてあるので、
登壇したのは息子ですね。
以前、読みましたものは、「職を辞した」とあったように思いますので、勘違いしたのだと思います。失礼しました。
桂首相が父親である南岳さんに質問撤回の懇願をしたのですね。今まで、 証人喚問のように呼ばれてご本人がしどろもどろになっている姿をイメージしていましたm(_ _)m
余談ですが、南岳さんの誕生日は西暦では祖母の誕生日と同じで、旧暦では私の誕生日と同じ月日でこちらも不思議でした(^^;)
しばやん様のHPを発見できてうれしいです。
とても良く調べられていて考察が深くて、おかげさまで楽しみが増えました!
一つ一つ、じっくり拝読させていただきたいと思います。
南北朝のゴタゴタで途絶えていたものが、大正天皇の即位時に577年ぶりに復活したそうです。
吉野側である忌部・海部氏としては北朝に麁服を納めることなどできなかったのですね。
フリーメーソンが裏で糸を引いて明治維新を・・と最近、言われていますが、フリーメーソンをも利用したのか、も、と思ってしまいます。
調べていましたら、今上天皇の即位時の首相は海部さんだったようですね(^^;)
・・でも、南京大虐殺を肯定して謝罪しているんですね・・。
三木首相も天皇陛下の靖国御親拝を途絶えさせているようだし・・・。
私は単なる1サラリーマンですから、知らないことばかりですが、私のような素人でもおかしいと思うことが、なぜプロである学者はおかしいと思わないのかと考えるうちに、こんなブログを書くことになりました。
いつまでネタが続くかわかりませんが、読者の皆さんに励まして頂きながらこれからもがんばります。
紹介していただいたURLはなかなか興味深いですね。
南北朝の問題に関する本は今まで関心があまりなかったのですが、読む気が出てきました。
情報ありがとうございます。
私も、フルベッキ写真の大室寅之祐と内田九一の撮った明治6年の明治天皇の写真が、同一人物に見えます。
明治天皇に関して、かねがね不思議に思っていたことがありました。しかしその不思議は明治天皇が、大室寅之祐という力士隊の侍だったと考えると腑に落ちるように思います。
その不思議なこととは、明治天皇と乃木希典は、いつどんなきっかけで親しくなったのだろうということです。宮中の奥深くで育った皇子の明治天皇と、下級武士だった乃木希典が、いついかなるきっかけで親しくなったのか。乃木は低い身分の出身ですが教養はあったようです。しかし、大奥の天璋院篤姫と和宮のように、武家と宮中ではしきたりも価値観も違い、最初の頃はずいぶんと軋轢があったのではないかと想像していました。
ところが、明治天皇のお気に入りの臣下は西郷隆盛に山岡鉄舟、そして乃木希典と、武士、それもあまり身分は高くない出身の人物が挙げられています。一方で皇族や公家出身でお気に入りという人物は、岩倉は別にして、あまり聞いたことがありません。
乃木の話に戻りますが、乃木は長州藩の支藩の長府藩の武士で、奇兵隊の中の一部隊である報国隊を作ったと言われています。
そして報国隊は後に大室寅之祐のいた力士隊と合流するのです。私が推測するに明治天皇と乃木希典はこの時親しくなったのではないかと思っています。まだ明治維新の成る前、十代の大室寅之祐と乃木希典は、奇兵隊で知り合い意気投合したのではないかと。
もしそうならば私も合点が行きます。エリートとは言え、明治10年の西南戦争の時まだ少佐だった乃木が、どんなきっかけで明治天皇と親しくなったのか。価値観も固まってしまった大人同士が、どんなきっかけで親しくなったのか。
それよりも理想に燃える一方で、まだ人格が固まっていない十代の大室寅之祐と乃木希典が親しくなると想像したほうが、無理なく感じられます。
私の思い込みかも知れませんが、明治天皇は力士隊員の大室寅之祐だと考えると腑に落ちることは多いですね。
長文失礼いたしました。
随分前に書いた記事なのですが、未だによく読んで頂いていることに正直驚いています。
明治天皇と乃木との接点がどこにあったかは私の考えなかった視点です。確かにそう考えると腑に落ちますね。
しかし、この仮説が真実だと考えたことの方が腑に落ちることが多いということが、真実であることの証明にはなりませんね。「正史」がこの点について書き換えられることはないと思います。
私は私の信じているものがありますし、それはあなたも同じでしょう。
しかし、そうでない方にとってあまりにもセンセーショナルで、飛びつきやすいものであるのも確かです。
