先人たちの底力 知恵泉 花のスーパー官僚がゆく!「田沼意次の江戸大改革」 2015.11.24


でも飲み過ぎには注意して下さいね。
はい。
次回は温度で変わる日本酒の楽しみ方をご紹介します。
最近我が居酒屋のある商店街も元気がなくてみんなで知恵を出し合っております。
う〜ん…あっこれいいな。
うんうんうん。
こういうのもありか。
あとどんなのがあるかな?こんばんは。
いいですか?どうぞどうぞ。
YOUさんご無沙汰してました。
あんまり元気ないですね商店街。
そう。
思うでしょう。
こう何ていうんでしょ停滞ムードが漂っちゃってるんですよ。
シャッターだいぶ閉まってましたよ。
大丈夫?だから理事長に「お前が何かイベント開いて盛り上げろ」と言われて。
それで!ごめん今目に入った。
全然見えてなかったんですか。
「盛り上げ隊長」。
そういう町内会の盛り上げ隊長なんだ。
でねいろいろアイデア考えたんですがカラオケ大会ビンゴ大会輪投げ大会。
しりとりも入れないとね。
しりとり大会!いいですね〜。
駄目ですか?私の気持ちも今すごいグーッと…。
すいません。
こんばんは。
(近田YOU)こんばんは。
山本先生ありがとうございます。
お久しぶりです。
どうぞどうぞ。
どうもありがとうございます。
ちょうどよかったです。
今ねYOUさんとこの商店街も停滞ムード。
このお店も私が気が回らなくて停滞ムードになっちゃってるんです。
こういう状況を打破するために何かいい知恵持っている人っていないですかね?江戸時代だと田沼意次がそういう感じの人ですね。
田沼って賄賂政治家で有名なんですけどね実は先進的な経済的なね経済のねアイデアでどんどん時代のムードを変えていったんですね。
江戸城大奥。
それは愛と欲望渦巻く女の園。
そこに18世紀半ば一人のイケメン官僚が現れました。
節分の豆まきをする姿に女たちはうっとり。
美女ぞろいの大奥をざわつかせたこの若き官僚こそ田沼意次。
この男ただもてただけではありません。
下級武士の出身ながらその才覚を認められ幕府の中枢老中にまで異例のスピード出世をするのです。
当時は8代将軍徳川吉宗の享保の改革が失速した直後。
幕府財政は窮乏し農民一揆が多発していたとても暗い時代でした。
そこにさっそうと現れた改革者田沼。
次々と奇抜な経済政策を打ち出し停滞したムードを一掃していきます。
田沼の登場で江戸・日本は元気を回復し刺激を受けて商業は活発化。
浮世絵や相撲興行などクールジャパンの原点となる文化も次々と誕生したのです。
これまで賄賂を横行させた悪徳政治家とも言われてきた田沼意次。
果たしてその実像やいかに?全く知らない人だったんですけどそうなんですね。
しかもちょっとかっこよかったりして。
人的な魅力もあったんですね。
これはイケメンだったって事もあるのかもしれませんが田沼はですね大奥は自分の権力の基盤になるというんで随分予算を増やしたりね大奥に自由にやらせるんですね。
ちょっとやっぱり何でもかんでもね切り詰めればいいってもんでもないですからね。
そうですよね。
そうなんですよね。
やはりね入れて出して。
そうすると不思議と入ってきますね。
ハハッそうですね。
YOUさんもお使いになる方ですか?ガンガン使います。
そうすると回りますよね。
でもやっぱり田沼ってあんまりいいイメージが…。
印象がないの?賄賂だったり悪徳だったりという言葉がつくな〜というやっぱり印象強いんですれけども。
賄賂は取ったにしてもその事だけではなくてねやっぱり経済政策の新しい面を評価しようっていうねそういう研究がどんどん出てきてるんですね。
