ハートネットTV リハビリ・介護を生きる「ノンフィクション作家・久田恵」 2015.11.25


「フィリッピーナを愛した男たち」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなど時代と向き合う創作活動を続けています。
久田さんが39歳の時母の美知さんが脳血栓で倒れ久田さんはその介護に身を尽くしました。
母の美知さんは久田さんにとって子どもの頃から少し不思議な母親だったといいます。
私の人生が波乱万丈になったのは母があまりにも謎の母だったからじゃないかなという気さえしますね。
だんだんと自分も40代になり50代になりってしていったのでこの揺り椅子に座ってこうやってユラユラしながら母が考えていた事がちょっと分かるようになってきたっていうか…。
母と語り合う事ができなかった時期がすごく長かったけれどまあこういう形で母と語り合えているなというような納得感がだんだんと出てきた。
長い介護の末にみとった母。
その母の生きた人生に改めて久田さんは思いをはせています。
こんばんは。
「リハビリ・介護を生きる」。
今日と明日の2日間は「母がいた場所」と題して介護を通じて改めて感じたお母様との関係や親子の絆について伺っていきます。
今日はですね12年半もの間母親の介護をしてきたという作家の久田恵さんですね。
謎の多かったお母様という事でどんなお話が伺えるか楽しみです。
早速ご紹介しましょう。
ノンフィクション作家の久田恵さんです。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
久田さんはお母様の介護を12年半続けていらっしゃったという事で今振り返るとどんな思いですか?39歳の時に母が倒れたので自分自身も自立して仕事切り開いていかなきゃいけないし子どもも小さいから育てなきゃいけないしシングルマザーなので働かなきゃいけないしで周りから女の四重苦とか言われていましたけれども今は全部自分の人生の実りになってるという事を思いますね。
その介護したという事そのものは。
私なんかはもう仕事を辞めて介護なら介護だけに専念したタイプでしたのでそういう意味ではもう本当にどれだけのお話があるんだろうっていう感じですね。
その時にどんな事を感じられていたのかまた久田さんにとってお母様はどんな存在だったんでしょうか?こちらをご覧頂きます。
東京・練馬区の閑静な住宅街。
久田さんが向かうのは自宅近くのある場所。
そこ。
そこが母の部屋で。
そこが。
(取材者)最期までお母様いらした?そうです。
ここで最期みとりました。
母美知さんが最後の2年半を過ごした有料老人ホームです。
母が亡くなった時そこでずっと待ってたんですよ。
そうしたらヘルパー長さんが来て「よく頑張ったのよあなたは。
だから偉かった偉かった」とか言ってくれた。
母美知さんが突然倒れたのは28年前。
脳血栓の後遺症で右半身にまひが残り同時に重い失語症で言葉を失いました。
その時久田さんは39歳。
作家としてさあこれからという時でした。
母が倒れた時にね私が本を書いたっていったって母が喜んだりもしてくれなくなっちゃうんだったら意味がないからもう物を書いたりするのはやめるって思いましたね。
その時に初めてもしかして私本当にお母さんに褒められたくて本を書いたのかなと思ったんです。
久田さんはサラリーマン家庭の3人兄弟の末っ子として生まれました。
母美知さんは主婦として家事をこなすかたわら多彩な趣味を持つ人でした。
若い頃から仕舞や謡曲太鼓や鼓などを習いまた短歌の同人誌に投稿するなど表現の世界に生きる女性でもありました。
母は要するに冷たい母ではないから…ないんですよ。
だけどね普通のお母さんのように抱き寄せるとか「子どもかわいい」とか言ってそういうふうにしてお膝に乗っけてくれたりとかそういうのはあまりしない人で。
「今お母さんやってる事があるから1人で遊んでて」とか言って退けられる事が多いですよね。
少しでも母に近づきたい。
久田さんは短歌誌に載った美知さんの歌をそらんじるほど読み返しました。
自分の人生のいろんなところでリフレインのように浮かんでくる歌なんです。
結婚したての頃伸び上がっても自分に届かない窓があってそこから風が吹いてくるとそこから風の気配みたいなものを感じながら生きる。
何か結婚してねやっぱり自分がやりたい事とかそういうものを閉ざされてしまったっていうがっかりした感じ。
こういう気持ちだったんだなというふうに思ってちょっと大切な歌ですね。
「えっそういう事子どもに言うか?」みたいな事も言う人でしたね。
