Monday, November 30, 2015

朴裕河訴追問題を考える(2)被害の有無について

(2)被害の有無について

*前回、抗議声明を出したグループを「日本人」として一括したが、日本人以外の人物も含まれる。ここでは抗議声明に加わった日本人を対象として批判するが、(特に国籍や民族の差異が関連する場合以外の)基本的内容は日本人以外にも妥当すると考える。

「知識人」声明は、「何よりも、この本によって元慰安婦の方々の名誉が傷ついたとは思えず、むしろ慰安婦の 方々の哀しみの深さと複雑さが、韓国民のみならず日本の読者にも伝わったと感じています。」と述べる。

このように「知識人」声明は被害を否定する。しかも、理由を何一つ示さない。長い声明の他の箇所でも被害については何も言及していない。

本件は、「慰安婦」とされた被害女性たちが、名誉毀損であるとして告訴したことに始まる。告訴を受けた検察が名誉毀損の嫌疑があると判断した。それにもかかわらず、「知識人」声明は、理由すら示さずに被害を否定する。

朴裕河の著述が被害者に対する名誉毀損であり、侮辱であるということは、韓国内で以前から指摘されてきた。民事裁判でも名誉毀損が問われた。

日本国内でも朴裕河による名誉毀損や侮辱の疑いはかねてから繰り返し指摘されてきた。

また、2015年11月29日朝日新聞記事によると、11月28日、VAWW RAC主催のシンポジウムで 「鄭栄恒・明治学院大学准教授が『……慰安婦にされた女性たちの名誉が侵害されている』と批判した。」という。

このように被害者及び複数の人間が名誉毀損と判断してきた。

「知識人」たちは、被害女性たちに対して、「お前が被害を受けたかどうかはお前が判断することではない。日本人知識人が判断することだ」と言っているに等しい。「そんなことは言っていない」という弁解は成立しない。「それしか言っていない」と言うべきであろう。

自分たちが、かつての「慰安婦」問題の加害側に属することすら忘れた驚くべき傲慢さである。

被害者による告訴・告発があり、一定の嫌疑があれば、起訴するのは自然なことである。もちろん、「慰安婦」とされた女性たちが被害を感じても、日本刑法では保護法益は「被害感情」ではない。従って、本当に法的に保護するべき被害があったのか否か、被害者の特定ができるか否かを、裁判所が判断するであろう。刑事裁判では、ごく普通のことである。

次に重要なのは、被害とは何か、である。

日本刑法における名誉毀損では、「公然と」「事実を摘示」して「人の社会的評価を下げる」ことが「名誉毀損」とされる。

「慰安婦」被害者を、人道に対する罪の被害者や性奴隷制の被害者ではなく、日本軍人と同志的関係にあったとか、売春婦であると非難することは、「人の社会的評価を下げる」ことに当たるであろう。

しかし、検討するべきことは「社会的評価」だけではない。本件で問われるべきは「人間の尊厳」である。

「慰安婦」被害女性たちは、20年以上にわたって「尊厳の回復」を求めて闘ってきた。

人間の尊厳は現代国際人権法の基本概念である。1945年の国連憲章前文は、第2次大戦における戦争の惨害に言及し、基本的人権と人間の尊厳を掲げた。1948年の世界人権宣言前文は「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳」と表現した。同宣言第1条は「すべての人間は・・・尊厳と権利について平等である」とする。女性差別撤廃条約も拷問等禁止条約も子どもの権利条約も障害者権利条約も人間の尊厳を掲げる。

「慰安婦」問題では、1990年代に国連人権委員会などの人権機関で議論が行われ、人間の尊厳の回復が求められた。被害女性自身が一貫して「尊厳の回復」を訴えてきた。韓国の支援団体も、日本の多くの市民団体も「尊厳の回復」を唱えてきた。

ところが、名誉毀損被害を否定する「知識人」声明は、人間の尊厳について一切語らない。ここに「知識人」声明の正体を見て取ることができる。


第2次大戦期に奪われた人間の尊厳の回復が求められている「慰安婦」問題について、あれほど饒舌に語りながら、人間の尊厳については一切語らない「知識人」とは、いったい何者なのか。彼らには、「慰安婦」問題のような歴史的重大人権侵害かつ性奴隷制という問題について発言する資格がないだろう。