私は父・征司、母・久代の長男として、1941年1月に広島市に生まれた。2人の姉に続く最初の男の子ということで、両親の期待もひときわ大きかったという。
もともと父母は2人とも島根県西部の石見(いわみ)地方の出身。父は広島商業に進学し、名門の同校野球部でマネージャーをつとめた。卒業後は広島の軍需工場に経理の職を得て、同郷の母と結婚した。
41年12月に始まった日米戦争の戦況は日増しに悪化し、母は終戦の年の45年4月に私と次女の姉を連れて石見の浜田に疎開した。父と長姉は広島に残って8月6日の原爆投下にも遭遇したが、九死に一生を得た。
父はその日若手社員を広島駅まで引率する予定だったが、前日夜に急遽(きゅうきょ)予定が変更された。翌朝大阪から重要な電話が入ることになり、それを受けるために事務所に待機し、引率係を別の人に代わってもらったのだ。結局、広島駅に出かけた一行は全員亡くなり、事務所の父は難を逃れた。後になって、父からこの話を聞くたびに、「人間の運命を左右するのは、ほんのちょっとした偶然かもしれない」と感じたものである。
戦後は父も浜田で職を見つけ、親子そろっての生活が再び始まった。私たちが住んだのは浜田の中でも市街地から一山越えたところにある美川(みかわ)地区という集落で、本当の田舎であった。人口も少なく、子だくさんの当時でも私の通った美川小学校は1学年1クラスしかなかった。