これはほとんどネタです。
ここ最近、マルクスを再読していました。貧富の格差、貧困の問題とかワーキングプアーなどがニュースになっていることを見るにつけ、マルクスが気になっていたからです。マルクスが資本論を書くための準備していた時期の『経済学・哲学草稿』などに、貧富の格差、ワーキングプアーといった今とまったく同じ問題が記述されていたので、マルクス経済学は超克したとかいいつつ、実は全く何も超克していないのだと思いつつ有ります。
時折、話題になる労働に関するテーマなどがあり、それらについてもマルクスの著書ですでに述べられていることがあったりします。
例えば、エンジニアが勉強し続けることについてです。
今年、このことの元になった記事はこれだと思います。
101回死んだエンジニア: 業務時間外で勉強をしなければいけない理由
簡単にまとめると、技術者は技術だけが武器であり、それが通用しなくなると歪んだ環境を生み出してしまうということだでそうです。
反応1
このエントリーでは勉強しない者の視点からの反応が書かれているが、このブログの著者の方自体戦略を備えていて、
自分の脳力にあわせて勉強するという選択を行っている。
反応2
まとめると、好きだからやっている。好きでない人に強制するものではないという立場である。
反応3
勉強は投資であって、投資しない場合は投資しないなりの選択肢しかもつことができないということらしい。
反応4
これも投資であるという考え。リターンされない場合のリスクなどについても言及している。勉強しない技術者については、その人が不安を感じたならば、不安を駆動源にして勉強するということのようです。
これらが大体適当に取り上げた反応たち。元ネタとあわせてまとめてみると
- 技術者としての精神的なスタンス
- 投資を比喩としたもの
- 技術者としての競争に勝つための必要条件
労働者間の関係はよいとして、時間を貨幣と比喩しての交換、この二つは良いとして、残りが精神的なものというのが、若干僕的には不満だったりします。
では、労働者、生産物(商品)、資本これらの抽象的なものおよび関係で記述した場合、エンジニアが技術を勉強する理由はどのように見えてくるのだろうか?少し長めにマルクスから引用しよう。
(引用者註:社会の富が増える条件として)(α) 多くの労働が寄せ集めなければならない。資本とは積み上げられた労働なのだから。となれば、労働者の生産物はますます労働者の手から奪い取られ、かれ自身の労働はますます他人の所有に帰し、かれの生存と活動の手段はますます資本家の手に集中する。
(β)資本の蓄積は分業を促進し、分業は労働者の数を増加させる。逆に、労働者の数の増加は分業を促進し、分業は資本の蓄積を大きくする。分業の促進と資本の蓄積にともなって、労働者はますます労働に依存し、特定の、きわめて一面的な、機械に類する労働に依存することになる。かくて、労働者は精神的・肉体的に機械へと格下げされ、人間であることをやめて一つの抽象的な活動体ないし胃袋となるのだが、そうなると、市場価格の変動や資本の投下や金持のきまぐれにますます左右される。同様に、ただ労働するしかない人間の増加によって、労働者間の競争が激しくなり、労働価格が引き下げられる。労働者のこうした境遇は向上労働において頂点に達する。
(γ) 景気の良い社会で金利生活ができるのは大金持だけだ。…以前資本家だったものの一部が労働者の階級に転落する。ために、労働の供給が高まり、またしても賃金が引き下げられるとともに、労働者は小数の大資本家にまずます依存することになる。資本家の数が減少したのだから、かれらのあいだでの労働者の奪い合いはほとんどなくなるが、労働者の数は増加したのだから、かれらのあいだの競争はさらに激しく、不自然で、暴力的なものになる。こうして、労働者の一部は乞食や餓死の状態に追い込まれ、中流の資本家の一部は労働者とならざるをえない。
マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川訳、22〜23ページ
賃金の上昇は、資本の蓄積を前提とするが、資本の蓄積を推進もするので、ために、労働の生産物は労働者にとってますます疎遠なものとなる。同様に、分業の細密化は、労働者をますます一面的かつ従属的な存在とし、とともに、人間同士の競争だけでなく、機械との競争までも招き寄せる。労働者が機械に転落したとなると、機械が競争相手になるというわけだ。
同、23ページ〜24ページ
ここで、用語を整理すると、労働者は技術者、資本家は企業、生産物はソフトウェア、機械もソフトウェアと読み替えられる。労働はその集積体である生産物をソフトウェアとするもので、労働が資本家の手に集中する状態というのは、ソフトウェアを販売して、貨幣と交換する権利を資本家がもつということである。ソフトウェアと貨幣との交換、労働者の雇用は『経済学批判』における「W-G」、「G-W」に該当するが、この交換理論についてはここでは扱わない。
労働者は、自分の生産する富が大きくなればなるほど、自分の生産活動の力と規模が大きくなればなるほど、みずからはまずしくなる。商品をたくさん作れば作るほど、かれ自身は安価な商品になる。物の世界の価値が高まるのに比例して、人間の世界の価値が低下していく(引用者註:ここで言っている「価値」は交換価値であると思われる)。労働は商品を生産するだけではない。労働と労働者とを商品として生産する。商品生産が盛んになるにつれて、労働と労働者の商品化の度合いも大きくなる。
右の事実に示されているのは、労働の生産物が、労働にとって疎遠な存在として、生産者から独立した力として登場してくる、ということにほかならない。労働の生産物は、労働が対象のうちに固定されて物となった姿であり、労働の対象化だ。労働の現実化とは労働を対象化することだ。こうした労働の現実化が、国民経済学の当面する状況の下では、労働者の価値低下としてあらわれる。…
同、91ページ〜92ページ
労働者としての技術者が、労働し、生産物=ソフトウェアをつくると、労働者が保持していた技術は現実化したソフトウェアとなり、その技術は安価なものとなってしまう。したがって、その技術を保有していた労働者も安価になっていく。これが多くの技術者の間で現実化していくため、技術および労働者の交換価値はますます低下していく。
この状態を放置すれば、「賃金が引き下げられ」「労働者の一部は乞食や餓死の状態に追い込まれ」るわけだから、対象化された技術にかわる新たな技術を取り込み労働者として交換価値を保って行かなければならなくなる。
以上のように、技術者が勉強をしなければならない理由はマルクスの言葉で説明できることがわかった。だからといって、僕は人にマルクスを読めとは言わない。そんなものを読むくらいなら、よいコードを読むほうが大事であるし、コードを書いている方がマシである。
おそらく技術者もしくは労働者のキャリアとして悩むことの多くはこの約200年間なにも変わっていないのであろう。