風説の流布と言いますか。このあなたの記事を見、真実だと信じ込んでしまう方がいるというのを意識してください。
・。孝明天皇は慶応2年(1866)の 12月25日に崩御され、死因については表向きは病死だったが、倒幕派によって毒殺された可能性が『高い』と言われている。
この一文は明らかに偏向しています。
ただその様な説がある、というだけで、可能性が高い等という事はありません。
物的証拠は何もないのです。
またこの手の話で一番疑問に思うのは大久保利通の存在が一切語られない事です。
はっきり言いますと明治維新は彼の存在なくしてありえません。
伊藤博文など、元は木戸、のち大久保の使い走りでしかありません。
更に、もし南朝の復興であれば、それを大々的に宣伝しないはずがないとも言えると思います。何故秘める必要があるのか。
と、即座に思いつくだけでも出鱈目ではないのかと思える点があります。
真偽はさておき、けしからんとまでは言いませんが、
示した文以外にも、そうと信じ込ませようとする姿勢が多々見受けられ、そこには多くの問題点があると感じます。
何か意図があるのでもない限り、もう一度掲載の内容を見直したほうがよいように思います。
通りすがりさんが指摘された孝明天皇の部分についての私の記述部分についてはその通りです。誤解を招く表現のまま推敲せずに放置していたことをお詫びし、訂正させて頂きます。
大久保の存在が出てこないことに対する疑問も良くわかります。大久保は様々な事件に絡んでいたと私も考えていますが、この事件に関しては、大久保の名前が出てくる文章が見当たりませんでした。
まずは、しっかりとしたご返答をいただいていたにもかかわらず、これまで気づけなかった事をお詫びします。
また、前回投降した内容に於いて、かなりきつい言い方になってしまったのも、申し訳なく思っています。
この話について、ある意図を持って流布しようとしている人物や、あたかもこれこそが隠された日本の真実である、と耳目を集め金銭を得ている人物がいる為、
恥ずかしながら、警鐘を鳴らしておきたいという一心でした。
所謂陰謀論(実際の真偽に関わらず)を興味深い事案として話すのは極当たり前の事ですし、批判するつもりの無い事を何卒ご理解いただければと思います。
ただそこから、何がしかの利益を得ようというのはある種の宗教地味た洗脳に近く、表現の自由とは一体何なのだろうかと、その様な人物を見るにつけ暗澹たる思いを持ちます。
ただの通りすがりである私にわざわざご返答いただけた、しばやん様の真摯さ、大変嬉しく思います。
ありがとうございました。
俺の曽祖父は明治天皇に仕えてたから話をよく聞いたけど馬鹿馬鹿しすぎて怒りすら感じるわ。
したり顔で的外れで愚かな記事掲載して良い気分になってるのかも知れんが、宮内省の存在とか色々無視しなきゃ成り立たない説を鵜呑みにするその知能の低さはなんなのかな?
みっともないねぇ・・・・朝鮮人の血でも流れてるんじゃないかね?
基本的な疑問に答えなければ、読者から馬鹿にされるだけです。
そもそも、なぜ明治天皇の正后を「昭憲皇太后」と呼んでいたのでしょうか。また、明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」で、男性皇族全員が仏教を廃することに一人も抵抗しなかったことは何故ですか。それと元宮中顧問官の山口鋭之助氏も「明治天皇は、孝明天皇の子ではない。山口県で生まれ、維新のとき京都御所に入った」と語ったという話をどう評価されますか。
他にも疑問点はいくつかありますが、そのような疑問に一言も答えずに「陰謀論」で片付けるのは、思考停止ではないかと思います。通説と矛盾する事象がいくつか存在するときには、様々な可能性を柔軟に考えるべきではないかという立場で私は書きましたが、そのような姿勢が誤っているとお考えですか。
しっかりした回答を期待しています。
最近、しばやんさんのブログの面白さにはまっております。^^
素晴しいご体験からの貴重なブログ、
鋭い視点と写真も併せて本当にありがとうござます。
ところで…
先日、「天皇のロザリオ」や「日本の本当の黒幕」の著者
鬼塚英昭氏のDVD(成甲書房)を見まして、
<この出版社の創設者は朝鮮系の方なのだそうですが…
それはさておき>
孝明天皇暗殺や明治天皇(大室寅之佑)すり替え説から、
なぜ天皇家親類縁者は倒幕派長州に対して抵抗、
あるいは他者へ救助を求めなかったのか?が、
疑問になりネット検索をしましたら、
こちらのブログにたどり着きました。
