フィギュアスケートの浅田真央は、私にとって、踊り子にしか見えない。
世界選手権では、リンクにかぶりつきで、彼女が踊っている様に嬌声を
あげて、「踊り子さんには、お手を触れないでください。」とアナウンスされ、
しわくちゃのドル札を、彼女にねじ込もうとして、一生懸命、手招きをする。
なにしろ、通常のポールダンスをやる場所より、やけに、だだっ広いのだ・・。
しかし私はチャンスを逃さない。彼女のエキシビジョンは、『SMILE』という
歌を流しながら踊るのだが、その歌詞の中で「握手して」という部分があり、
彼女はそれに合わせて演技中、観客の1人と握手するのである。ここだ!
彼女が誰かと握手する瞬間、そいつにタックルをくらわせて入れ替われば、
そのままハンドルからマウントに入れるだろう。(ナンパプログラムを参考に)
そんなことを企てつつ、そもそもチケットとれなくて、だったら直接会場に行き、
関係者入口から侵入しようと考えつつ、やっぱり面倒くせえと、家から出ない、
そんな私は無精者だろうか?いや、こんなことするよりも、他に道があるのだ。
それは、圧倒的な努力で、高みにまで昇りつめた浅田真央を超えることであり、
彼女を追うことではない。感動した対象に対しては、乗り越えるのが、正解だ!
★
そういえば、だいぶ前に、アメリカのナンパ世界を描いた本『ゲーム』に感動して、
私は一時、そのマネをしようとしていた。これもまた、非常に滑稽であり、結局は、
日本にそぐわない内容を、そのままやろうとするのではなく、乗り越えようとした。
黒人のラップを、そのまま、あの格好でマネしてるJ−RAPが、以前多かったが、
ああいうのは、薄っぺらくてカッコ悪い。自分の内側から開花させないと無意味。
それと同じように、私は、そもそもが違うアメリカのナンパ世界を無視し、日本の
風土を研究しながら、自らの内側から出てくるものを掴みとり、モノにしていった。
その後、『ゲーム30DAYS』という新作も出たが、その頃には、なんじゃ、こりゃ?
としか思えず、その時点で、とっくに乗り越えていたことがわかり、だいぶ年月は
かかったが、ナンパを日本風に開花させることができ、今は非常に満足している。
そして、お次は、浅田真央である。これには少々たじろいだ。前回は、アメリカから、
外圧という形だったが、今回の衝撃は、日本の内部中枢から現れた、内圧だった。
しかも、ほとんどの人が以前から知っている国民的ヒロイン。私は、なんとかして、
彼女を超えないと気がすまない。でも、どうやったらいいのか?よく、わからない。
ちょうど以前のブログ『タダでナンパする!』は運営の都合もあり終了させ、流れで、
この新しい場所に引越してきたわけだし、なにかしら、新しい内容で、始めてみたい。
どうしても、放っておくと、以前のように、またナンパのことばかり書いてしまうので、
なんとか、楽なナンパに逃げないように意識している。この間も、突然、反動的に、
このブログタイトルを『タダでナンパするぞえ!』と、少しだけ変えて、変更していた。
また今の『何も無くとも極めてみるか。』に戻したが、いやはや、実際、私にはもはや、
ナンパ位しかない・・。他に何があるというのか?10年間の習慣というのは、本当に、
根強いもので、ひたすらナンパのことだけ書いてれば安心してしまう。わかりきったと
思ってるから、そうなるわけだが、もっと不安で苦手で、わからないことに向かわんと。
(しばらくは、新タイトル:『何も無くとも極めてみるか。』を続けたが、結局、また戻した)
★
そんなわけで、今はまだ試行錯誤の時期である。とりあえず、ナンパだけを続ければ、
浅田真央を超えることができるとは思えない。かといって、これまでのナンパを捨てて、
何かが出来るとも思えない。だから、まずは、今、自分の手元にある経験から始めよう。
一気に高みにのぼろうとしてもムリだ。まず、自分の冷蔵庫にあるものだけで、料理を
始めれば、いつの間にか、次々と新しい扉が開いていくだろう。いつも、同じじゃないか。
いろいろとアイデアが浮かびすぎて、しかも、それらが矛盾しあって、何かを見落として
いる気がするが、とりあえず現在、確定しているのは、『五輪』を目指すということである。
もちろん、私には何も無い。浅田真央のように、コーチもいなければ、スポンサーもなく、
国民のプレッシャーもない。それどころか、何かの競技に励んだり、属してさえもいない。
そして、こういった、何も無い者たちが目指すのが、『何無派五輪』と呼ばれるものである。
2014年04月12日
