(この文章は「文体実験」のために書かれたものです。「変わり映えしないよ」って言われると痛いですけど。前っから僕の『スケビ』の記事や、このHPのアーティクルをお読みの方には、内容的には「またかよ!」と思われるかも知れません。僕としては、より「単刀直入」な文章を目指して書いたもので、商業誌の場合よりは多少「鋭利」かと。ところで、聖徳太子は実在したのでしょうか?)(←注:商業誌への執筆活動は2001年8月をもって全面撤退しました。)

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(長文ご覚悟を!)


飴色に文句があるなら
何故あなたは黙っていた?!



 1986年にイラストレーターのN氏が、「従来の定説であった明灰白色の零戦は実在しなかった。本当の色は飴色。明灰白色は、戦後の模型・航空ジャーナリズムが生み出した虚構に過ぎない。」というようなことを書いた。これがいわゆる「零戦飴色説」の「華々しい」デビューである。その前の年には、先ごろ時効になった「グリコ・森永事件」をはじめ、阪神の優勝、豊田商事事件、日航ジャンボ機墜落事件などが起こっている。どれだけ昔かが分かろうというものだ。

 「飴色説」は、模型・航空ジャーナリズム界とその読者に波紋を広げた。そしてその後のN氏は精力的な「布教活動」の結果、「飴色」という言葉は急速に巷に広まって行き、ついには海外にも及んだのである。

 しかし、N氏が言うように、「零戦の塗色は明灰白色」というのが、1986年までの定説だったのだろうか? そんなことはない。「明灰緑色もあった」、あるいは「明灰白色と明灰緑色があった」、「明灰緑色だった」という考察を述べた記事は、それまでにも、いくらでもあった。N氏(およびその説の盲目的信奉者)は、何故か分からないが、「明灰緑色説」を、極力考えないようにした。あるいは意図的に無視したように思われる。

 1986年以来、少なからぬモデラーやリサーチャー(研究者)は、「飴色説」に戸惑いを見せて来た。しかし彼らは、明確な反証をもってそれを批判したり、批判的意見を模型・航空ジャーナリズムに発表したりはしなかった(吉村仁氏の若干の記事を除いて)。積極的に支持をする、あるいはバックアップをする記事は登場していない。無批判に追随する低次元な記事はあったが。

 その結果「飴色説」は、長期にわたって野放しにされてきた。

 はっきり言って「飴色説」は誤謬に満ちている。しかし、誤謬を巷に溢れさせた罪は、誤謬を発信し続けた側のみならず、その蔓延を傍観・放置していた側にもある。僕が後者に属していたことを否定するつもりはない。

 ろくに検証もせずに、「違うと思うんだけど....」と言う人もいた。「Nさんの言うことなんて信じない」などと遠吠えしている人もいた。どちらにせよ、それなりの場でそれなりの記事にしなくては、全く意味をなさないのである。

 僕は『スケールアビエーション』誌上で、一連の「飴色批判」の記事を書いた。それは、それらの「陰の声」「声なき声」的な「飴色」に批判的な見解を、集約・補完するものだったと思う。「多くの研究者が漠然と考えていたことを、地道な検討を積み重ねた結果、はっきりと立証してみせた」と言えるかも知れない。

 それは同時に、「傷ついて血を流すこと、返り血浴びることを嫌がっていたのでは、状況は変えられない」ということを証明することでもあった。業界の先輩にたてつくということは、厳しく苦しいものである。やってみた者でなければ分からない。(僕は基本的にいまでもN氏を尊敬している。どこかの誰かさんのような、乱暴な批判をする気にはなれない。)

 それでも僕は「飴色批判」を書かずにはいられなかった。21世紀まで誤謬が伝達されることには耐えられなかったからだ。一人のモデルジャーナリストの良心として、自らの存在を賭けて、「まれにみるドンキホーテ的行動」を続けたのである。「今やらないでいつできる。僕がやらずに誰がやる。」という心境だった。

 「なぜ、かつて親しかったN氏に反旗を翻すような真似をするのか?」という疑問への答えは明白だ。僕がN氏の考えに従えば、二人とも間違ってしまうからである。真実は僕によって語られることを待っていたのだ。

 「人間は間違いを犯す動物」であるから、誤ったこと自体を非難するつもりは僕には全くない。長年記事を書いていれば、そういうことが複数回起こチても、何ら不思議ではないだろう。しかし、同じパターンの過ちを繰り返すことは極力避けるべきである。また、自分に非がある場合、それを率直に認めて読者に対して謝罪することもなされてしかるべきだと思う。

 背景には模型・航空ジャーナリズムが抱えている様々な問題があるから、N氏一人を責めるつもりは僕にはない。とかく矢面に立って気の毒という感じさえする。




 N氏の誤りを簡単にまとめてしまうと、文献史料『空技報0266号』の中の記述「現用零戦の塗色は、灰色のわずかに飴色がかりたる色」を、「飴色」と短縮して解釈・表現してしまったところにある。