でもなかなか経済政策とひと言言われても難しいですよね。
そうですね。
じぶんちで手いっぱいですね。
私もうちの店で手いっぱいなものですから。
こんばんは。
あら!こんばんは。
原さん。
経済評論家の原英資さんです。
初のご来店ありがとうございます。
どうも。
今回田沼意次の知恵を読み解くのはテレビでも人気の経済評論家原英資さん。
かつて大蔵官僚として日本経済を動かしていた人物です。
原さんが表舞台に登場したのは平成7年。
バブル経済の崩壊後で阪神・淡路大震災が起こった暗い年でした。
そのうえ異常な円高が進んで輸出も振るわず日本企業は悲鳴を上げていました。
その時国際金融局長に就任した原さんは世界の名だたる大物と渡り合い円高是正のために国際的な協調介入を実施。
円ドル相場を僅か2か月の間に100円台にまで回復させます。
その日本人らしからぬ交渉力の高さに海外のマスコミは「Mr.Yen」と名付けました。
この円安によって日本の輸出は回復し行き詰っていた世の中のムードは一変。
原さんは日本企業から「救世主」とまでたたえられたのです。
現在も経済評論家としてテレビや雑誌で切れ味鋭いコメントを展開。
「デフレは悪くない!悲観的になるな」など社会に刺激を与え続けています。
停滞した日本経済を変えた原さん。
田沼の経済政策をどう見る?YOUさんはバブル経済が崩壊したその当時の事ってどういうふうに覚えていらっしゃいます?私ちょうどバンドブームでバンドをやってたんですけど。
「FAIRCHILD」を。
あはい。
それで私は運よく生き残りましたがすごい事になってましたよ周りは。
レコード会社もCD出さなくなる。
事務所に解雇される事務所潰れるもう大変でしたね。
当時の79円っていうのは今の60円ぐらいの感覚ですからね。
やっぱりさすがのトヨタも悲鳴上げてたっていうねそういう状況ですよね。
その中で原さんの方法っていうのはどうして成功につなげる事ができたんですか?ですから我々は円高で苦しんでたと。
アメリカもそろそろドル安を何とかしないとこれはまずいぞというような事でね。
たまたま僕はアメリカの財務副長官やってたラリー・サマーズって人がいるんですけど彼と大学時代の友達なんですよ。
僕ハーバードに留学してましたんでね。
そのころからの知り合いだもんだから電話で結構しょっちゅう話しながらね。
それが非常に大きかったのね。
すごいたまたまが…。
大学で一緒に1年2年いたっていうのはある種の信頼関係ありますからね。
ですからあいつはまともなやつだと向こうも思って…。
僕もねサマーズっていうのはほんとに天才肌の人ですからこいつはできるやつだと思ってましたからね。
だからその信頼関係っていうのはやっぱり大きいですよね。
という事で今夜はですね原さんをお迎えしてこちら。
「停滞したムードを変えるには?」。
というテーマでお送りしていこうと思います。
すばらしい。
その田沼の知恵をですね味わっていきたいと思いますがまずは彼の生い立ちからひもといていこうと思います。
そもそも田沼家が仕えたのは現在の和歌山県にあった紀州藩。
代々下級武士の家柄で決して高い身分ではありませんでした。
しかし享保元年藩主徳川吉宗が江戸幕府の8代将軍に就任。
意次の父意行は吉宗と共に江戸へ向かう事になります。
田沼家の運命はここから大きく変わっていきます。
江戸で生まれた息子意次は16歳で吉宗の子家重の「小姓」に取り立てられます。
小姓とは身の回りの世話をするお手伝い係。
正直で細かいところまでよく気が付いた意次は家重から何かと頼りにされるようになります。
