サルトルの実存主義にとって最大のテーマ「自由」。
その自由を脅かすのが他人のまなざしだとサルトルは考えました。
そして他者との関係をこんな言葉で表しました。
しかし人間は世界や他者と関わりながら生きるしかありません。
第3回は自らの存在を脅かす他人のまなざしについて考えます。
(テーマ音楽)「100分de名著」司会の…「実存主義とは何か」考えてます?前回割と心に響いたのは自由イコール不安だったり不安定だったりだから逆に自分が不安を抱えてるという事は意外に自由なんだみたいなほっとするようなあの辺はちょっと心に響いてますけどね。
私も哲学哲子頑張りましょう。
はい。
さあ今回もサルトルの思想について教えて下さるのはフランス文学者の海老坂武さんです。
どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
海老坂さん今回のテーマは「他人」なんですけども。
実存主義の場合には人間の本質を否定した。
その場合人間は世界や社会に投げ出されている裸の状態でそこから思索を始めたわけですがその時に自分の…ではサルトルの考える「他人」とはどのようなものだったんでしょうか。
ご覧下さい。
サルトルが「地獄」とまで表現した他者との関係。
その著書「存在と無」には他人のまなざしがもたらす危機についてこう説かれています。
私は今鍵穴からこっそり中をのぞいています。
我を忘れて部屋の中を見ているのです。
その時私は「世界」に対して関係しています。
しかし私に対して誰かがまなざしを向けている事に気付いた時…。
その瞬間私は「見られているもの」に変化する。
私は世界に「関係する」存在から他人に「関係される」存在に転落してしまうのです。
そこにいるのは他人のまなざしに決められた私。
つまり私の世界を他人に盗まれた私です。
実存主義における対人関係はこのような危機をはらんだ見るか見られるかのまなざしの闘いなのです。
のっけから結構難しい。
「対人関係はまなざしの闘いである」とサルトルは言うんですね。
なかなか大げさといいますか。
こちらは世界を見てる。
世界にまなざしを向けてる。
それによって世界の意味をいろいろ作っていくわけですね。
あるいは世界を所有すると言ってもいいかもしれません。
だけど他人が出てくると今度は自分が作った世界考えていた世界を他人が今度は全然違うものにしてしまう。
見られる事によって自分の大げさに言えば存在の危機になってしまうわけですね。
ご覧下さいね。
こちらでございます。
このまなざしによって私はこの対象に関係をしているんですよね。
ところが私が他人にそれを見られた途端関係される存在となる。
つまり自分はそれまでは優雅な老人だと思ってるわけですよ自分では。
例えばそうですね。
ここだけの関係で優雅な。
ところが相手に見られる事によっていやそうではない下品な老人であるというふうに実は見られている可能性があるわけですね。
自分の評価が相手に委ねられて…そういうふうに他人によって規定される存在を「対他存在」。
「対他存在」というのは「他人に対する存在」の省略です。
相手にとって現れる相手にとって見られる存在それが対他存在という事になりますね。
今だからこのテレビを見て下さってる人で言えば自分はもうお風呂にも入りEテレを見てちょっとでも知識を深めようという状態で僕を見てるわけですよね。
そっちは今度お母さんとかが「宿題しないで何でテレビ見てるの」って言ってるとまた全く違う存在として。
あこの人ね。
横から彼を見てるお母さんは勉強しない子だと思ってるかもしれないから。
そう思われてるという事が分かっちゃうと自分が変わっちゃいますよね。
これだから初めは見られてる。
しかし相手を見る。
相手を見返す。
そうする事によってここには見る事と見られる事との闘いになってくるわけですね。
それをサルトルは「相克」と呼んでるわけですね。
「まなざしの相克」というふうに呼んでる。
あなたは私の事を間違った評価をしちゃってる人だというふうに見るという事ですよね。
そうです。
「私は違いますよ」と。
違うって事ですよね。