だからすごい謎だらけ。
だから余計…。
私の人生が波乱万丈になったのは母があまりにも謎の母だったからじゃないかなという気さえしますね。
久田さんは二十歳の時父親に反発して大学を中退し家出。
人形劇団に住み込みで働くなど自らの生き方を模索しました。
そして知り合った男性と同せいしやがて妊娠。
男の子を産みます。
久田さんは30代となっていました。
入籍するものの子どもが3歳の時離婚。
シングルマザーとなった久田さんはライターの道を歩み始めます。
母はね見事なほど何も言わないんです。
妊娠した時も電話をしたんですよ。
そうしたら「あそう」でしたね。
「あそう」とか言っちゃって。
それで「籍はどうするの?」って言われたんです。
それで「入れなくてもいいかなと思ってて」って言ったら「まあそうね」って言ってましたね。
「それはあなたが決める事」っていうふうに言われました。
子育てとライターを両立させるのは大変でした。
そんな時「子どもを見てあげるから一緒に暮らそう」と美知さんが声をかけてくれたのです。
しかし同居が始まった翌年美知さんは脳血栓に倒れます。
右半身まひ重い失語症で言葉を失います。
母が話せない。
この事が久田さんにとって一番つらい事でした。
体が動かないのなんかは大した事じゃないとまで思ったんです。
お母さん歌が詠めなくなっちゃうんだと思ったんですよね。
それが一番何だろう…。
悲しかったっていうか。
久田さんに忘れられない出来事があります。
美知さんが倒れて間もない頃でした。
でもだんだんたつうちに「あそうだ自分が母親だったらやっぱり自分のところにお見舞いに来るよりもあなたは子どもの面倒も見なくちゃいけないし仕事もしなくちゃいけないんだからここに来ている場合じゃないでしょって言いたかったんだなっていうふうに思ったんですよ。
病院から自宅に戻って父と2人で懸命な介護。
しかし美知さんの気は晴れませんでした。
お母さんにお願いしましたよね泣いて。
どうかお母さんがつらくて苦しいのはすごくよく分かるけど私や連のために生きて下さいって。
死なないでってすっごい頼みましたね。
在宅で介護を続けて10年。
美知さんはほぼ寝たきりの状態となっていました。
父清明さんも80歳となりました。
ある時家に仕事から戻ってきたら父と母が床に転がってたんですよ。
母をどうも父が1人で車椅子に移そうとして失敗して2人とも立ち上がれなくて横たわっていたんですよね。
でまあ数時間あったらしいんですよそれ。
もうその実態を見た時に「ああ限界が来た」って思ったんですね。
自宅で介護を続ければ共倒れになる。
久田さんは父親を説得して有料老人ホームに母を入居させる事にしました。
ここが母が入っていたお部屋なんですね。
私も引っ越してきてお母さんと毎日ここで夕ごはんを一緒に食べるようにするからそういう約束をしてここに入居してもらったんですね。
子どもの頃から憧れ慕っていた母。
その母はもう話す事ができません。
2000年5月病に倒れてから12年半。
美知さんは夫と娘にみとられ息を引き取りました。
でも私はずっと抱えてたんですよ。
ずっと母の事を抱えていたもんですから母が苦しそうなんですよ。
だからそれが終わって母が亡くなって息引き取った時に何かこう表情がパ〜ッて楽な…楽な表情になって安らかな顔に戻りましたね。
亡くなって1年ようやく母の遺品の整理を始めましたがそれはあまりに少ないものでした。
自分もどんどん年齢が40代50代60代って年齢が上がっていくとその母の歌がまた分かってくるんですよね。
読む度ごとに違う理解が出てくるんですよね。
だからそれもあって何か母の謎解きの人生みたいな感じ。
いまだに余計深まってきますよねお母さんってどういう人だったんだろうなって。
何かこう表現をする…。
たくさんの表現をした方でいらっしゃった訳ですよねお母様が。
それを言葉を失われてでもたくさんの短歌を残されてそれで久田さんと今現在もより強くつながってらっしゃるのかなって感じましたね。
母の短歌は私にとってはもう何て言うかなとんでもなく特別なものなんですね。
自分の事も詠まれてるから「あこれは私の事だ」とかそこに母の愛情をすごく感じたりするんですよね。
そのお母様が詠まれた短歌をこのように集めた歌集を久田さんが出版されました。
はいこちらですけども。
タイトルにした「翔ぶものは翔びたたしめて」っていうのは母はやっぱり子どもたちを1人2人と飛び立たせたあとにこの自分の人生を手のひらを見つめてでも考えるっていうねそういう歌を詠んでたりするんですけれどもそういうのやっぱり経験する訳ですよね自分も子育てしてきてその子どもを自立させていった時にやっぱりその時の母の心境と全く同じ心になるっていうのがあるんですよね。