家重が9代将軍になるとそれに伴い将軍の言葉を周囲に伝える御用取次に抜擢。
身分も一介の旗本から領地を治める大名にまで昇進しました。
田沼意次の出世物語は続きました。
それまで将軍が変わるとお付きの者が総取っ替えになるのが幕府の慣例。
しかし意次は家重の強い推薦で息子家治の代でも同じ役職を継続。
遂に幕府政治トップの老中にまで上り詰めるのです石高も600石から5万7,000石に急増。
今のお金に直すと資産価値34億円ほどの領地をマネージメントするまでになりました。
それまでの幕府官僚の主流派とは全く違うところから現れたリーダー田沼意次。
これまでにない仰天の経済政策を展開していく事になるのです。
経歴率直にご覧になってどうでした?こういう時代であんまり家柄の良くなかった人がそういくイメージが全然なかったのでびっくりしました。
やっぱりね家格が中心の時代ですからね譜代大名は当然譜代大名でそれが老中になるっていうそういう時代なんですね。
ただ意次の場合は吉宗がまだ部屋住みの時に父親が吉宗に仕えるんですね。
その人が紀州藩主になって更に幕府の将軍になるものですから将軍とほんとに密接な関係があるわけですね。
そういう面で人脈なんですけどね。
それでどんどん取り立てられて最後は老中までなっていくという。
運が良かったって事もありますよね。
仕えてた人がね将軍まで上がったわけだから。
何かゴリゴリ上がってきてない感じがとてもスマートでいいですね。
でも原さんはちょっと調べましたら東大をお出になり大蔵省に入られですから田沼と違って…。
エリート中のエリートですね。
だけどね大蔵省の本流主流じゃないんですよね。
大蔵省の主流っていうのは東大でもね法学部を出て。
経済学部…。
経済学部は傍流なんですよ。
法学部を出て大蔵省で予算とか税をやるんです。
主計局とか主税局。
僕は主計局主税局に一度も行った事ないんです。
どういうところに…。
僕は国際派っていう事ですから国際金融局とかね関税局とかという事で傍流ですよ大蔵省のね。
そうなんですか?僕らはその国際派ってのはね…主流派は「源氏・陸軍・国内派」なんですよ。
だけどねもう一つ僕ら言ってたのはね実はもてる方は「平家・海軍・国際派」なんですよ。
いや絶対そうですよ。
(笑い)YOUさんもご納得。
全くそちらですね。
華がある。
でも本流ではない原さんが今のご活躍というか時代にこう呼ばれるようになったというのはどうしてだと…。
ですから僕が局長になったの95年ですからね。
その時はやっぱり国際関係をどうするかっていう事が大蔵省今の財務省にとってもあるいは日本政府にとっても非常に重要になってくるわけです。
だから非常に…時代に乗る。
こういう変わった経歴の人がね必要になる時代ってあるんですよね。
まさに田沼なんかはそういう人材だったわけですよね。
さあこの田沼がですねこのあとどんどんどんどん革新的な政策を打ち出していくんですけれどもそこにどんな知恵があるのか味わって頂きましょう。
2代にわたって将軍の信任を勝ち取り幕府政治を担い始めた田沼意次。
まず取りかかったのが…当時大きな問題になっていたのは膨れ上がっていた赤字。
物価が年々上昇しているのに幕府収入が上がらずこのままでは抱える武士を養っていけなくなるおそれがあったのです。
当時の幕府の収入源は何といっても米。
米以外の収入源はほとんど注目されていませんでした。
前の将軍徳川吉宗は享保の改革で米の増税を断行。
併せて新田開発も試みます。
しかし吉宗の改革はその前半こそ成果を上げたのですがやがて頭打ちの状態に。
