集団の価値

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レオナルド・ダ・ヴィンチが万能の天才というわけではなかった、というのが最近の通説であることは、前にも書いた。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/06/sfumato/

「天才ではなかった」というわけではありません。
ヴィンチ村のレオナルドは、正真正銘の天才だった。
人間の才能は不公平で、ロシアや中国の富の再分配の失敗どころではなくて、
神様の才能の再分配の失敗は、才能に欠けた「筋が悪い人」はどこまでも筋が悪く、才能にあふれた、才能がありすぎて、いっそ才能の洪水で自分の一生が押し流されてしまいそうな人は、だいたいにおいて何をやっても、まず「センスのよさ」において、ずば抜けている。

投資の世界にはEVAという基本的な指標がある。
Economic Value Addedの略で、簡単に言えば投資コストを勘案した事業利益で、理屈の上から言うと、未来の一点に想定したEVAを集計して、一定金利で現在の価値に翻訳すればMVA(市場付加価値)が判ることになる。

多角事業経営が、たいていの場合うまくいかないのはEVAという概念を欠いた経営であるからで、個人もおなじ、いろいろなものに手を出しても、労力の投下コストばかりがおおきくて何も達成できないで寿命がつきてしまう。

レオナルドたちは、どうやら、数学者、建築家、画家、というような異業種人で集まって「勉強会」をしていたらしい。

ルネサンスの「万能の天才」の正体は、「共同作業」で、どの勉強会にもどの「共同作業」にも画家がくわわっているところが「イタリアだなあ」と、感じる。

「日本人は集団作業が下手だ」と書いて、なんだかいっぱい抗議されたことがある。
おまえは、日本人が世界でも有名な集団行動の天才なのを知らないのか。

わし日本語友が、多国籍な宿にいるときの経験を書いている。
週三回、日本人が集まって、同宿人に日本食を供していたことがあったが、いつもうまく出来た。
イタリア料理をつくってみたこともあったが、これもおいしく出来た。

スペインの人たちが、ではスペイン人が集まってスペイン料理を、ということになって、トルティーアをつくることにした。
ところが、みな各々のレシピを主張して、喧嘩になって、なにも供せなかった。
そういうことが二度あって、三度目はなかったんだよね。

いつも、反応が「かわいくない」わしの返答は、
「ところが、ぼくには、その場合、スペイン人こそが共同作業をしていて日本人のほうは単なる同化→洗練作業をしているだけのようにみえる」

とあります。
なんという、にくたらしさ。

「議論」と「喧嘩」がはっきり区別されるのは北海のイナカモノ、連合王国人の伝統で、地中海文化に属するスペイン人たちは議論と喧嘩が、そんなにはっきりしていない。
喧嘩をするけど仲直りをして、また喧嘩をくりかえして、仲直りを繰り返す。
スペイン人については外国人として「浅い観察」をしているに過ぎないが、見ていると、特に「庶民」に限らず、社会の上層でもおなじに見えます。

たとえばフェラーリの美しい線をみると、あの美しさが回転も音もいい、強烈なエンジンが載ったクルマになるためには、「集団協業」がほぼ完璧にできなければならないが、フェラーリ本社のあるエミリア=ロマーニャに1ヶ月いるだけでも、その「協業」の正体の察しがついて、くすくす笑いたい気持ちになってしまう。
スピットファイアが、ほとんど、たったひとりの技術者の頭から生まれた「孤独な太陽の産物」であるのと較べると、よい対照であるとおもう。

あるいは、現代の数学世界では(フェルマーの大定理を証明した)Andrew Wilesのようなタイプの数学者は少数派で、議論することによって新しく発想をえて、前にすすんでゆく。
ひとりで考えたり、みなで同じことにうなずきあっていたりするよりも、遙かに効率がいいからです。

日本でも経済の教授と物理の教授、文学部の教授と数学教授が「世間話」をすることによって、たとえば湯川秀樹や朝永振一郎のような(チョーかっこわるい言い方をすると)「ノーベル賞受賞学者」が生まれた「駸々堂」のようなものが、かつては存在した。

「欧州人の三大発明」はオオウソで、羅針盤も火薬も印刷も、ほんとうは中国人の発明をまねっこしただけなのは、もう誰でも知っているくらいばれている。
トルコ人の友達と話していると「欧州人はマネ以外したことがないじゃないか。なんか自分でつくったものはないのか? 欧州文明っつーけど、そんなもん、ほんとうにあんの?」と言って、からかわれるので頭にくるが、この人はアメリカで高等教育を受けた頭のいいおっちゃんで、下手に反論しようものなら、スパゲッティだって、セモリナでつくった中華麺でしょうが、紙は? 数学だってアラビア半島から来たのちゃうの?とかボロカスに言われそうなので、ゆいいつ、これだけは欧州人が常勝する、飲酒に頼って、相手のグラスになみなみなみとワインを注いで、黙らせる。

日本語人が考えるよすがに使っている漢字はもちろん、歴史を通じて、多分、最も独創力に富んだ民族集団である漢民族が、敗退して、現代においては「マネッコ民族」と揶揄されるに至ったのは、北の騎馬民族と南の日本人による暴力と支配に疲弊したことに加えて、朱子学の訓詁に典型だが、「重箱の隅をつつく」議論ばかりはじめるようになって、互いに疎外された知性がおよそ知的創造からは遠いところで、お互いを罵りあうだけ
というところまで 「知的協業」が堕落しておちぶれたからでしょう。
実際、清代以降の中国人ほど洗練された「嫌味」が上手だった知識人をもつ文明は他には存在しない。

皮肉屋と、勘違いした糾弾者は、「わし勝った」の滑稽な勝ち鬨は、ひとつの知的世界の墓標だが、中国は皮肉屋と阿Q的勝利者と糾弾者が洪水のように溢れた近代を卒して、ようやく 本来の「創造者」に戻りつつある。

「模倣文化」は市場における大規模経済がリスクを避けるための一時的な「リスク回避策」にしかすぎないのは、見ていて手にとるようにわかります。
21世紀後半の「驚天動地」の発明は、再び、中国文明から生まれてくるに違いない。

「駸々堂」の、のびやかなずぼらさ、「せやな、そうかもしれんな。考えておくわ」の繰り返しで、次から次へ、世界を語りはじめてゆく知的創造力は、日本語世界から姿を消してしまったように見えます。

おおきく異なる個性が共存しえなくなった集団には、協業という行為そのものが(定義上)ありえなくて、盲従機械が並んだ平凡な知性の大量生産ラインが出来上がるだけだ、という、よく知られた理屈のとおりで、ただそれだけのことなのかもしれないけど

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