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漫画家 水木しげるさん死去
11月30日 13時04分

漫画家 水木しげるさん死去
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「ゲゲゲの鬼太郎」や「悪魔くん」など妖怪をテーマにした作品で知られる漫画家の水木しげるさんが、30日朝、東京都内の病院で多臓器不全のため亡くなりました。93歳でした。
水木さんは大正11年に大阪で生まれ、鳥取県の境港市で育ちました。高等小学校を卒業後、新聞配達などをしながらデッサンの勉強を続けていましたが、昭和18年に徴兵されて南方戦線に従軍し、爆撃のため左腕を失いました。復員後、紙芝居の画家やアパート経営などをへて昭和32年に漫画家としてデビューしました。
幼いころお年寄りから聞いたお化けや妖怪の話からイメージをふくらませた「悪魔くん」や「ゲゲゲの鬼太郎」などの漫画が大ヒットし、テレビや映画にもなって、妖怪ブームが起こるなど人気を集めました。また、自分の戦争体験を元にした「総員玉砕せよ!」や歴史上の人物を題材にした「劇画ヒットラー」では、戦争の愚かさや人の幸せとは何かを問いかけ、漫画界の第一人者として活躍しました。
ふるさとの鳥取県境港市に設けられた妖怪のブロンズ像が立ち並ぶ「水木しげるロード」には、毎年多くの観光客が訪れ、地域振興にも貢献してきました。また、妻の武良布枝さんが書いた自伝「ゲゲゲの女房」が平成22年にNHKの連続テレビ小説でドラマ化され、「ゲゲゲの~」がその年の流行語大賞に選ばれるなど、水木さん夫婦の生き方に多くの共感の声が寄せられ話題となりました。
水木さんは、平成3年に紫綬褒章を受章し、平成22年には文化功労者に選ばれています。
水木さんは平成26年12月に心筋梗塞で入院しましたが、平成27年2月に退院してから仕事場にも頻繁に訪れ、仕事の指示などをしてきたということです。
水木さんは今月11日、自宅で転倒し、頭を打って東京都内の病院に入院していたということですが、30日午前7時ごろ、多臓器不全のため93歳で亡くなりました。

弟の幸夫さん「優しい兄だった」

水木しげるさんの弟の武良幸夫さん(91)は、30日午後2時半ごろ、東京・調布市の水木しげるさんの事務所前でインタビューに答え「最後に会ったのは兄が今月上旬に入院したときで、亡くなるとは思わず驚いています。優しい兄でしたが、戦争の思い出になると話に力が入ったのを覚えています。天国で妖怪たちが友達になっているかもしれませんね」と話していました。

松本零士さん「最近まで精力的に創作活動」

水木しげるさんが亡くなったことについて、同じ漫画家で水木さんと親交があった松本零士さんは「水木さんは自分自身の戦争体験に基づいて、多くの作品を生み出されました。戦後も、『ゲゲゲの鬼太郎』という一つの大きなジャンルを築き上げられたのをはじめ、最近まで、年齢を感じさせないほど精力的に創作活動に取り組まれました。亡くなられたのがとても残念です」と話しています。

ちばてつやさん「戦友失ったよう」

水木しげるさんとおよそ50年にわたって親交のあった漫画家のちばてつやさんは「水木さんは大先輩ですが、デビューした時期が近かったため、漫画が悪書だと言われた時期からともに苦しい時代を生きてきました。戦友を失ったような気持ちでとてもつらいです」と話しました。また、水木さんの人柄について「パーティーなどで会ったときには、互いに『老けたなぁ』と言って頭をなであったことを覚えています。いたずらをしていつも誰かを笑わせようとする温かい人でした」と振り返りました。
さらに、みずからも自身の戦争体験に基づく作品のあるちばさんは、水木さんの戦争を描いた作品について「柔らかく温かくくすっと笑ってしまうようなユーモアの中に戦争のつらさがにじみ出る作品がたくさんあります。先輩として尊敬していましたし、戦争がどういうものかもっと描き続けてほしかったです」と話し、水木さんの死を惜しみました。

つげ義春さん「丁寧に細かく描くプロの職人」

水木しげるさんのアシスタントを務めるなど、およそ50年にわたって親交がある漫画家のつげ義春さんは「水木さんは絵を丁寧に細かく描くプロの職人で、彼の手伝いに行って以降、雑で汚かった私の作風も細かく丁寧になった。人柄は繊細だが表向きは太っ腹で、おうような人物だった。最近は体が弱っているという話を聞いていて、ついにこの時が来たかという気持ちだが、心よりご冥福をお祈り申し上げたい」と話しています。