全国の天領では重税に苦しむ農民たちの激しい一揆が起こりました。
もはや打つ手はないかのように思えました。
そんな時田沼はある情報をつかみます。
それは夜の町の様子。
目に飛び込んできたのは美しい芸者。
そして美酒に酔いしれる男たち。
江戸の商人たちが日夜豪勢に遊んでいたのです。
当時江戸では急速に人口が増えつつありました。
17世紀初頭は300しかなかった町の数が田沼の頃には江戸八百八町も上回りなんと1,600を超えていました。
それに伴い商業が急成長していたのです。
田沼は考えます。
農家と米本位の税制から今まで重要視されてこなかった都市と商業を優先したらよいのではないか?まず田沼は意欲のある商人たちの組合「株仲間」に幕府公認の特権を与えその分野の商売を独占させました。
そして代わりに彼らに運上・冥加金を課していわゆる営業税を徴収する仕組みを大々的に広げていったのです。
この収入がばく大に。
もう一つ。
財政再建のうえで困った問題がありました。
それは外国貿易での収入の激減。
原因は輸出の主力商品だった国内産の金と銀の枯渇。
当時日本から外国に売る事ができるのは金銀ぐらいしかないと考えられていました。
そんな時田沼はある情報を聞きつけます。
中国では料理の材料としてフカヒレいりナマコといったいわゆる俵物がよく売れるというのです。
だったらこれを主力商品にすればよい。
田沼はあまり重視されていなかった俵物の優先順位を上げて全国へ俵物の増産を呼びかけました。
これによって外国貿易での収入は上向きに。
更に田沼は最大のタブーに挑戦します。
それは従来の貨幣システムを根本から変える事。
それまでの慣例から江戸は金貨大坂は銀貨中心でそれぞれの経済が回っていました。
一つの国で別々の通貨を使い分けるのが常識だったのです。
そのため東西で取り引きするには変動する交換レートに合わせて…「貨幣は統一した方が手間が省けて商売が活発になるのではないか」。
そこで田沼が新たに作ったのが「南鐐二朱銀」。
この銀貨8枚で金1両と交換できると定めレートを固定しようとしたのです。
経済振興のためなら貨幣システムまで根本から変えてしまう。
それが田沼のやり方でした。
こうした田沼の政策で国内の経済は活況を呈し幕府の財政は上向き始めます。
そしてお金が市中に潤沢に回る事になりその刺激を受けて彩色した美しい浮世絵や相撲興行など江戸の大衆文化が花開いていきました。
当たり前の…それによって新たな活力を呼び込みムードを変えていったのです。
すご〜い柔軟!でもその柔軟さが逆にね保守派から変えるなとか敵をつくったりしなかったのかなって。
ビジネスマンじゃないもんね。
あいつはお金の事ばっかり考えてるやつだっていうとそれだけで批判されるわけですよね。
とにかく田沼はそういう武士が武士といっても彼は国家の官僚なわけですよね。
だから国家の財政がどんどん悪化していくと。
それじゃ駄目だからそれを立て直そうと。
非常に先進的だったわけですよね。
非常に合理的ですよね。
だから大名にはなるんだけどねいわば商人なんだよね。
そうか。
気持ちっていうか心はそうなんですね。
原さんもいわゆる常識の壁的なものを打ち破ったという事ってありました?例えば私が変えたのは為替の介入っていう事を…。
今まで介入というのは割に小額で何度も何度もやるっていう介入してたんですけど僕の時になって…そのかわりあんまりしょっちゅうしないと。
それからやる時はもう徹底的にやると。
たまたま僕の部下の課長の名前が「かつ」って名前だったんですね。
それほんとに言ってたんですか?
