殺人未遂のほう助の罪に問われました。
(拍手)林家三平でどうもスイマセン。
昭和の爆笑王林家三平さんが亡くなって35年。
命日の9月20日には毎年必ず一門総出で墓参りに訪れます。
今も固い絆で結ばれている一門。
束ねているのは…10年前長年慣れ親しんだ「こぶ平」を改め…実は「正蔵」という名跡は落語家だった祖父が名乗っていたものです。
正蔵さんは長年落語家という仕事を受け継いできた祖先の事を知りたいと思っていました。
「お前の母ちゃん耳から毛が出てるじゃねえか」。
「お前の母ちゃんブス」。
「お前の母ちゃんブス」。
「ちょっとやめなさいよ。
兄弟ゲンカは」。
(笑い)番組では正蔵さんに代わり家族の歴史を追いました。
風呂桶職人から落語家に転身した祖父七代目正蔵。
人気絶頂の中落語界が分裂。
紛争に巻き込まれます。
現在の一家の名字「海老名」。
江戸時代まで遡る意外なルーツが浮かび上がります。
そして落語家の3代目を目指した長男。
父三平の息子への知られざる思いがありました。
この日林家正蔵さんは自らのルーツと向き合う事になります。
九代目林家正蔵さんの本名は海老名泰孝。
祖父の七代目正蔵こと竹三郎については家族の間でもほとんど語られてきませんでした。
まずは七代目林家正蔵祖父竹三郎の人生をたどります。
戸籍によると竹三郎が生まれた場所は下谷区三ノ輪町。
今の台東区根岸です。
この辺りにはかつて長屋が連なり多くの職人が暮らしていました。
竹三郎はここで明治28年山家の五男として生まれます。
地元で竹三郎の事を伝え聞いている人がいます。
明治の頃から代々この地で暮らす…竹三郎の家があった場所に案内してもらいました。
(取材者)3軒目に…?竹三郎の家は濱中さんの父の代まで営んでいた質屋の隣で風呂桶を作る職人をしていたといいます。
ひのきなどの木の板を組み合わせ削りだして浴槽を作ります。
水分を吸うと膨らむ木の性質を利用し水の漏れない桶を作り上げる匠の技です。
竹三郎には風呂桶職人の他にもう一つの顔がありました。
「遊楽連」とは上野や浅草周辺で活動していた素人の芸人集団でした。
地元の図書館で遊楽連について書かれた本が見つかりました。
遊楽連の中心は竹三郎の父助三郎だったといいます。
演芸の歴史に詳しい瀧口雅仁さんに資料を見てもらいました。
そして竹三郎が二十歳になった頃転機が訪れます。
ある寄席に立ち寄った時の事です。
当時大人気だった講談師神田伯山の高座でした。
竹三郎は伯山の巧みな話術に魅了されます。
「自分もプロのはなし家になりたい」。
そう決意したのです。
竹三郎は仕事でつきあいのあったある知り合いのもとを訪ねました。
講談や落語を文字に書き起こす「講談落語速記」の第一人者でした。
講談や落語の速記本は寄席に行けない庶民に人気でした。
竹三郎は今村次郎にはなし家になりたいと頼み込みます。
紹介されたのが神田にあった寄席立花亭でした。
竹三郎を快く受け入れはなし家になるための面倒を見てくれたのは…息子の竹治さん90歳が当時の事を伝え聞いています。
立花亭で雑用係として働き始めた竹三郎はある落語家を紹介してもらいます。
英語を使った爆笑落語が人気を集めていました。
竹三郎は「柳家三平」という芸名をもらい弟子入りしました。
入門して3年後の…竹三郎は立花亭で高座デビューを果たしました。
27歳になった竹三郎は立花亭で働いていた女性と結婚しました。
相手の名前は内山歌。
後の正蔵さんの祖母です。
竹三郎は落語家としてすぐに頭角を現します。
そんな竹三郎に大阪の寄席からお呼びの声がかかりました。
上方落語を研究している…竹三郎の事が書かれた「演芸タイムス」という冊子を見せてくれました。
大正13年竹三郎はついに真打ちに昇進します。
一門の名人が代々名乗ってきた「柳家小三治」を襲名する事になったのです。
入門して僅か8年異例のスピード出世でした。
何しろ…。
