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薄学多災

不登校発ひきこもり経由ニート予備軍、その半生と今

凍結の水面下

日記・雑記

結果的には2週間弱で解除…となったものの、一度ブログを凍結すると決めた自分。

 

disappear9803.hatenablog.com

 

たとえ細々でも続けてきたブログを、一度手放すことにした理由。

凍結中に思ったこと。

そして、凍結解除を決めた経緯などを記す。

 

過程に意義を見いだせない

一言で言うなら、「自分自身が、ブログを書くことに意義を感じなくなった」ということ。
 
現状、このブログは自分の思ったこと(特に、抱えきれないネガティブな気持ち)を、ただ吐き出す場。
いわゆる日記ブログに過ぎず、トレンドやニュースへの言及もなければ、アクセスアップの方策などロジカルな運営を心がけているわけでもない。
ましてや、論壇・文壇としての「はてな」にコミットする気もさらさらない。
 
自分が書きたいことを、書きたいままに書くだけ。
言い換えれば「書きたい」と思えなくなれば、そこまで。
「あまり書きたくないけど、PVや収益のために頑張って更新するぞ」など、書く過程に意義をあたえ、モチベーションを再燃させるだけの目的意識はない。
 
その「書きたい」というシンプルな動機・意義を、自分は感じなくなってしまったのだ。
凍結直前に上げた記事。自分にとっては定番の、ネガティブな気持ちを吐き出しただけの文章。
週にたったの1記事、それもこの程度の愚痴を書くのに、自分はとても消耗した。
 
長時間、編集画面とにらみ合う。その間はほとんど、文字を打っていない。
「どうしよう」「何を書こう」「面倒」「この表現はダメ」「これは誤解される」
そうした感情が、頭の中をめぐっているだけ。
 
それは、納得のいく記事を書くための葛藤というより、「書くことそれ自体」が苦痛でたまらないという心の叫びでもあった。
 
こんな思いまでして書いたところで、何になるのか――。
 
「ブログを書く」という営みが、極めて不毛で、無意味に思えてならなくなっていた。
 
理屈をこね回すのに疲れた。悩みの堂々巡りに疲れた。
書くことが気持ちの整理にならなくもないが、そのメリットに対して、労力が釣り合わない。
いや、気持ちの安定を得るためのプロセスで、なかば錯乱状態…というのでは本末転倒、逆効果ではないか?
 
もうブログは潮時かもしれない。
そんなことをうっすら考えながら書き上げ、アップした。
 

放り出した

苦悶と諦めから生まれた記事。それに対し、Twitter上で次のような指摘を頂いた。
 
「『自分は真面目な人間』などというのは半分間違いだ。基本的に真面目でも、時には適当な思考で動くこともあり、一個人を『こうだ』と言い切れることはまずない。自分の一つの側面しか見ていないのではないか」
(要旨)
 
ぐうの音も出なかった。
ああだこうだと体裁よく書いても、結局は「そういうこと」。
「書くこと」は、やはり逆効果。気持ちを整理しようともがきながら書いたところで、ますます視野が狭まり、こじれていくだけにすぎないと思った。
 
健全な(偏見じみた言い方だが)ブロガーならば、そうした指摘を真摯に受け止め、きちんとフィードバックして新たな記事を……などと、勤勉な姿勢になれるのだろう。
 
だが自分にとって、それは「今の状態で『書くこと』を続けるのは、不毛で、非生産的」ということを客観的に裏付ける根拠、「やっぱりダメだ」と、ブログを放り出す決定打にしかなりえなかった。
 
こうして、先の記事の投稿後ほどなく、自分は「無期限凍結中」の文言を掲げ、このブログを非公開設定にした。
 
「開店休業」を苦行のごとく、嫌々続ける。そんな腐れ縁のようなブログなら、いっそ切ってしまえばいい。
そうして肩の荷が降りることで、見えてくるもの、得られるものもあるかもしれない。これはある種の断捨離だ、とも思った。
 

蓄積する恨み節

以後自分は、下書きに使っていたEvernoteへ、負の感情をぶつけた。
その大半は、「ブログというもの」に対する恨み節。他のブロガーへのやっかみや、「ブロガーとしての自分」への不平不満だ。
 
狭窄した視野の修正なら認知療法が効果的であり、ブログで整理というのは間違い。しょせんブログは、自分の手に余る生兵法なのだ。
 
生き生きした文章の書き手は、相対的に広い世界、広い視野で生きてきた人たちばかり。
そして論理の巧みさはもちろん、「何をどう感じたか」という心を大切にしていて、血の通った言葉を紡いでいる。
 
いや、頭だ心だと、そういうものも一概に線引きはできず、しょせんこの考察も「一つの側面しか見えていない」のだろう。
しかし、自分はそうとしか書きようがない。
 
狭い世界、狭い視野で生きてきた事実は変わらず、ブログを通じてそれが大きく変容することもなかった。
「新しい一面」を見いだせたようでいて、その実、変わりようのない自分の身の程を、今一度思い知らされたという印象が強い。
 