実存主義におけるまなざしの捉え方はサルトルの小説「嘔吐」にも描かれています。
主人公ロカンタンはある日町の美術館を訪れます。
そこにはお偉方たちの肖像画がずらりと掲げられていました。
ロカンタンは一人一人の絵を眺めてゆくうちに肖像画の視線が自分に注がれているのを感じます。
しかも単に見られているだけでなく何か自分が批判されているように。
「ここに描かれた人たちの誰一人として独り身のまま死んだ者はいなかった。
誰一人として子どももなく遺言も残さず死んだ者はいなかった。
誰一人として臨終の秘蹟を受けずに死んだ者はいなかった」。
「お偉方」というのはエリートたちでこの町の発展に貢献した指導者たちです。
一方のロカンタンは何者でもない無職で無価値な人間。
彼は打ちのめされます。
ところがそこから不思議な逆転が生じます。
ロカンタンが偉大な人物たちを正面から見つめ返すと…。
「突然彼のまなざしは弱まり絵は輝きを失った。
あとに何が残ったか?穴のない眼死んだ蛇のようなうっすらとした唇それに頬だ。
青白くぽってりとした子どものような頬だ。
それが絵の上に広がっていた」。
指導者の輝きが消えた彼らの顔はぶよぶよとしたわい雑な肉体に見えました。
視線なきただの肉体…。
「私はボルデュラン=ルノーダ室を端から端まで通り抜けた」。
「嘔吐」はわざわざ小説の形をしてるじゃないですか。
だからちょっと遠回りというか実際そこで町の歴史を作った人たちが見てたんだと分かりやすいんだけどそれが肖像画だからあれが人々の視線だとするとという事なんでしょうね。
そうするとこの全体は何を表してるのかちょっと聞きたい。
一体何が主人公ロカンタンとお偉方の肖像との間に起こったと。
ですからロカンタンから見ると彼らは全て権利を持っている。
息子であり夫であり父親であり指導者でありそういう義務を果たしている。
ところが自分は何者かと考えるとこれは父親でもなく夫でもなく社会的に何もしていない…そうするとロカンタンは絵の前に立ってると何か一種のコンプレックスを感じるんでしょうね。
もう絵だけど見つめられて。
これは見てるんだけども実際には「見られている」という意識が強いわけですね。
もうすごく萎縮しているような感じですよね。
ここまでは何となく分かるんですよ。
見下されてるというかああそう思われてるんだと思う事でどんどん自分が責められていくというのは分かるんです。
この先ですよね。
そう。
ここで不思議な逆転が起こるんですよね。
ロカンタンが肖像画の視線を返すというか眺め返した時に突然指導者の顔から権利の輝きが消えて青ざめて見えるという。
つまり威厳というのはどうやってできるのかと考えるとやっぱり見てる人間があの人は偉い人だというふうに思うところから実は威厳というのは出てくるんじゃないんでしょうか。
ところがロカンタンはそこで本当にあなたは生きる権利を持ってるんですか存在する権利を持ってるんですかと言って眺め返すんですね。
ですから一種の心の反転が起こるわけです。
そうすると相手の威厳がなくなってしまう。
単なる「ぶよぶよしたわい雑な肉体」に見えたと。
ですから「眺める・眺められる」「見つめる・見られる」という事のまなざしの決闘と言っていいものですね。
相手を裁き返してるわけです。
裁き返す。
何となく分かりますね。
結局この場合要はよくよく見てみたらお前らただの肖像画なんじゃないかという事も含めて。
そうなんです。
肖像画だけど相手が生きた人間になったらそれは本当の対決になってくるわけですね。
そして最後にはロカンタンは…。
「アデューサロー」と言ってこの美術館を去っていくわけです。
アデュー「さらば」。
昔はこの「サロー」は最初の訳ではね「ろくでなし」。
下種じゃなくてろくでなし。
「さらばろくでなしよ」と。
大学生の頃に読みましてね偉そうな周囲の大人たち。
そういう大人たちに対して何か一方的に決めつけられるとね「なんだこのろくでなし!」と言って自分の身を守ってた記憶がありますね。
だから一種の護身用のナイフだったんですよこの言葉は。