お母さんもこういう心境でいたんだなとかそういう事で自分は支えられているという感じですね。
でもそんなお母様が例えば趣味がいっぱいある方で家事の事はやって下さってた訳ですか?おうちの事は。
それはねもうね完璧なる家事やるんです。
食事とかきちっともう家の整理掃除整頓全部なんです。
ただそれは何て言うの私の家庭における役目だからこれはやりきりますよって言ってやるんだけどそれ以外はあんまりいないんですよね。
どこ行ってるんだかよく分からない。
そうなんですか。
うん。
へえ〜。
そのお母様の介護でしたけれども最初は在宅介護でしたね。
いかがでした?私自身はすごく一生懸命考えて母を主人公にした介護とかいろいろいろいろ考える訳ですよ。
介護しているとそういう優しくできない自分とかエゴ丸出しになってる自分とかそういうものと本当に向き合わなきゃなんないんですよね。
何か紛れもない自分と向き合っちゃうんです。
そうすると私ってなんていう人間なんだろうとかいうふうに思う日々なんでそれがすごく苦しいんですよ。
口では言えるんだけど現実にはできてないじゃんみたいな。
そうすると自分の持っている自画像も崩れていくんですよね。
分かります?責めていく。
責めてくんですよね。
責めちゃうんですよ介護って。
自分を?やればやるほど。
精いっぱいやっているのにきっとそれ以上のものが自分は本当はできたんじゃないかっていう思いがあって今度自分を責め始める時が何かあるんですよね。
いつも責めるんですよ。
だってねやっぱり優しくない自分とね向き合わざるをえないんですよね介護とかそういうものって。
でもどこかで何かお母様との向き合い介護の気持ちの向け方みたいのが変わった瞬間っていうのはやっぱりあるんですね?介護する事によって手に入れたものにたくさん目を向けて生きていこうっていうふうにだんだん考え方は変わっていきましたね。
それまでは何かもう全部放り出して出ていきたいとかそれで手伝ってくれないとか言って姉にギャーギャーギャーギャー電話をかけて苦しめたり。
もう本当にめちゃくちゃやってましたけどね。
それは若気の至りですね。
そんな久田さんですけれども今ある活動をされているという事でこちらをご覧頂きます。
パペレッタカンパニー。
久田さんの自宅に人形劇の舞台があります。
ピョンピョンピョンピョンっていう…。
そうそうそう…。
久田さんが主宰する人形劇団の稽古です。
間もなく公演を控えています。
柔らかいっていうか何かね力入り過ぎてるの。
自宅のリビングを改装した常設のミニシアター。
定員はおよそ30人です。
久田さんが仲間を募って人形劇を始めたのは11年前。
母が亡くなったあと父の介護にあたっていた時でした。
長く介護していたらどこにも行けないんですよね。
鬱々としちゃうんですよね。
それでふと思ったのはこのおうちにいてここからどこも行かなくてもここを自分の楽しく生きられる現場にしちゃう方法はないだろうかって考えたのがここで人形劇をやるって事だったんですよ。
自宅を活動の場にしそこに人を呼び入れる。
いろんな人が関わったり遊びに来てそれでその時その時一瞬一瞬が楽しければいいか。
それが人生を楽しくする方法じゃないかと思ったんですよね。
もう一つ久田さんが主宰する活動があります。
介護や高齢者について情報発信をしています。
会社員やデザイナーなど仲間たちを集め介護に携わる人を取材して記事を書き福祉関係の出版社に提供しています。
どういう人たちが見るかっていったらやっぱり介護をやって運営してる人とかも見る訳でしょう?ヘルパーさん自身の人のキラキラする言葉を聞いてそれを経営していく人たちが少しは考え方を変えてくれるとか。
久田さん自らも各地を取材し介護や高齢者支援の在り方を問い続けています。
こうした活動を始めたのは久田さんの母親が入居していた老人ホームで知り合った90代の人から言われた言葉がきっかけでした。
…って聞かれて「どういう事でしょう?」って言ったら「自分の年齢にしか興味を持たれない存在になるのよ」って言われたんですよ。
「どんなふうに生きてきたのかとかどんなふうに今思っているのかとかそういう事は聞かれないのよ」って。
「だからつまらない事よ」ってすごくそういうふうに言って「怒りさえ覚えるの」って。
人は老いていくに従ってどんどん強くなって自立していかなくちゃいけないんだなっていう事をねすごく身にしみるようになってそれで今このオーバーエイティーズというテーマで取材してるんです。