真打ち柳家小三治となった竹三郎。
当時の名字は「山」。
正蔵さんの現在の名字「海老名」ではありませんでした。
海老名になった経緯は正蔵さんの母香葉子さんもよく分かりません。
海老名家に残されているのはこのつづら1つだけ。
他に手がかりはありません。
今回戸籍を詳しく調べてみると海老名家は竹三郎の母方の実家だという事が分かりました。
海老名家とは一体どんな家だったのか。
戸籍によると竹三郎の母海老名ていが生まれたのは…今の根岸3丁目の一角にあたります。
実は「箪笥」という言葉は江戸時代鉄砲などの武具を意味しました。
当時幕府は四谷麻布牛込下谷などに箪笥町を設置し武具を管理していました。
海老名家は下谷箪笥町で鉄砲の保守や管理を担当する鉄砲箪笥奉行の同心という役割の武士でした。
海老名家に跡継ぎがいなかったため竹三郎が養子に入ったと考えられます。
竹三郎と歌の間に男の子が生まれます。
長男海老名泰一郎。
後の林家三平です。
しかし翌年落語界の内紛をきっかけに小三治こと竹三郎は不遇の時代を迎えます。
師匠の柳家三語楼が所属していた東京落語協会に反発し脱退。
新しい協会を立ち上げました。
この動きに反対したのが柳家一門を長年支え竹三郎の恩人でもある立花亭の大森竹次郎でした。
竹三郎は悩みます。
師匠三語楼と共に脱退するか。
それとも世話になった立花亭のため協会にとどまるか。
悩んだ末師匠三語楼についていく道を選びました。
しかしこの行動は世間から批判を浴びる事になります。
この騒動が引き金となり小三治を名乗っていた竹三郎は更なるトラブルに見舞われます。
敵対する協会から竹三郎と同じ「柳家小三治」という落語家が現れたのです。
小三治が2人いるのは紛らわしいと落語ファンから批判が殺到しましたがどちらも譲りませんでした。
結局竹三郎が折れ小三治の名前を返上する事になりました。
そして落語界の紛争は収束。
それに合わせて竹三郎にある話が持ち込まれます。
江戸時代から6代続く大名跡「林家正蔵」を襲名しないかというものでした。
思ってもみなかったチャンス。
竹三郎は七代目林家正蔵を襲名します。
林家正蔵となった竹三郎は活躍の場を大阪にも広げます。
法善寺横丁に面した料亭。
かつてこの場所に正蔵が出ていた寄席がありました。
正蔵の落語を間近に見た事がある…当時の正蔵の落語が録音されていました。
埼玉県に住む…岡田さんは演芸関係のレコードを2万枚以上集めてきました。
代表作がこちら。
「平家物語」の常磐御前がカフェーを経営しているという設定の「常磐カフェー」という落語です。
生涯に発売されたレコードの数は65枚にも上りました。
正蔵は小学生になった長男泰一郎をよく寄席に連れていきました。
しかし泰一郎は落語家という仕事を快く思っていませんでした。
泰一郎が当時の事を振り返った記事が見つかりました。
日中戦争が始まると落語もその影響を受け始めます。
正蔵も国民服姿で舞台に立ち戦争協力の呼びかけをしました。
そして昭和16年10月落語家たちは恋愛や風俗など53の落語を自粛する事にします。
(取材者)はなし塚。
ええ。
浅草の本法寺にその時建てられた石碑が今も残されています。
53の落語の台本や扇子手ぬぐいなどがここに葬られました。
その年の12月太平洋戦争が勃発。
自粛ムードの中当時正蔵が演じた落語の記録が残されていました。
「出征」や「隣組」という言葉を使い庶民が笑える話を作りました。
戦争中の落語を中心に研究している…当時芸人が戦地の兵士たちの前で芸を披露する演芸慰問団の派遣が活発になっていました。
正蔵もビルマ現在のミャンマーなどを訪問する慰問団に加わります。
4か月にわたって各地を回り戦闘の合間に兵士に落語を披露し続けました。
当時の雑誌に正蔵の事が紹介されています。
漫談家の徳川夢声の日記に正蔵と共にビルマに慰問に行った時の事が書かれていました。
実はこの「相撲風景」の貴重な映像が残されています。