限界に挑戦するために、五輪を目指す。
posted by fmtbank at 10:41| カテゴリ無し
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2014年04月10日
制限があるからこそ面白い
世間一般でいうなら、ナンパをするにあたり、不利な条件というのはある。
例えば、無職で貧乏だったり、ルックスが全然ダメで、年齢もいっていたり、
内気でシャイで引っ込み思案、口下手、体が弱いなどの、マイナス要素だ。
しかし、こういった一見、マイナス要素によって制限された中で、いろいろと
工夫して、なんとかゲームをクリアする面白さは、とんでもない喜びを伴う。
そもそも人間は、制限だらけの中で遊ぶのが大好きである。自由になる手
よりも、足でボールを扱う方が制限されるので、ハンドボールよりもサッカー
の人気が出たり、俳句なんかも、五七五の制限の中で表現するからいい。
また、逆境の中で、人生の大逆転をした話なども、ドラマチックで大好きだ。
結論をいってしまえば、我々が今、このセカイに存在しているのは、単純に
制限の中で遊戯をするためである。制限があるからこそ、本気になれるし、
寿命や時間というのも「制限」そのもので、まさしく、「制限」と戯れる一生だ。
全ての個体は、その肉体的特徴と境遇により、それぞれが制限されていて、
個体差はあまりにも違う。そのため、制限ゲームの難しさも違ってくるだろう。
中には、「五体不満足」の乙武とか、すごい制限でゲームをしている者もいて、
彼は彼で、手も足も使わないで、どれだけの事ができるのか?挑戦している。
この自分に課した制限の中で、どれだけやりきれるか?が、死ぬ前に、よし!
面白かった!と言いきれる、勝ち組の人生だろう。それは世間的に成功して、
幸せなフリをしていても、自分だけにはハッキリとわかる、嘘つけないゲーム。
この制限ゲームに勝つ者は少ないと思うが、おそらく無名な人にも多いはず。
★
私も、とにかく、やりきって死にたい。あいにく、岩城滉一のように、若い頃から、
今もなおモテモテで、女に関しては制限を感じず、それは同時に、満足できず、
そのため、宇宙にまで行かなくちゃいけない、大それた制限ゲームは必要ない。
もっと日常的で、内向的なゲームで満足できる。しかし、それを極めまくりたい。
そのためには、まず他人を目指さず、自分の中にあるものだけを有効利用して、
絶対無理だという制限を超越し、最終的には、高らかに笑いたい。それが究極!
確かに、高級レストランに行って、結構なお金を払い、他人に作ってもらう料理も、
おいしいだろう。しかし、自分の冷蔵庫にある、ありものだけを使い、自炊した料理
が思いの外、おいしくて、「意外といける!」の時の方が、ずっと嬉しかったりする。
通常、不満が多い者は、すぐ恵まれた他人に憧れてしまいがちだが、他人は他人、
その人は、その人なりの制限ゲームをやっているのである。それより、まず自分は、
どんな制限を感じているのか?そこを掴むところから、すべてが始まるに違いない。
人生を極めるというのは、自分の制限を究めること。さぁ、何も無くとも極めてみるか。
例えば、無職で貧乏だったり、ルックスが全然ダメで、年齢もいっていたり、
内気でシャイで引っ込み思案、口下手、体が弱いなどの、マイナス要素だ。
しかし、こういった一見、マイナス要素によって制限された中で、いろいろと
工夫して、なんとかゲームをクリアする面白さは、とんでもない喜びを伴う。
そもそも人間は、制限だらけの中で遊ぶのが大好きである。自由になる手
よりも、足でボールを扱う方が制限されるので、ハンドボールよりもサッカー
の人気が出たり、俳句なんかも、五七五の制限の中で表現するからいい。
また、逆境の中で、人生の大逆転をした話なども、ドラマチックで大好きだ。
結論をいってしまえば、我々が今、このセカイに存在しているのは、単純に
制限の中で遊戯をするためである。制限があるからこそ、本気になれるし、
寿命や時間というのも「制限」そのもので、まさしく、「制限」と戯れる一生だ。
全ての個体は、その肉体的特徴と境遇により、それぞれが制限されていて、
個体差はあまりにも違う。そのため、制限ゲームの難しさも違ってくるだろう。
中には、「五体不満足」の乙武とか、すごい制限でゲームをしている者もいて、
彼は彼で、手も足も使わないで、どれだけの事ができるのか?挑戦している。
この自分に課した制限の中で、どれだけやりきれるか?が、死ぬ前に、よし!