(笑い)要するにねこちらに介入する時は僕らはドル買うわけですね。
それ売る人がいるわけですよ。
ですから向こうを倒さなきゃいけないんです。
だから倒すまでやれと。
執ように勝つまでやれという事をやったわけですね。
それは今までの常識とはちょっと違ったわけですね。
それからもう一つはタブーを破っちゃってね普通は昼休みやらないって事になってたんだけど昼休みもやれ。
それからお盆の時はやらないという事になってたんだけどお盆の時に大量に介入するとか。
それは暗黙のルールとしては駄目っていう事…。
暗黙のルールでは駄目だったんだけどそれを破るわけですよね。
重要なのは何か政策をやってそれがうまくいく時の一つのポイントっていうのはねそれがサプライズであるって事なんですよ。
つまり驚きであれっていう事。
今までと同じようなパターンでやってるともう相手は驚かないわけですね。
ですから田沼なんかでも何か新しい事をやる時は驚かすわけですね。
サプライズっていう事をやっぱり大事にするんですよ。
反発はどうやって抑えたんですか?反発は抑えられないね。
(笑い)時じゃないですか。
待つしかないわけです。
そうなんですね。
YOUさんどうですか?サプライズそしてルールを破るという…。
何かやっぱり怖いとかもあるでしょうし失敗とか。
そっちがだから…あるっちゃありますけど。
原さん失敗って考えなかったんですか?意外とね考えてらっしゃらないと思います。
だけどね失敗っていうのはねしなきゃいけないんですよ。
成功してると今までのやり方変えないわけでしょう。
失敗をたくさんした人というのはね非常に知識の量が多くなって最終的には成功する確率が高い。
いいんですね。
これいいですね若者見てますかね?もうやれと。
そして失敗しろと。
一流企業の本社が集まる日本経済の中心地東京・大手町。
経済改革を手がけた老中田沼意次の屋敷はまさに現在の経団連のビルの敷地にありました。
このころの江戸の世相を書いた随筆「甲子夜話」には田沼の屋敷に面会にやって来る人々の様子がこう書かれています。
「田沼家の大部屋は30人ほどが座る事ができる。
大抵の老中の座敷は客が障子などを背にして1列に座って待つのが普通だが田沼邸では更にその向かい側に並んでそれでもなお人がやって来るのでその間にまた並んで更に来た人が座敷の外側に並ぶ事になる」。
田沼のモットーは面会希望者を断らない事。
幕臣や諸大名の家来はもとより商人や農民まで身分にかかわらず誰とでも会いました。
ある日田沼の前に現れたのは一介の浪人。
江戸の天才発明家平賀源内。
源内は「土用の丑の日はうなぎ」という広告コピーを作ってうなぎ屋を繁盛させたり蘭学の知識をもとに日本初の発電装置エレキテルを発明したり何ともえたいの知れない男でした。
源内は田沼にこんな情報を伝えています。
田沼は源内の言葉をヒントに秩父の中津川金山の開発など幕府の新たな鉱山開発を行っていきました。
田沼はまた江戸で評判の町医者にも会いました。
そなたが人参博士か?はい。
ずっと人参の研究を続けております。
(田沼)おおさようか。
この田村藍水朝鮮人参など漢方の大家として知られていました。
当時薬として人気が高かった朝鮮人参は高価でほとんどが輸入品でした。
しかし藍水によれば…。
藍水に命じて田沼は朝鮮人参の大量栽培を行わせました。
それを幕府の独占販売にする事で利益を得たのです。
藍水はこの他にも輸入品に頼りきっていた綿羊を飼育してウールの紡績を行ったりさまざまな国内産業の立ち上げに貢献していきました。
更にある時田沼の前に農民が現れました。
この農民は現在の川崎市にあった村で名主をしていた池上幸豊。
難しい白砂糖の生産に成功していました。
もし大量生産が可能になれば輸入に頼っている白砂糖も幕府が独占販売できる。
田沼は池上に各地での生産指導を命じました。
一見面倒くさそうに思える売り込みも断らず生き生きとした民間の発想を吸い上げていった田沼。
田沼はこんな遺言を残しています。
YOUさんどうでしょう?とにかく人と会う田沼意次の知恵。
すごいですね。
積極的に魅力的な人とかあと何んだろう?この人何か怪しいなみたいな人もちょっとちゃんと掘ってね面白い人を見つけてね。
怪しい人がどんどん集まってくるというのは確かにあるんですけど。