似た疑問を持っていらっしゃったしばやんさんのブログに
「泉涌寺」と天皇家の繋がりに目から鱗でした。
まさか、天皇家が幕末まで仏教で先祖を祀っているとは知りませんでした。
この重要な事実のお陰で、ネット宗教「伊○□△道」への
(ご存じでしょうか)
疑問が解けその意図が見えてきました。
実は、数年間そのネット教をある程度信じて
いました。が、度々不自然に思う記載や
宗教文化を破壊する思想ではないか、という疑問もあり、
また、ネット上で決して本質的な批判は
掲載されていないブログとして有名で、
そのブログの信憑性を改めて比較すると、明らかに
ネット宗教の背後にある国際金融関連(欧州権力者)の
支配戦略が見えた気がしました。
(2013/12/3)の内容には特に不気味さを感じます。
http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20131203
(長いので続けてコメントさせてください。すみません。)
主婦層の宗教洗脳によって支配しやすくなるのは、
重要なマーケティングと言えるでしょう…。
そのネット教でのamozon商品紹介も
その正体を証明するものではないかと思われます。
(amazn利益、つまり外資系の利益は国際金融家の懐へ。
しかも日本に税金払っていない企業)
こちらのブログのリンクHPで知ったことですが、
昭和初期に戦意を盛り上げたのは、米国は「Life」誌、
日本では「主婦の友」であったことも、この話の参考になるでしょうか。
そのネット教の出版物に主婦の友社も何冊かあります。
また学研などで大量に出版されている神道とユダ教関連の本も
不自然という気がします。
奈良の興隆寺や鎌倉の鶴岡八幡について、こちらのブログで
明治の廃仏毀釈は相当ひどいものだったと初めて知りました。
知人から聞きましたが、村のお地蔵様が首なしで放置され
現代の人も廃仏毀釈のせいであったことを知らされていると。
神道が大らかで包容力のある信仰とするならば、
なぜ仏閣の暴力的破壊が必要だったのでしょうか。
昔の鶴岡八幡の図を見て思ったのは、
某有名神宮でも小さめのお社が境内に点在していますが
それも仏教の名残のものだったかもしれません。
また、神社で見受けられる六芒星や菊のご紋なども
もしかすると明治時代に細工されたものもあるのではないか、と
疑念が湧いてきます。
そこまで、仏教と神道を分離させ、天皇を
神格化する計画、その意図を推して知るべしであります。
(長いので続けてコメントさせてください。すみません。)
長州軍の江戸への移動日程と一致しており長州の演出で
市民の目を倒幕行動から目を逸らすためと、仏教を衰退させ、
神道のみを崇拝させていく、この2つの目的による陽動作戦と
認識しました。
そのネット教ではこの騒動を一部霊的な出来事であった
という説…を綴っています。
本来は「天皇はん」という印象がもともとの庶民と天皇家の
関係だったように思います。
廃仏毀釈によって仏教のしがらみを一掃し、
偽神道を作り大げさな儀式で
徐々にエンターティメント化しマスコミがイメージを固める…。
欧州権力者が日本に対し脅迫支配をするため
天皇をとことん神格化させてきた可能性があると思うのです。
そのネット宗教も良いことが一杯書いてあります。
ですが、天皇をやたら神格化する発言が多く、
その逆に仏教やプチ宗教や新興宗教をお金が介在するという点で
廃仏毀釈とイメージが重なるような発言をしています。
偽Kリスト実Yダ教(一神教利用の選民思想)をいづれ
日本の国教にするがため気付かれないように、
主婦や若者にこっそり、じわじわ洗脳中ではないかと
思いたくなってしまうのです。
吉本ばなな氏をはじめ、船井幸雄氏や
浅川嘉富氏、越智啓子氏なども
感化されている文章が見受けられました。
(皆さん不思議?!研究家ですが…^^;)
たかがネット宗教、されど…であります。
(そのネット教は伊勢神宮内の多賀宮には
アーク(聖櫃)が埋まっている、とか…言っています。とほほ)
目的は明治以降に100年〜150年間かけて
Yダ教と融合させたい構想のひとつの布石だろうと思い至りました。
日本は境界線があいまいになる風土で、自然霊を大切にする神道
先祖を大切にする日本的仏教、天皇はんも衣食住を営む人間です。
それぞれがそのように収まってきた…
幕末までが日本らしさだったと思いました。
(あと一度コメントさせてください。すみません。)
ことを長く書いてしまい大変失礼いたしました。