慰問に行けない戦地にこのフィルムを送り上映会をしたと考えられます。
昭和20年3月長男泰一郎に召集令状が届きます。
配属されたのは千葉県九十九里。
敵の本土上陸に備えて爆弾を持って隠れるための塹壕を掘る任務でした。
その年の8月泰一郎は千葉で終戦を迎えます。
間もなく東京に戻った泰一郎の目に飛び込んできたのは一面の焼け野原でした。
おふくろが見たら…。
昭和20年10月泰一郎後の林家三平は焼け野原になった東京に帰ってきました。
仕事がなくブラブラしていた泰一郎に父は落語家になる事を勧めました。
あまり乗り気ではありませんでしたが修業を始めます。
父の前座時代の名「三平」をもらいました。
それから間もなくたったある日三平は父の高座の裏で雑用をしていました。
実はそれまで父の落語をじっくり聴いた事がありませんでした。
ふと客席を見て驚きます。
(笑い)父の落語を聴いた客が腹の底から笑っていたのです。
戦後間もない娯楽の少ない時代客席は正蔵の落語見たさにいつも満席でした。
三平の姉の長男川島幹之さんが当時の様子を聞いています。
「父のようになりたい」。
三平は決意します。
当時の覚悟を香葉子さんが伝え聞いています。
(取材者)あっ三平さんがですか?そして父に稽古をつけてほしいと頼みました。
しかし父正蔵は一向に教えてくれる気配がありません。
…とだけしか言いませんでした。
入門して3年後の…思わぬ悲劇が起こります。
父正蔵が肝硬変のため54歳で急死したのです。
当時三平が書いていた日記が残されています。
日々の稽古の記録や感想がびっしりつづられる中…。
父正蔵が亡くなった日に書かれたのはたったひと言でした。
その後三平には「正蔵の息子」という肩書が重くのしかかりました。
前座時代の事です。
三平は覚えたての落語を披露しましたが全く笑いが起きません。
しらけた雰囲気の客席。
先輩からは「正蔵の息子がこれか」と後ろ指をさされました。
長年三平と親交があった三遊亭金馬さんが当時の事を覚えています。
よく一緒になると…そんな売れるって…三平は自分なりの落語を見つけようと先輩の芸を観察しました。
そんな三平の目に留まったのが2人の先輩芸人でした。
七五調のリズムで語る漫談風の落語が人気でした。
そしてもう一人は人気芸人の…レディースアンドジェントルマン。
アンドおとっつぁんおっかさん。
御用とビジーでない方はジャストちょっと待ってモーメント。
リッスンプリーズ聞いてちょうだいギッチョンチョン。
流行語や英語をテンポよくしゃべり続ける独特の芸が大人気でした。
三平は試行錯誤の末時事ネタや流行語を織り込んだ小咄を次々と繰り出す「三平落語」を開発。
すると人気が爆発しました。
その時に披露した落語の録音が残されていました。
「真打ちになりました。
どうもありがとうございます。
ほんとにどうもどうも」。
テレビが普及し始めたこの時代。
三平の分かりやすいギャグとオーバーなリアクションはテレビ時代の申し子としてお茶の間の人気者になりました。
昭和37年12月。
三平に待望の長男泰孝が生まれます。
後の正蔵さんです。
三平は泰孝をかわいがり泰孝の学校行事には必ず参加しました。
当時の事を泰孝さんの同級生大岩幸生さんが覚えています。
泰孝が生まれて以来三平はますます仕事に力を入れます。
寄席からテレビラジオと連日分刻みのスケジュールをこなしました。
しかし泰孝もまた父の仕事を嫌っていました。
同級生からからかわれていたのです。
泰孝が小学生時代の思い出を書いた記事です。
そんな泰孝の気持ちが一変したのが15歳の時。
かばん持ちとして生まれて初めて寄席の楽屋に入った時でした。
泰孝は父に言いました。
「弟子にして下さい」。
しかし三平は拒みます。
「なまはんかな気持ちでは落語家はつとまらない」。
良くも悪くも付きまとう「三平の息子」という重圧。
それに耐える事ができるのか。