しかも自分自身が身分が低いところから出世してるもんですから…現代で言えば田中角栄なんかがそうですね。
彼はありとあらゆる人に会いましたよね。
じゃあいわゆる目白御殿に人がたくさん。
人が非常にたくさん来てたっていう事ですね。
原さんは人に会う?いや役人はね会いたいっていう人にあまり会わない方がいいんだよね。
こっちの会いたい人に会うと。
来るものは拒むけれど…。
必ずしも全部拒みませんけどね。
だけどやっぱり…例えばどんな人に会いに?僕はずっと国際金融やってましたから為替を実際に実地でやってる人たちと会う機会っていうのは実は局長ぐらいになるとなかなかないんですね。
それでお願いしてね東京のキーになる為替ディーラーを15人ぐらい集まってもらってその人たちと大体1週間に1回必ず1時間か1時間半ぐらい対話をするっていうねそういう事をやったんですね。
やっぱり会う時は打ち解けて会わないとなかなか本音が出ないですからね。
本音が出るような形の会にするというのがね。
いろんな工夫があると思いますよ。
いろんな工夫があると思いますがそれが重要だと思いますね。
田沼はこう見てると失脚しそうもないんですけれどもこのあと失脚っていう事になってしまうんですか?そうですね。
まあさっきも言ったように武士が儲けるもんじゃないという潜在的な批判はあるわけですよね。
そういう時にたまたま浅間山の大噴火とかね天明の大飢饉なんていう…これは別に田沼のせいじゃないんですけどあれは全部田沼が悪いんだと。
あんな政治をやってるからこんな事になるんだっていうそういう声がどんどん高まってきてですねついに失脚って事になるわけなんですね。
これだけ異例の出世をするとやっぱり妬まれますよね。
田沼の敵対する人物っていうのはどんな方が?一番敵対したのは松平定信なんですね。
これは吉宗の孫なんですけど田沼によって御三卿の田安家っていうところから白河藩の藩主になるんですね。
するともう将軍になれなくなっちゃったわけですね。
それで恨んでるんですけど定信は幕政顧問の家格になったら今度は田沼の攻撃をやり始めるんですね。
将軍を取り込んでというか将軍の周辺を取り込んで田沼を失脚させるっていうそういう事になるわけですね。
相当したたかな人物ですね定信もね。
松平定信はどんな政策を行ったんですか?定信は田沼に非常に反感を持ってますからそういう商業とかそういうものからどんどんお金を取るという事ではなくてとにかく倹約して幕府財政を好転させましょうっていうそういう方向にまた舵を取るわけですね。
じゃ元に戻す。
ええ元に戻る。
やっぱり自分のおじいさんの吉宗の政治が理想なので。
田沼がいろいろと許してた出版だとかそういうものもどんどんどんどん規制していくんですね。
でもあんまり厳しいと息苦しいんで最初は田沼を随分批判した人も田沼の時代結構よかったなというそういう人も出てくるわけなんですね。
さまざまな一面が見えてきましたけれども実は田沼というのは大名になって初めて治めた地域が静岡県の相良という所だったんですね。
そこではまた意外な顔都市プランナー町づくりでも手腕を発揮するんですがそれをうちの特命店員が調べてきてくれました。
主人公ゆかりの地から取って置きのネタをお届けする…こんにちは。
一介の旗本から大出世した田沼は40歳の時ここ相良藩の大名になりました。
(大下)
静岡県中部の海沿いの町相良は大名になった田沼意次が大改造してつくり上げた町
まず訪れたのは町の史料館
中には刀や裃など田沼家ゆかりの品々が数多く展示されています。
相良では名君として慕われ失脚したあとも地元の人々によって大切に保存されてきました
あ〜これが田沼家の家紋なんですね。
郷土の偉人として田沼の家紋は町の小中学校の校章にもなっています
史料館の学芸員長谷川倫和さんにお話を伺いました
田沼意次が相良の町をつくったと聞いたんですがこれってほんとなんですか?本当です。
そこでですね是非見て頂きたいものがありますので。
長谷川さんが見せてくれたのは田沼時代の一枚の地図
そこには城を中心に城下町として栄えている様子がうかがえます
しかしもともと田沼が大名として入った時の相良は城もない小さな町にすぎませんでした
それを田沼がここまで本格的な町につくり変えたのです。