それと、「内面をさらけだすことで共感の輪が広がる」とかいう幻想を、開設当初は抱いていた。
そんな入れ食い状態、誰でも起こるわけはないのに。
 
「文章力」を評価されてきたからといって、それがなんぼのものか。
そんなのは単に「言葉を組み合わせて、文章を構築する能力に長けている」だけ。その「構築力」と、読者の心に響き、共感や賛同を引き出す「力のある文章」は、イコールしない。
 
そもそも、アダルトチルドレン的で人情の機微を解さず、小手先の誠実さと理屈で「守りの人生」を生きてきた者が、「心のままに」「内面をさらけ出す」ことなどできるのか?
感じたことを二重三重に加工して、理屈という枠に押し込めたただけではないか?
 
「他人は自分を映す鏡」だと聞く。
理屈をぶつけたら、基本、理屈が返ってくるのだろう。
例の記事も、「自分はこうだ」と理屈っぽく書いたからこそ、「いや、それはこうだろう」という、至極論理的な反応が返ってきたのでは?
 
心のままに書いたなら、きっと「心でどう感じたか、心がどう動いたか」についての反響がくる。
*1で「体のよさだけでは、人と真に触れ合えない」ことを知り、また他のブログでの記事→コメントのやりとりを見るにつけ、そう確信していった。
 
文章が上手い人。明るく楽しい記事が書ける人。
思えば、そうした猛者揃いのブログ界に身を置き、早々に「戦意喪失」状態に陥っていた。
 
「人生詰んでるんだから、好き放題やるぜ!」と鼻息荒く開設。
過去、複数の人から評価された「文章力」、その延長線上で発見した「自分史」という表現スタイルで突き進む算段でいたが、無様に失速。
 
どうせ素質がないから。
ネガティブで稚拙な記事の繰り返しでは、人が寄りつかないだろうから。
思ったことをただ吐き出すなら、Twitterで充分だから。
 
更新頻度という「量」も、響く内容という「質」も伴わない。
スター以上の反応をなかなか引き出せない、己の力不足。
 
……つまりは、ブログ同様の堂々巡りを、依然引きずり続けていたわけである。
 

「貧弱な添え木」でも、捨てずに残す

その延長で、次第に自分は「ブログを読むこと」からも遠ざかって行った。
他のブログを読んだり、コメントするのをためらうことが多くなった。
 
「面白いですね(自分と違って)」
 
そんな風に、卑屈さが滲み出てしまうかもしれない、という怖さがあった。
そしてその影響で、懇意にしていただいているブロガーさんたちの記事も、以前ほど追い切れなくなっていった。
(仕事の忙しさもあるが)
 
ブログを媒介とするつながり。しかし、その交流の場はTwitterや、ツイキャスへと比重が移りつつある。もはやブログは、「ただの共通項」でしかない。人どうしのつながりとして確立されており、きっかけとなったそれは貧弱な「添え木」にすぎず、もう必要ない。
 
そうして、ブログに見切りをつけたい気持ちも芽生えつつあった。
 
しかし、結局自分は、早々に凍結を解除した。なぜか。
 
その心境を一言で表すなら、「怖くなった」からだ。
 
本当に、ブログという共通項を失ってしまったらどうなる。
周囲の「ブログ談義」についていけず、仲間外れになる? いや、理由としてはまだ弱い。
 
何というか、「自分だけが、口を閉ざした貝のようになってしまう」気がした。
 
他の人たちが、ブログという場で「自分の言葉」を縷々と紡ぎだし、日々「声をあげて」いる。
対する自分は、何も紡がない。日常のあれこれを、Twitterに書き捨てるだけ。
 
ブログをやってないから仲間外れ。確かに嫌な構図だ。
しかしそれ以上に、ブログを閉ざすこと=自分の口を閉ざし、声を上げない時間が長くなることで、自分が「無」になってしまうことへの恐怖が、自分に再開を決意させた。
 
 結局、「苦しみながら書く」という屈折したやりがいしか持てないのだとしても、「無」よりはいい。
「ネット上に開示される自分自身」の添え木として、まだブログは必要だ。
 
長ったらしくなったが、これが凍結から解除までの経緯、雑感である。
 

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CMタイアップも付いた、サンボマスター流の応援ソング。
  この記事を書きながら、以下の歌詞が思い起こされた。
 
何も実らなかったなんて悲しい言葉だよ

やはり自分じゃだめかなんて無駄な言葉だよ
 できっこないを やらなくちゃ - サンボマスター - 歌詞 : 歌ネット
 
己を鼓舞する気概はない。
だがせめて、そうした「言葉」で消耗するのは、いち早くやめにしたい。