 同文献の中には確かに「飴色」・「現用飴色」という記述が見られる。だがそれは、同文献が、リストと短いコメントからなっているため、短縮して表現せざるを得なかったからである。当時の零戦の塗色が、公式に、または一般的に、「飴色」と呼ばれていたわけではない。

 「灰色のわずかに飴色がかりたる色」は、本質的に「灰色」である。これは、日本語にさほど強くない向きにとっても明らかだろう。「わずかに青っぽいガルグレー」を短縮して表現する場合に「青」という人はいないし、「ダックエッググリーン」は「ダック」とは略さないのである。

 つまり『空技報0266』の記述は、「零戦が明灰色であった」という事実を否定して「歴史の常識」の見直しを迫るものではないのだ。「零戦は明灰色だった」ことを証明するものなのである。一人よがりの大騒ぎをする必要はなかったのだ。(ただし、その「灰色」は、ただの白黒混合ではなかったというのが僕の主張だ。同時にN氏の主張でもある。後述のように、その色調については、食い違いを見せているのだが。)

 ましてやN氏が、戦争後期の下面色まで「飴色」と表現したのは短絡的であり、勇み足であったといえる。さらに、「明灰白色にニスを塗った結果、緑褐色じみた『飴色』になった」という表現に至っては、「論理のとっちらかり」という他はない。どこの世界に、緑褐色のニスがあるのだろう。しかも、ニスが塗られていた零戦の実在を証明する確実な証拠は、文献であれ物証であれ、どこにもないのである。

 「飴色説」にからむ諸情報の混乱の主因は、『0266』の全文が未だ一部しか公にされず、それに添付されたカラーチップがビジュアル的に公開されていないためである。このために僕は12年間遠回りをした(翻弄されたといってもよい)。現在それが誰に所有権があり、どこにあるかは知らないが、早急に公開して戴きたいものである。もちろん、現所有者がそれを入手するために手間ひまや金はかかったものと思われるから、ただでという訳には行くまい。出版社がそれなりの報酬を払う必要がある。

 とはいえ、本来『0266』は個人のものでなく、国家のものであり、民族共有の文化遺産である。それを個人が囲い込むことはいかがなものだろうか。

 あえて一言付け加えれば、いまさら『0266』はそういった秘匿に値する文書か、ということがある。僕の『スケビ』の記事によって、その全貌はおぼろげながらも明らかになっている。また、そこに添付されているカラーチップにしても、もはや特ダネというほどのものでもない。『スケビ』に掲載されたジェームズ・ランズデール氏の誠実なリサーチと僕の史料検証が出る前と出た後とでは、このフィールドの情勢は違うのである。
 (なお、誤解している方がいるといけないので、あえて付け加えておくと、『0266』には零戦に使われた塗料そのものが添付されている訳でもない。)




 零戦が灰色だったということは、「取り扱い説明書」に当たるものの中に「灰鼠色」と表現されていることでも明らかである。

 その灰色が緑がかっていたことは、設計者の堀越二郎氏の回想記が証明している。

 さらに、アリューシャン列島で米軍が新品同様の零戦を手に入れた直後の報告書に「青緑がかった明灰色」とあることも、動かしがたい事実である。

 また、比較的最近発掘された坂井三郎氏の零戦の断片が「明灰青色」を呈していることは、色調にバラ付きがあったことの証明であるが、かけ離れた色というわけではない。

 この4つの証拠だけでも、零戦が「灰緑色」であったことは、何ら疑いのない事実といえる。

 しかしN氏は近年、零戦の塗色を「緑褐色」と断言している。「FSでいえば24201がそのものズバリ」とN氏はいうが、むしろ「若干緑みがかった黄土色」と解釈しているようだ。

 N氏は、米国人から物々交換でもらった(?)零戦の断片と、ニュージーランドで見た零戦の外板色から、そう断定している。「実物があるのだから、自分がこの目で見たのだから、確かだ」というのがN氏の主張だ。

 だが、「物証があるかないか」は問題ではない。「物証を正しく分析・判断すること」こそが必要なのである。

 50年以上も経った塗料が変色していないはずはない。どういう保存のされ方がなされようとも、変色は止められないものだ。「塗料に含まれたフェノール分は、経年変化で褐色化する」というのは、ちょっと塗料に詳しい人なら皆知っていることである。

 したがって、「現存するスペシメンの色からは、褐色みを割り引きしない限り、元の色の正しい推定は出来ない」というのは、明々白々の事実なのだ。この僕の主張のどこが「こむずかしい屁理屈」なのだろうか。

 現存するスペシメンの色を、元の色とイコールと断定するのは危険である。また、スペシメンがないにしても、史料・証言・現存する絵など様々な要素を総合すると、スペシメンだけでは見えないものも見えてくるはずだ。スペシメンだけにこだわると、かえって事実から遠のく恐れがある。