面白かった!と言いきれる、勝ち組の人生だろう。それは世間的に成功して、
幸せなフリをしていても、自分だけにはハッキリとわかる、嘘つけないゲーム。
この制限ゲームに勝つ者は少ないと思うが、おそらく無名な人にも多いはず。
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私も、とにかく、やりきって死にたい。あいにく、岩城滉一のように、若い頃から、
今もなおモテモテで、女に関しては制限を感じず、それは同時に、満足できず、
そのため、宇宙にまで行かなくちゃいけない、大それた制限ゲームは必要ない。
もっと日常的で、内向的なゲームで満足できる。しかし、それを極めまくりたい。
そのためには、まず他人を目指さず、自分の中にあるものだけを有効利用して、
絶対無理だという制限を超越し、最終的には、高らかに笑いたい。それが究極!
確かに、高級レストランに行って、結構なお金を払い、他人に作ってもらう料理も、
おいしいだろう。しかし、自分の冷蔵庫にある、ありものだけを使い、自炊した料理
が思いの外、おいしくて、「意外といける!」の時の方が、ずっと嬉しかったりする。
通常、不満が多い者は、すぐ恵まれた他人に憧れてしまいがちだが、他人は他人、
その人は、その人なりの制限ゲームをやっているのである。それより、まず自分は、
どんな制限を感じているのか?そこを掴むところから、すべてが始まるに違いない。
人生を極めるというのは、自分の制限を究めること。さぁ、何も無くとも極めてみるか。
posted by fmtbank at 11:03| カテゴリ無し
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2014年04月09日
一時的に群れるのも、またよし!
私は、あまりにも孤独者を肯定してるが、そこに、こだわりすぎてもいけない。
普段は、学校や仕事場で、皆と楽しく、協力しあうのは、当然、素晴らしいこと。
しかし、それで甘んじていることが出来ない者がいる。独りで何かを始めたい、
普段とは違う、自分を目覚めさせたいという、あの声が、内側から聴こえてくる。
そうして、最も手軽に始められるナンパに、独りで挑む者も、また孤独者であり、
その場合、友達もいなく、たいした趣味もない、実質的な孤独者よりは楽だろう。
ディープな引きこもりや、普段、誰とも話さない者がナンパを始めるのは大変だ。
そこで注意としては、あまりにも苦しいのなら、絶対に、独りにこだわらないこと!
★
どうしても独りで出来ないようなら、一時的に、誰かとやってみるのも、またよし。
実際に、『ナンパ覚醒プログラム』でも、最後の週は、コンビナンパを扱っている。
当然ながら、最終手段として、誰かと一緒にやることを、強く勧めているのである。
そして、いったんは群れてナンパに慣れてから、また孤独な道を、突き進めばよい。
本当のことをいうと、群れても、最後は孤独に戻される。すべては自分次第なのだ。
普段は、学校や仕事場で、皆と楽しく、協力しあうのは、当然、素晴らしいこと。
しかし、それで甘んじていることが出来ない者がいる。独りで何かを始めたい、
普段とは違う、自分を目覚めさせたいという、あの声が、内側から聴こえてくる。
そうして、最も手軽に始められるナンパに、独りで挑む者も、また孤独者であり、
その場合、友達もいなく、たいした趣味もない、実質的な孤独者よりは楽だろう。
ディープな引きこもりや、普段、誰とも話さない者がナンパを始めるのは大変だ。
そこで注意としては、あまりにも苦しいのなら、絶対に、独りにこだわらないこと!
★
どうしても独りで出来ないようなら、一時的に、誰かとやってみるのも、またよし。
実際に、『ナンパ覚醒プログラム』でも、最後の週は、コンビナンパを扱っている。
当然ながら、最終手段として、誰かと一緒にやることを、強く勧めているのである。
そして、いったんは群れてナンパに慣れてから、また孤独な道を、突き進めばよい。
本当のことをいうと、群れても、最後は孤独に戻される。すべては自分次第なのだ。
posted by fmtbank at 12:57| カテゴリ無し
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2014年04月08日
何無波ラジオを受信せよ!