なるほどこれをつぶやきながら相手を見返すというか見つめ返す裁き返す事で自分の安定は保たれるという。
そうです。
いい捨てぜりふですね。
でもサルトルはすごく「見られる」「見る」まなざしという事にものすごくこだわったんですね。
まなざしを向けられる事自体をサルトルは「他有化」という事。
少し難しい言葉でね。
「他有化」次の言葉が出てまいりました。
「他有化」というのは言いかえると自分が自分のものではなく他人のものになってしまう事。
自分の評価が相手に委ねられて相手のものになってしまう。
他有化というのは実はフランス語で「アリエナシオン」と言って疎外という言葉と同じ意味なんですね。
マルクスなんかの場合には疎外を引き起こすのは労働だと言ってるんですけどもサルトルの場合には疎外を引き起こすのは他有化を引き起こすのはまなざしというふうに考えていたんですね。
何か疎外よりもむしろこうやって学んじゃうと他有化の方がしっくりきますね。
「見られる」という事はちょっと相手のものになっちゃうというか。
自分自身が自分勝手に決められなくなっちゃうという事だから。
何でサルトルはそんなにまなざしを気にしたんでしょう。
恐らくですねそこに還元してはいけないんだけどもサルトルがやぶにらみであったという事とか非常に醜い子供であったとかそういう事と関係があるのかもしれませんね。
でも確かに彼自身がすごく例えば美しくて誰をもが羨むもしくは羨んでくれてると思い込める状態ならばこんなきつい感じの言葉にならないですよね。
他有化には全くならないですね。
俺を共有しろぐらいの話になってくるんだけれどもやっぱり見られちゃう事がコンプレックスであったからこそこの言葉が出来上がるような気がしますね。
でもまなざしを受けるというのはもうこうやって暮らしてる周りに人がいる限り難しいですよね避けるというのは。
それはもうだから避ける事ができないですよ。
ですからサルトルはその事を「自由の受難」と呼んでる。
あるいはそれは「人間の条件」なんだというふうに言ってますね。
何かねすごい分かりますよ。
「人間の条件」もう避けられない。
避けられないけどももう受難であるという。
他有化は受難だけど避けられない。
まなざしは受難だけど避けられないって事ですね。
じゃあそのまなざしを向けられる事他有化にはどう対処したらいいのか?サルトルはこう考えました。
サルトルが戦後大きな力を注いだのが詩人ジャン・ジュネの評伝でした。
生後半年で児童養護施設の前に捨てられ大人になってからは放浪と投獄の日々を送った人物です。
7歳の時少年ジュネは泥棒の現場を押さえられ「お前は泥棒だ!」と決めつけられ社会から泥棒の烙印を押されます。
この経験によってジュネは「泥棒」という存在と向き合う事になります。
俺は泥棒なんだ。
それまで泥棒とは何なのか知りもしなかったジュネですが彼は大人たちの言うとおり自ら「泥棒になろう」と決意します。
他人から見られた自分を積極的に引き受けたジュネはそれにより自由を得るのです。
ジュネはこうした体験を創作にまで高めやがて詩人になります。
そしてアメリカの黒人運動やパレスチナの抵抗運動で弱者と連帯し行動してゆきました。
他有化を乗り越えたジュネ。
サルトルはその生涯にまなざしの逆転を見たのです。
これは職業柄よく分かりますよ。
えどういう事?だって人に滑稽だって言われる事に抵抗しないで「はい私は滑稽な人間でございます」。
自ら進んで滑稽な事をして最終的にそれを表現にしていく。
ましてやそれが生活の糧になっていく事だから分かりますけど一般においてどういう事だろう。
貼られたレッテルがあまりしっくりいかなかったとしても引き受けちゃう手もありますよみたいな事ですか。
ジュネは「お前は泥棒だ!」と言われた時に「泥棒」という言葉の意味がよく分かんなかったんですね。
でもそう言われたんならそれを引き受けましょうという決意。
まあサルトルに言わせれば決意をした。
7歳の少年が決意をした事にサルトルは賛辞を送ってるんですがね。
そして泥棒だというのは悪者でしょ。
悪ですよね。
今のはこれですね。
「お前は泥棒だ!」と言われる。
ここでまず…。