 僕は、明快で科学的な検証と推論の結果として、「飴色という表現は間違い」、「零戦は灰緑色だった」と書いてきた。にもかかわらず、いまだに「飴色」という言葉を使ったり、「零戦の色には諸説がある」などと言ったりする模型誌読者(ライターも含む)がいる。あきれ返るという他はない。「飴色の真偽はともかく、黒須さんの記事には説得力がある」といった人もいるが、「だったら説得されればいいじゃない。何を今さらためらってるの。真偽は明らかでしょ。」と言いたい。

 2説を並列的に考えるのが民主主義、利口な考え方、なのだろうか。僕は、より科学的な考え方に軍配を上げるのが、真に利口な考え方だと思う。
 この世の中、とかく「どっちもどっちだ」と言って両者に対して斜に構える姿勢を採ったり、「両方とも一理ある」と言って自分の「考えの広さ」なるものを誇示したりする風潮がある。「旗幟を鮮明にしないことが理性だ」とでもいうのだろうか。そんないい加減な理性は、野良犬の餌にもならない。

  『スケビ』誌上で展開した僕の史料検討は、十分に説得力があり、スペシメンの色調の解釈も周到であったと信じる。もはや議論の余地はないとさえ思う。 僕がやったことは、ある意味「蛮勇を振るった問題提起」だったが、零戦塗色研究の流れは、今後僕の解釈の正当性を証明する方向に進んで行くものと思う。

 とはいえ僕も、自説を積極的に証明したり他説に反証したりする材料がいまだ不十分であるという自覚はある(隠し玉の物証は2つ3つあり、いずれ公にするが。)。僕の「問題提起」がきっかけになって、新たな証言や史料あるいはスペシメンなどが出てくることを心から期待するものだ。実際、『航空ファン』などで、いままで語られなかった・論じられなかったことが記事になったりしているのは喜ばしいことである(細部では疑問もないではないが。それに黒木一美って女性は誰?)

 証言者が漸減している(亡くなっている)ことに、危機感を抱いている人もいる。それは確かに、研究の前途を暗くする事実である。
 しかし反面、そのような関係者の死去に伴って、その所有物が白日の元に出てくるという可能性はある。それは今後の日本機研究にとって、明るい材料といえるだろう。(ご遺族が間違った行動をとらなければ。) いずれにしても、今後N氏の偏愛する若干緑みを帯びた黄土色が零戦の色だったとする証拠は出てこないと思う。そういう色のスペシメンが出てくる可能性はあるが、変色結果と考えるのが自然である。

 灰緑色の実在性が揺らぐなどということは、今後も決して有り得ない。

 最近文林堂から刊行された写真集『海鷲とともに』の中には、戦時中に描かれた絵が収録されており、その中の零戦は、見事に灰緑色である。「ミッドウェー海戦から80日ほどのちに描かれたもので、40日の間見なれた零戦の塗色をできるだけ正確に再現した」ものだという。

 前述のように、1986年まで世間には「零戦は明灰白色あるいは明灰緑色」という考えしか存在しなかった。1945年の終戦からその時点まで、その説が生き延びたのは何故か。真実だからである。もしも「飴色の零戦」とやらがこの世に存在したならば、「零戦は明灰色だの明灰緑色じゃねえ。てやんでえべらぼうめ。おいらは茶色っぽい零戦をゴマンと見て来たぞ!」という意見が出て来たはずだ。「そうだ、そうだ!」という大バックコーラスも起こったことだろう。

 つまり、「零戦は明灰白色あるいは明灰緑色」という考えは、historically-tested, time-tested(歴史の試練を経た、時間によって正当性が証明された)なものだったわけだ。「歴史の常識」として多くの人が納得してきた考えに対して、僕は敬意を払う。

 近年、『長谷川』の零戦(など)の説明書に、「飴色」という表現や、それ臭い色の指定がなされていることがある。モデラーはこれを見て、「大会社の長谷川がそういうんだから、小物色物ライターの黒須がいうことより正しいに違いない。」と思うだろう。
 しかし、貴方は知っているだろうか。長谷川主催のイベントである『JMC』に、何人もの長谷川の社員が合作して作った空母甲板の大きなジオラマが展示されていたが、そこに並べられていた零戦は、いずれも明灰色に塗られていたのだ。長谷川の社員たちも、本音では「飴色」など信じているわけではないのである。

 『スケビ』の記事やこのHPのアーティクルでの僕の飴色批判を、恨みが動機かと邪推する向きもあるようだ。
 しかし、僕は単に、眼の前の曇ったガラスを手で拭いて、真実が見たかっただけである。そして、自分が真実を知ったからには、他の人にもそれを知って欲しかったのだ。書いたことで僕は一層『0266』を見るチャンスからは遠ざかったが、いまさらそれを惜しいとは思わない。そんなものは見なくとも、もはや僕は真実に到達しているからである。