それでも泰孝は諦めきれず三度目でようやく弟子入りを許されます。
「こぶ平」という名前をもらい修業を始めました。
舞台の袖から父の高座を改めて見た時の事です。
ところが父三平のこぶ平への態度はとにかく厳しいものでした。
稽古で少しでも言葉に詰まると鉄拳が飛んできました。
ふだんの言葉遣いや立ち居振る舞いまで細かく注意されました。
こぶ平の兄弟子林家鉄平さんが当時の事を覚えています。
しかしこぶ平が弟子入りして1年後の昭和54年。
それでも9か月後懸命のリハビリで復帰しました。
三平さん。
ジュテームザプラスオーシャンゼリゼ。
(笑いと拍手)ところが翌年今度は末期の肝臓がんが発覚。
昭和55年9月20日。
54歳の若さでこの世を去ったのです。
こぶ平が入門して僅か2年後の事でした。
要するに…東京・台東区にある…三平さんが生前使っていた遺品などを展示しています。
今回三平さんの日記を調べてもらっている最中思いがけないものが見つかりました。
(取材者)字は三平さんの字なんですか?それは三平さんが前座時代に書いたもの。
父正蔵が得意にしていた落語「源平盛衰記」を何度も書き写したものでした。
生前三平さんは特にこの落語にこだわっていました。
「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」。
「頼朝公襟を正して応接間に来てみますとまごうことなき弟の義経」。
「その方が義経であるか」。
「兄者人にござりまするか」。
「その方を見るにつけ亡き父上を思い出す」。
晩年三平さんのおはことまで言われるようになったこの落語。
しかしかつて見た父正蔵の「源平盛衰記」が頭から離れませんでした。
(拍手)こぶ平から九代目林家正蔵を襲名します。
九代目正蔵としての落語を模索する苦闘の日々が始まりました。
林家正蔵を継いで今年で10年。
「豆は美味いね〜。
でも下見るとくさいねこりゃ。
まぁいいや。
ここでもって食べてよう」。
「だんな行って参りました。
山田さんちはどなたもいらっしゃらなかったんです」。
精進を続ける正蔵さんについて落語界の先輩に聞きました。
そして七代目正蔵の代から親交のある三遊亭金馬さん。
2年前正蔵さんの長男泰良さんが落語家を目指して弟子入りしました。
父に何度も頭を下げた末の入門でした。
今はまだ前座。
4代目の落語家として師匠でもあり父でもある正蔵さんの背中を見ながら修業に励んでいます。
林家正蔵さんの「ファミリーヒストリー」。
そこには偉大な父の背中を追いかけ戦い続けてきた家族の歴史がありました。
大変なうちに生まれ育っちゃったんだなぁ…。
ああ…。
2015/11/27(金) 22:00〜22:49
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「林家正蔵〜祖父は伝説の落語家 父・三平の秘めた思い〜」[字]
九代目林家正蔵。祖父・七代目正蔵は、風呂おけ職人から落語家に転じた異色の経歴を持つ。これまで謎だった祖父の素顔が明らかに。そして、父・三平が語らなかった思いが。
詳細情報
番組内容
九代目林家正蔵。祖父・七代目正蔵は、風呂おけ職人から落語家に転じた異色の経歴を持つ。戦前から活躍した伝説の落語家だった。しかし父・三平は、祖父のことを語らず亡くなり、その人生は謎に満ちていた。取材で明らかになる祖父の素顔や思い。そして、父が祖父のことを語らかなった真意。さらに、一家の名字「海老名」の謎。元々、どんな家だったのか。浮かび上がったのは、幕府に仕えたある武士だった。驚きの事実の数々。
出演者
【語り】余貴美子,大江戸よし々
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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