しばやんさんのブログのお陰で、目を醒ますきっかけを頂いたので、
本当に感謝致します。
また、秘密保護法案で揺れる状況の中で、戦争を避けるため
気がかりなことをお知らせしたく書かせて頂きました。
本を読んで一度だけ講演会に参加させてもらった方のHPをご紹介させてください。
http://www.thinker-japan.com/index.shtml
ご迷惑にならないよういづれこのコメントは削除をと思っています。
これからもしばやんさんのブログ訪問をさせて頂きたく思います。
失礼いたします。ありがとうございます。
以上(異常?!笑)です。^^
すばらしいコメントありがとうございます。
ご照会いただいたブログは、今まで数回覗いたことがある程度ですが、確かに12/3日の記事は不気味ですね。
ご指摘の通り、こういう記事が何度も繰り返し発信されることで、このようなネット宗教が、わが国の伝統文化を破壊することを狙っている可能性があると思います。
そもそもわが国の伝統文化の破壊は工作は、すでに経済分野から相当程度進行しているのではないでしょうか。
以前はそれぞれの地域の中で経済が循環して、そのなかで地域の文化が発展し、その地域を構成する家々がその地域で収入を得てに定住することで、地域の伝統文化が承継され、地域の伝統的建造物も護られてきました。
しかし、経済効率主義的な施策が相次いで行われ、地域の小さな経済循環がガタガタにされてそれを承継する次世代の人々が少なくなって、それぞれの地域の伝統的文化が危機に瀕しています。
私のブログで、明治期の廃仏毀釈のことを書きましたが、その時代は物理的な破壊と、寺院の経済基盤の破壊の両方がありました。
そして今は、物理的な破壊はありませんが、お寺の経済基盤を台無しにして衰弱させる施策が今も続いているように思います。
ブログ本文では明確には書いてこなかったのですが、第二の廃仏毀釈と呼ぶべき危機が現在進行中だと考えています。この危機はお寺だけでなく、神社も同様ですね。
明治から幕末にかけて、不思議な出来事がいくつかありましたが、欧州勢力が関与していたかどうかはよくわかりません。
しかし、今は、わが国の伝統文化を破壊して、日本人の愛国心を奪おうとする勢力が存在している可能性を感じることがしばしばあります。
私にできることは、日本文化の素晴らしさ、日本人の素晴らしさを一人でも多くの人に伝えるということだけです。そして少しでも多くの方が、地域の伝統や文化に目を向けてくれることを祈っています。
まだ、ほんの一部しか読ませて頂いていないのですが、
丁寧にご自身の疑問と事実や情報収集を探索されておられ、
「しばやんさんの日々」の本があれば…いいなぁと思うのであります。
出版は素人なので詳しくは分からないのですが。
昨今の効率化は異常事態だと思われます。
そして市民がおかしいなぁ?1くらいにしか
分からないようにマスコミで目を逸らしている状態と言えます。
小泉氏竹中氏の政権の事情を知る人たちは
彼らを売国奴と言ったのは本当で、日本郵政はあの時からGSが
(ゴールドマンサックス・オーナーはやはりロスチャ***・ロック**ー)、
大株主というのは御存じだと思われますが、
(植草一秀氏は郵政事情を暴露する本出版寸前であの冤罪…)
それ以降、GSの日本買いの嵐が吹き荒れて、一層の効率化が社会に蔓延。
日本の優良企業をマスコミで叩いて株価を下げて安値で株の大量買いという状態。
これは私の憶測ですが最近ではホテル関連株がGSに買い叩かれているのではと。
築地の水産卸業4軒のうち3軒までGSが大株主にだそうで。
セリさえも投機の対象になる可能性が…。?@▽@?;
日本人の母性的な社会や企業体質はすでに破壊され勤勉さだけをGSのような
企業に利用され効率重視人権自然環境無視の拝金企業へと急速に変貌するのが、
そうした書籍を読み見渡すと末端消費者の私には実感として迫ってきます。
ほんとうに無用の用の大切さを思います。できればのんびりした社会に戻してほしい…。
つづく (またです。すみません。 1/2)
なっていたのではないか…。というのも、
欧州権力者に天皇家に関する事実が共有されていてる…と仮定して、
血縁を重視する彼らには南朝が事実なら脅迫材料が希薄だから…という理由です。
田布施出身者のリーダーの利害のためのすり替えであれば、偽天皇を
マスコミ等で立て祀るほどに日本政府や宮内庁が身動きとれない状態になる(なっている)。
敗戦国を未だ背負いUSAからの年次要望書で
日本の行政が欧州権力者に突き動かされている…。
