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旅と読書と歴史のブログ

旅行と読書と歴史が趣味のブログ主が、読書日記を中心に、日々考えていることなどを記載するブログです。

大学入試問題から日本史を考える(3)~戦国大名の特徴とは~

歴史

社会批評的な話が続いたので、今回は歴史プロパーの話を。

元ネタは2002年東大入試から。

 

(2002年東大入試より)

次のア〜エの文章を読んで,下記のA〜Dに答えなさい。

ア 室町時代,国人たちは在地に居館を設け,地侍たちと主従関係を結んでいた。従者となった地侍たちは惣村の指導者層でもあったが,平時から武装しており,主君である国人が戦争に参加するときには,これに従って出陣した。
イ 戦国大名は,自分に従う国人たちの所領の検地を行い,そこに住む人々を,年貢を負担する者と,軍役を負担する者とに区別していった。そして国人や軍役を負担する人々を城下町に集住させようとした。
ウ 近世大名は,家臣たちを城下町に強制的に集住させ,領国内外から商人・手工業者を呼び集めたので,城下町は,領国の政治・経済の中心地として発展していった。
エ 近世の村は,農民の生産と生活のための共同体であると同時に,支配の末端組織としての性格も与えられた。

設問
A 室町時代地侍たちは,幕府・大名・荘園領主たちと対立することもあった。具体的にどのような行動であったか。3行以内で述べなさい。
B 戦国大名は,何を目的として城下町に家臣たちを集住させようとしたのか,4行以内で述べなさい。
C 近世大名は,城下町に呼び集めた商人・手工業者をどのように扱ったか。居住のしかたと与えた特権について,3行以内で述べなさい。
D 近世の村がもつ二つの側面とその相互の関係について,4行以内で説明しなさい。

 

それぞれの設問は知識問題なんですが、この流れは室町→江戸の支配体制の変化を考えていく上で参考になりますね。

まず室町時代は、国人は土地に定着して地侍を支配し、さらに地侍は村を指導して、かつ武装して、戦争の際には国人に従い出陣しました。この時、国人の上位にいるはずの守護の存在は出てきません。つまり、室町時代の支配体制は、あくまで地域レベルでは、地侍が惣村をまとめ、それをさらに国人がまとめ、国人を国単位で守護大名がまとめる、という重層的な支配体制が想定されていたことがわかります。

※この過程については以前の記事で書いたとおりです。

 

しかし、この体制だと、場合によっては、村を実際に支配しているのは地侍なので、場合によってはその上位の支配者の命令に従わず、対立を生じることになります。特に、応仁の乱以降、守護や幕府の権威が弱まると、その傾向は特に顕著になりました。

 

そこで、これを克服するための試みがイになります。自分の家臣になった地侍に対しては、その土地から切り離して、自分の目の届く範囲内に置いて監視する、一方、農村に対しては、自らが直接その生産量を把握し、年貢を課す、それこそが、戦国大名の最大の特徴ということになります。

 

しかし、このやり方には一つ問題があります。

元々地侍たちは、生産力を持つ農村で、農業を営みつつ生活してきました。そのため、土地と切り離されると、日々の糧を得ることができず、生活していくことが困難になります。特に、戦乱が集結した近世以降は、新たに土地を敵から奪うということが想定されなくなったため、その問題はむしろ顕著になってきます。

 

その解決策がウです。つまり、農業の代わりに、城下町の商工業の発展を促すことで、城下町に集住した家臣団への物資供給を図ろうとしました。

一方、農村については、指導者層である地侍がいなくなったことで、大名が村単位で直接農民を支配する体制を取ることになります。その結果がエなわけですが、江戸時代以降の支配体制については、また稿を改めて書きたいと思います。

 

 

 

 

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