私もお姑さんが老いてきてあんな病気にまあ認知症と20年闘ってどんな事をしたかったんだろうっていう余裕は全然なかったんですよね。
目の前の病気の事で一生懸命だったんですね。
だからそこは今更ながら感じました。
介護があったからできたって事もたくさんあるんですよ話を聞くと。
例えば介護というのはどういうものかというと時間が何て言うのかなこま切れなんですよ。
朝1時間こんな大変でここちょっとひと休みしてまたとかいってこういうバラバラなんだけれどもじゃあバラバラな中でやれる事は何かっていったらそこで何か例えばダンスの練習始めた人がいてそれでとうとうダンスの先生になっちゃったとか。
そこの時間で集中して…。
帽子を作りたい帽子を作るのが好きだった方が介護と介護の合間にお母さんのそばでコツコツと帽子作りをやってそれで本当に帽子作りのプロフェッショナルになっていくとかそういうふうに考えた方が介護というもの生かしうる。
私は母の介護の長さの中で徹底して自己訓練ができてたんだなと思うんですけど割と今仕事をする時にここの1時間でこれやってここの1時間で原稿書いてみたいな事がやっぱり相当得意になってますね。
身についた訳ですねその中でね。
身についたんですよ。
せっぱ詰まってやった事って。
それはすごく助けられてますね。
介護が親にとって最後のまあ親から教育子どもに対しての最後の教育なのかなっていうふうにどう思われましたか?だから私は母が倒れるまでは何かフワフワとあまり地に足がついて生きていなくてフワフワフワフワと生きてたんですよ。
それでだけど母が倒れた事によって母を守らなきゃいけないし父ともうまくやっていかなきゃいけないし子どももなんとか育てていかなくちゃいけないから経済的にも精神的にも自立を迫られたっていう感じがするんですね。
何か本当にそこまでも病気だけど年を老いてきたけれどもこういう事をって事までも子どもに次の世代の人に教育というか何か体を通して教えてあげるべきなのかなって事を今日つくづく感じました。
最後に介護の経験を通してさまざま今につながってる事も多いとおっしゃってましたけどもこれからどんな生き方をしていきたいと思いますか?介護を通して学んだ事で一番大きいのはやっぱり20年近く高齢な方たちと深くつきあってくる事になる訳ですよね。
その中でやっぱり今の時代は1歳年を取るごとに強くなんなくちゃいけないんだと。
少なくとも精神的に強くならないと本当に生きていけない時代なんだなというふうに思うんです。
だから高齢者が何て言うのかしら年を取れば取るほど自立していく高齢者としての自分というのをやっぱりやっていかないと。
だからどこへ行っても1歳年を取るごとに強い人になろうって言うんです。
もうそうしないとなかなか難しい時代にも入ってると思うので。
そういうのはすごく実感するようになりましたね。
強いですよいろいろ回っていくと。
オーバーエイティーズ80代以上の人で自立して生きてる人は。
そういう事にも気付いて。
そうですね。
たくさんの貴重なお話を伺う事ができました。
ノンフィクション作家の久田恵さんにお話を伺いました。
どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
2015/11/25(水) 13:05〜13:35
NHKEテレ1大阪
ハートネットTV リハビリ・介護を生きる「ノンフィクション作家・久田恵」[字][再]

母親を長く介護し、看取った二人に二夜にわたって聞く「介護という豊かな経験の記憶」。一回目はノンフィクション作家の久田恵さん。歌詠みだった母を13年にわたり介護。

詳細情報
番組内容
ノンフィクション作家の久田恵さん(68歳)。彼女が39歳の時、母の美知さんが脳血栓で倒れ、失語症になった。その介護は13年に及んだ。美知さんは若い時から歌を詠んだ。のびあがれど吾に届かぬ窓ありて風吹けば風の運びてくるもの 久田さんは母の死後、多くの短歌を見いだし、口も利けず表現の道を閉ざされた一人の女としての母に思いをはせた。「母がいた場所」に自分を重ね「母が残してくれた介護の日々」を思い起こす。
出演者
【出演】ノンフィクション作家…久田恵,荒木由美子,【司会】山田賢治

ジャンル :
福祉 – 障害者
福祉 – 高齢者
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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