鬼塚氏のDVDの中で語っておられる話で。
鬼塚氏に著名な歴史学研究者から大室氏のことについて電話があり、
1時間程、真偽の問答になりその研究者の出身地を尋ねたら、
田布施であると語られています。それを加味すると南朝説は
捏造した話ではないかな…と。
私は歴史に無知ゆえの判断材料です…^^。
マスコミ全般、出版社も御用学者用マスコミ情報統制用と反体制思想の情報収集で、
何冊読んでも真実は社会に出てこないのが実際で、
結局は口伝と自力と想像しかないか…と。
ところで…話は飛びますが。
西暦535年に交野付近に隕石が落ち関西は壊滅的被害があったと
臨死体験者の某氏から聞きました。
被害の翌年あたりから
お隣の半島から渡来した皆さんが…壊滅的地域に救世主の印象を与えるべく
天皇家として実権を握りはじめ、連綿と続いてきたのが天皇家のはじまりなのだそうで。
足利時代の南朝北朝は私は無知なので発祥に限定しての話です。
それもひとつの説なので私には詳しくはわかりません。
堺市で鍛冶(隕石のお陰で資材ができた)の技術が発達したり、
交野に星にまつわる神社や地名が多いのも535年に由来があると聞きました。
(見つけたHPですが…某氏は各地で講演会)
http://murata35.chicappa.jp/soranokioku/index.htm
(また1000字超えてしまいました。あと一回…すんません、−−;しつこくて)
こちらのブログから自然と教えて頂けると思いました。
明治政府が突然に旧約聖書の7曜日を太陽暦と共に導入したこと。
お寺と神社を厳しく分離。Yダ教は殺生を戒める仏教が邪魔だったのか。
現況、お寺では僧侶から教義が檀家や参拝者とあるが、神社では皆無なのも、
自由さ寛容かと思いきや、実際はいつか入り込む隙間を狙って?!とか。
また、八百万神より天皇を神社のルーツの印象で強めている出版物が目につくこと…。
危機感と妄想が止まりません。*○*/
結局はなるようにしかならない…と。とりあえず頭を冷やします。
また、余分なことも書き過ぎ、失礼いたしました。
これからも楽しみに訪問させて頂きたく存じます。
今度こそ、以上です。^^ありがとうございます。
地方の生産者は都会の大手業者に安値で買いたたかれて、働いても働いても豊かになりません。地方では多くの企業が廃業して、若い人の雇用の場が失われていきます。
地域に富が残らず、都会の大手企業にばかり富が集中していくことが、景気回復策になると言い続けた連中は、日本全体をバランスよく豊かにすることは微塵も考えず、地方の企業を敗者にしてそのマーケットを収奪していくことしか考えていなかったのだと思います。
私は、古き良き日本の風土を少しでも長く残していくためには、消費者はできるだけ大手流通業者から物を買わず、できる限り田舎で生産者から農産物を買い、加工品は田舎の生産者から直接ネットで買うことが必要だと考えています。
日本人が日本の生産物を、なるべく生産者から買うことにこだわれば、いい製品を作っていれば地方によっては元気を取り戻すことになるのではないでしょうか。
外国資本からわが国の文化や経済を守るためには、消費者がそのことにこだわれば、流れが変わるかもしれないと期待しています。
しばやんさんの消費行動は
日本の元気につながっていくと思います。
それぞれがお金の使い方を目先の損得ではなく、
ちょっと考えれば、色々な人に巡りお役に立つ方法が
見つかりますね。
当方も卸問屋だったので、地方の隅々まで
お金が巡る日本のもともとの経済システムの
良さを改めて思います。
今の私は環境問題目線の消去法で考えているのですが、
飲料ペットボトル・自販機で買わない。
コンビニで買わない(最近ほぼ不要)。
アマゾンで買わない。
大手スーパーも極力買わない。身近な八百屋さんや
週一ファーマーズ市場で買う。
せっけん、重層を使い液体洗剤を使わない。
衣類は大量生産企業で購入しない。
外資系のガソリンスタンドを使わない。
海外ブランド品は買わない(買えない。^^)
時々の外食はできるだけ心ある個人の飲食店を利用する。
病院、薬も使わない。薬草茶や自然療法を活用。
玄米菜食をする。
理想は電気や水道、ガスもインフラから卒業したい位ですが、それは今のところ無理です。
霊長類は果菜食が本当の食べ物と聞きました。
フルータリアンを目指しています。
太古は地球が亜熱帯だった名残のようで…。
それもヒントだと思っています(^^)Y
何度もすみません。おじゃまいたしました。^^