そこには今にも生かせる知恵が
長谷川さん田沼意次の町づくりの知恵って何ですか?まず1つ目は「町に直結するバイパスを作れ」。
(長谷川)今から入っていくのが実は田沼街道といいます。
この田沼街道というのは「田沼」という事から分かるように田沼意次がこちらに来て初めて作られた街道なんですね。
田沼が治めるより前の時代東海道から相良の町までは10キロ以上離れていて直接つながる道がありませんでした。
そこで田沼は大動脈である東海道と相良の町をつなげる事を最優先。
新しい街道を整備したのです
こういったね東海道と相良の町をつなぐ…
更に田沼は海もうまく活用しました
その2は「港と町を一体化させろ」。
江戸への窓口となる港を整備しその近くに計画的に商人の町をつくり上げました
当時重い物を運ぶ手段というのは船しかなかったんですね。
なので船が着けられる近くに店を構えておけば物が大変運びやすくなるんです。
田沼がつくった城の正面にある商人街。
ここは今も町のメインストリートとして使われています
こちらのお店は創業300年の老舗。
かつては江戸へ商品を運ぶ廻船問屋で田沼の時代に大いに繁盛しました
例えば米とか雑穀それからこの辺りですとね木炭とか薪そういったものが多分中心になったんじゃないかと思います。
そのころ江戸はどんどん人口が増えてますからそういう人の胃袋を支えてたんでしょうね多分。
そんな田沼効果によってヒット商品も生まれました。
それが…
これは丸ごと一匹のさわらの塩漬け。
天日干しにしわらの中で寝かせてうまみを引き出します
江戸城にも献上され田沼意次の宿敵松平定信もその味を絶賛したといいます
定信いわく…
この他にも江戸の人々に評判になったのが相良のかつお
(大下)よくじゃあ皆さん召し上がるんですかね?
江戸の昔から相良ではかつおをお茶漬けでも食べてきました
かつおがすごくモチモチしてますしすごくおいしいですね。
(森田)ありがとうございます。
田沼の大改革により相良の世帯数は30年足らずの間に1.5倍に増加しました
相良では今も町をつくった恩人として知らない人がいないほどの大ヒーロー
さまざまなイベントで田沼の名前が掲げられています
(取材者)「田沼」って呼び捨てにはしない?
もし田沼が失脚していなかったら日本の町も大きく変わったかもしれないですね
「田沼様」。
地元ではヒーローなんですね。
実際田沼が賄賂を取ったなんて言うと地元から抗議が来た事もありますからね。
賄賂取ったという証拠があるかと。
(笑い)え〜!あの町見てるとやっぱり商人的感覚で物流を大事にしてますね。
港のそばに町をつくるとかね非常に物流って事にね。
それから道路とかね。
そこはちゃんとポイントとして分かっていたんですね。
分かってたんだと思いますよね。
という事で今日今夜は田沼2015/11/24(火) 12:00〜12:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉 花のスーパー官僚がゆく!「田沼意次の江戸大改革」[解][字][再]

悪徳政治家として語られがちな江戸幕府老中、田沼意次。実は大奥で話題のイケメン官僚だった。大胆な経済政策を打ち出し世のムードを明るく一新。評価の高まるその実像は。

詳細情報
番組内容
悪徳政治家として語られがちな江戸幕府老中、田沼意次。実は大奥でも話題のイケメン官僚だった。大胆な経済政策を打ち出し、享保の改革で「倹約疲れ」を起こしていた社会のムードを明るく一新。成長の時代をもたらした、その政策は、鎖国の見直しや通貨の統一など明治政府の近代化政策を100年以上前に行っていた。敵の恨みをかって失脚した田沼。「思い込みを捨てて優先順位を変えろ」「全員と会え」など斬新な改革の極意とは。
出演者
【ゲスト】青山学院大学教授…榊原英資,東京大学史料編纂所教授…山本博文,YOU,【司会】近田雄一

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
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日本語(解説)
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