30日に死去した漫画家・水木しげるさんは、妖怪や戦争を描いた作品だけでなく、天衣無縫の人柄でも慕われた。その「大往生」を多くの人が悼んだ。

 東京・京王線調布駅近くの事務所には30日昼から旧知の編集者らが訪れた。ファンの花束や弔電も届けられた。柳田国男の「遠野物語」漫画化などを担当した元中央公論社社長の嶋中行雄さん(69)は訃報(ふほう)をテレビのテロップで知り、駆けつけた。水木さんとは1980年代に「ゲゲゲの鬼太郎」の愛蔵版を担当してからのつきあい。自らの体験から戦争のつらさや悲惨さを語っていたといい、「死体が川を流れてきたことや、ワニがそれをかじっていた話など、九死に一生を得て帰ってきたとおっしゃっていた」と振り返った。

 過酷な体験にもかかわらず、好奇心の強さと天性の明るさは変わらなかったようだ。水木さんの評伝を執筆したノンフィクション作家の足立倫行さん(67)は、文化人類学から人間の深層心理、哲学まで縦横に語る博識ぶりに舌を巻いたという。「戦場の悲惨な体験も笑いながら語っていた。『ゲゲゲの鬼太郎』で一番好きなキャラクターを尋ねると『ねずみ男』を挙げた。いつも人間や鬼太郎をだましながらも、何もなかったように平然と姿を現す。戦争の不条理を通じて人間の裏にある本質を見抜いていたのだと思います」

 評論家の呉智英さん(69)は70年代、シナリオスタッフとして漫画の構想を練って月に1回くらい届けていた。「とても愉快でユーモアのある人で、漫画の10倍面白い人だった。紙芝居から貸本、雑誌と、すべての漫画メディアで描いてきた貴重な人物。幸せな人生だったと思う」

 漫画家つげ義春さん(78)は若い頃の5、6年間、アシスタントをしていた。5、6年前に地元の神社で会ったのが最後だったという。「水木さんがいきなり『つまらんでしょ?』とおっしゃったので、私も『つまらんです』と答えた。すると『やっぱり!』。あれだけの成功を収めたにもかかわらず、人生に思い残すこととか物足りなく感じていることがあったのかなと思った。印象に残った会話です」

 妖怪の研究で知られる小松和彦・国際日本文化研究センター所長は、水木さんとは30年ほどの付き合い。「水木さんの膨大な妖怪画がなかったら、日本の妖怪研究がこんなに発展することはなかっただろう」。江戸時代の妖怪画の伝統を継承し、現代の新しい妖怪文化をつくる上で重要な役割を果たしたと考えている。「かわいらしさがあり、郷愁を呼び覚ました」。水木さんが自ら集めた妖怪の人形や資料に囲まれて幸せそうにしていた姿が印象に残る。「もっと長生きしてほしかった。残念です」

 アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」で何度も鬼太郎を演じた声優の野沢雅子さんは、所属事務所を通じてコメントを発表した。「気取らず生まれっぱなしのような純粋な方でした。いろんなところにいらっしゃるのがお好きでしたから、今もきっと旅に出られたんだろうなと思っています」

 NHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」で水木しげるさん役を演じた俳優・向井理さん(33)は水木さんと妻の布枝さんに会ったことがある。「お二人の醸し出す雰囲気が大好きで、憧れでした。今はただ、大好きなしげるさんのご冥福をお祈り致します」

 水木さんが少年時代を過ごした鳥取県境港市には、両親らが眠る菩提(ぼだい)寺「正福寺」がある。本堂には少年の頃、異界に興味を持つきっかけとなった「六道絵 地獄極楽絵」が掲げられ、境内には傘寿の記念で2002年2月に設置された水木さんの像も。

 13代目住職の永井光明(こうめい)さん(54)は、水木さんの業績について「これからも輝きを放ち続けるのでは」と言う。

 アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」のシリーズ第4作で主題歌を演奏した「憂歌団」のギタリスト内田勘太郎さん(61)は「妖怪のように120歳まで生きてくれると思っていたのに、残念です」と話した。

 小学生のころから近所の貸本屋で水木さんの作品を読んでいたといい、主題歌の演奏依頼がきたときは「それはもう、うれしかったですよ」と話す。

 第4作では憂歌団のオリジナル曲も使われた。普段はあまり作詞をしない内田さんが、「このときだけは『俺が、俺が』で書かせてもらいました」。鳥取県境港市で開かれた催しの打ち上げで、水木さんに「あの歌詞は君か。(アニメの意図が)よくわかっとるな」と褒められたのが忘れられない。「今はただ『ありがとう』と伝えたいです」