存在を規定される。
次にこれを引き受けるわけですね。
そして泥棒の行動に移って泥棒を続け悪の道に入っていく。
それがまあ一種の小さな自由なんでしょうね。
は〜なるほど。
他人が「お前は泥棒だ」って自分は泥棒してるつもりもないし泥棒なんて言葉も知らないし「泥棒だ」って言われた時にいろんな自由がある中であえてじゃあその泥棒というものにここからはもう自分の意思でなってやろうとする。
でも最終的にはこの人黒人運動とかパレスチナの抵抗運動で弱者と連帯して行動していく。
結局そういうふうに決めつけられた人間に対する共感というのがあったんでしょうね恐らくジュネにはね。
まあこのジュネのケースすごく興味深いんですけどでも我々の場合一番悩むのはその他人のまなざしで到底受け入れられないような事をはね返す方が大変という人が多いと思うんですけどこれはどうお考えですか?確かにそのとおりですね。
ただ忘れてはいけないのは「まなざし」というのは単に個人の問題だけではなくて…例えばどういう事でしょう?例えば労働者というのは仕事がつらい生活が苦しいといった事がありますね。
ただそれだけでは一種の階級という意識ができていかない。
それができていくためには経営者資本家から「お前たちは労働者である」というふうに眺められる見られる。
それによって差別される。
そこから初めて逆に見られた事によって階級の意識ができていくというふうにサルトルは考えるんですね。
「まなざし」スタートでお前ら労働者だ我々より下なんだっていう事をまあ見られて口にするなり見られてる事を感じるなりして今度こっち側がそうなっていくという。
上からの…上からなり周りからか。
それはユダヤ人の場合も黒人の場合も同じですね。
それをこうはね返すにはどうしたらいいのか。
まず第一にとにかく見られている事を自分が何者であるかというふうな差別されている意識を自覚する事でしょうね。
目覚める事自覚する事ですね。
それが最初のスタートですよ。
それ以後今度はあなたもそうだ私もそうだ彼らもそうだという事で初めて弱者の連帯が成り立ちうる。
そこからしか社会の進歩はないとサルトルは考える。
その辺りについてはまた次回是非ゆっくりと。
さあ今日は「他人」についての問題でしたけれどもいかがでしたでしょうか?いや何かねサルトルがテーマになってる「実存主義とは何か」を書いた時から更に僕複雑になってると思うんですね。
まなざしの絡め方が更に複雑になってるけど。
現代はね。
他人との関係が複雑になってるからこの構造を最後まで行ったら理解できて…。
そうするともしかしたらいろんなみんなの視線にさらされる職業でもありますし人間関係複雑な職業でもありますから。
皆さんも多分人間関係いっぱいあっていろんなとこのまなざしを受けてるし何かこう答え出るような気がするんですけどね。
今日は海老坂さんどうもありがとうございました。
2015/11/25(水) 06:00〜06:25
NHKEテレ1大阪
100分de名著 サルトル“実存主義とは何か”第3回「地獄とは他人のことだ」[解][字]
決して完全には理解し合えず相克する「他者」との関係。だが、その「他者」なしには人間は生きていけない。人は「他者」とどう向き合ったらよいのかをサルトルに学ぶ。
詳細情報
番組内容
決して完全には理解し合えず相克する「他者」との関係。だが、その「他者」なしには人間は生きていけない。「他者」と相克しながらも共生していかなければならない状況をサルトルは「地獄」と呼ぶ。こうした根源的な状況の中で、人は「他者」とどう向き合ったらよいのか? 第三回は、「他者」という「不自由」を見つめ、主体性を失うことなく「他者」と関わりあうことがいかにして可能かを、サルトルの思想に学んでいく。
出演者
【講師】フランス文学者…海老坂武,【司会】伊集院光,武内陶子,【朗読】川口覚,【語り】小口貴子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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