鬼太郎役 ウエンツさん「ユーモアのある方」

実写版の映画「ゲゲゲの鬼太郎」で主人公、鬼太郎役を務めた、歌手で俳優のウエンツ瑛士さんはコメントを発表しました。この中でウエンツさんは、試写会で「ゲゲゲの鬼太郎」を見た水木さんから声をかけられた時のことを紹介し「先生が『君は77点だよ!』とおっしゃるので、ちょっと低いのかなと心配になったのですが、そのあと先生は『80点満点でね』と付け加えました。すごいユーモアのある方と驚きました」としています。そして、「先生はきっと今ごろ、あの世で自分自身がつくった妖怪とたわむれているじゃないでしょうか。先生はお亡くなりになりましたが、キャラは生き続けるので、演じさせていただいた僕は、これからも先生の思いをつなげていこうと思います」と水木さんの死を悼みました。

南伸坊さん「描きたい作品を描き続け 幸せな生涯」

1970年ごろ、漫画雑誌で水木しげるさんの編集者を務め、その後も親交が深かったイラストレーターの南伸坊さんは「水木さんの作業場の窓の外を猫が横切ると、いつもその様子をじっと眺めていたのが印象的でした。戦争中も兵隊に向かない性格で苦労をされたと聞きましたが、自由にのんびりと生きることを大切にする人で、子どもの読者にも『少年よ、がんばるなかれ』と書いた色紙をプレゼントしていました」と振り返りました。
そして「漫画の中でも世間的に正しいとされることとは違うことを多く描いていて、そこに、戦争を体験した水木さんが伝えたい真理があると思います。本当に描きたい作品を描き続け93歳まで寿命を全うした、幸せな生涯だったと思います」と、水木さんの死を悼んでいました。

京極夏彦さん「遺志を継ぎ”妖怪”推進に励む」

水木しげるさんと一緒に「世界妖怪協会」を設立した作家の京極夏彦さんは、「唯一無二の偉大な指標を失い、ことばもありません。水木しげる大先生の遺志を継ぎ、弟子筋一同「妖怪」推進に励むことを誓うとしか、今は申し上げられません。ご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。

四方田犬彦さん「日本人の心描き続けた功績に感謝」

漫画の研究で知られ著書の中で水木しげるさんについて取り上げてきた評論家の四方田犬彦さんは「悲しいという以上に、水木さんが日本人の心を描き続けてきたその功績に感謝したい。戦争体験を漫画という形で表現したことで、どんな知識人が戦争反対と訴えるよりもずっと強く子どもたちに戦争の悲惨さが伝わった」と水木さんの功績をたたえました。
また、四方田さんは水木さんが数多くの妖怪を描いてきたことについて「水木さんは人間社会の端っこでからかわれたりいじめられたりしていた妖怪を、彼ら独自の社会を持った存在として位置づけ、鬼太郎やねずみ男を通じてお互いに仲よく平和に暮らすことができることを描いた。水木さんの妖怪まんがは現代社会の中で、自分たちと違いのある相手にどう向き合うのかという問いかけに答えを与えてくれているのだと思う。これからの日本人こそ水木さんのまんがが必要だ」と話していました。

京都精華大 吉村副学長「影響は計り知れない」

水木しげるさんが亡くなったことについて、思想史と漫画研究が専門の京都精華大学の吉村和真副学長は「妖怪漫画の立役者という顔だけではなく、戦争体験で身に付いた思想を作品に表している点は非常に重要で、妖怪漫画にしても戦争体験の漫画にしても、不条理を突き抜けて前に進む方法や、その先にある明るい未来を説教くさくなく、ユーモアに示してくれたことが多くの人をはげまし、ファンの心を掴んだのではないか。戦後の日本人が手塚治虫と水木しげるという2人の漫画に触れた影響は計り知れない」と話しています。

水木しげる記念館 庄司館長「これからも業績伝える」

水木しげるさんの出身地鳥取県境港市で漫画の原画など数多くの作品を展示している「水木しげる記念館」の庄司行男館長は「あまりの突然のことで信じられません。子どもがそのまま成長したような、天真らんまんで飾らない人柄がとても魅力的な方でした。水木さんは常々、子どもたちに妖怪と仲よくなってもらいたいと話していたので、記念館としてはこれからも先生の業績を伝えていきたいと思います。長い間、本当にお疲れさまでしたと伝えたいです」と話していました。

鳥取県知事「巨星逝く 本当に残念」

鳥取県の平井知事は「巨星逝く、ということで本当に残念な気持ちでいっぱいですが、鳥取県や境港市に熱い思いを寄せていただき、育てていただいたことに心から感謝しています。漫画を世の中に普及させたほか、戦争体験を元にそうした歴史を繰り返してはいけないと伝えたことなど功績はどれも消えるものではないので、私たちもその意志を受け継いで子どもたちや孫たちの世代まで伝えていきたいです」と話していました。
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