昨日、『想像ラジオ』という、震災にまつわる小説を読んでいた。
いとうせいこうによる、何らかの賞をとった、ベストセラーである。
いや、お勧めするわけじゃない。ずっと前に買って放置していた
程度のものであり、シリアスで、私には、ほとんど響かなかった。
しかし、死者にしか聴こえないラジオというのが、いい感じであり、
私も本当はブログではなく、ラジオをやりたい。それも孤独な者
だけにしか届かないラジオだ。心を静めると聴こえるようなもの。
そんな微弱な電波(これを短波ではなく、何無波という)ラジオ・・。
実際にネットラジオをやると、孤独じゃない者にまで届くのがイヤ。
私は極端な孤独好きだ。孤独じゃない者にシンパシーを感じない。
ただし、孤独に甘んじている者にも興味はない。自ら、路上へと、
足を運んで、女という未知に身をひたそうとする者、たった独りで、
声をかけていこうとする勇者のみに届く、そんなラジオをやりたい。
家で引きこもってる孤独者を、外に誘い出すキッカケにもなりたい。
★
仲間とナンパする、誰かとナンパすることは、そりゃ楽しいし、ラク。
しかし孤独じゃなくなるので、細やかな何かが聴けなくなる。やはり、
孤独でないと見えないもの、聴こえないもの、というものがあるのだ。
たった独りで何かをやろうとすると、途端に、全ての趣が変わってくる。
不安が襲い、妥協が起こり、立ち止まる。すがるものが何も無いのだ。
そして私は、この何無派道場を、そんな何も無い者へ捧げたい。独り、
前進する時、かすかに聴こえてくるラジオのような、その程度の支援。
私は孤独者を救うつもりなどない。人は根本的に、他人を救えないし、
そもそも他者に救済を求めようとするのは、孤独からの逃げでもある。
ただ、かすかな刺激になればと思う。独りで行動する際には、数多くの、
迷いや躊躇が襲ってくるが、その時、わずかな気持ちの転換に繋がり、
すべてを不意にするような撤退や諦めから、覚醒への道へと飛び込む。
その一瞬につながれば万々歳だ。家元は常に、ここにいる。幸運を祈る!
いとうせいこうによる、何らかの賞をとった、ベストセラーである。
いや、お勧めするわけじゃない。ずっと前に買って放置していた
程度のものであり、シリアスで、私には、ほとんど響かなかった。
しかし、死者にしか聴こえないラジオというのが、いい感じであり、
私も本当はブログではなく、ラジオをやりたい。それも孤独な者
だけにしか届かないラジオだ。心を静めると聴こえるようなもの。
そんな微弱な電波(これを短波ではなく、何無波という)ラジオ・・。
実際にネットラジオをやると、孤独じゃない者にまで届くのがイヤ。
私は極端な孤独好きだ。孤独じゃない者にシンパシーを感じない。
ただし、孤独に甘んじている者にも興味はない。自ら、路上へと、
足を運んで、女という未知に身をひたそうとする者、たった独りで、
声をかけていこうとする勇者のみに届く、そんなラジオをやりたい。
家で引きこもってる孤独者を、外に誘い出すキッカケにもなりたい。
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仲間とナンパする、誰かとナンパすることは、そりゃ楽しいし、ラク。
しかし孤独じゃなくなるので、細やかな何かが聴けなくなる。やはり、
孤独でないと見えないもの、聴こえないもの、というものがあるのだ。
たった独りで何かをやろうとすると、途端に、全ての趣が変わってくる。
不安が襲い、妥協が起こり、立ち止まる。すがるものが何も無いのだ。
そして私は、この何無派道場を、そんな何も無い者へ捧げたい。独り、
前進する時、かすかに聴こえてくるラジオのような、その程度の支援。
私は孤独者を救うつもりなどない。人は根本的に、他人を救えないし、
そもそも他者に救済を求めようとするのは、孤独からの逃げでもある。
ただ、かすかな刺激になればと思う。独りで行動する際には、数多くの、
迷いや躊躇が襲ってくるが、その時、わずかな気持ちの転換に繋がり、
すべてを不意にするような撤退や諦めから、覚醒への道へと飛び込む。
その一瞬につながれば万々歳だ。家元は常に、ここにいる。幸運を祈る!
posted by fmtbank at 12:56| カテゴリ無し
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2014年04月07日
孤独じゃない人お断り!(孤独から孤高へ)
このブログは孤独な者に向けている。孤独じゃない人は、どうでもいい。
そもそも群れたザコになど興味ないのである。彼らは、パワーあるように
見えて、実は、独りになると何もできない。常に、他人頼りで、無意識だ。
そんな連中より、内気で引っ込み思案だったり、マニアックで少数派で、
周囲と溶け込めなかった者の方が、すっと面白く、可能性に満ちている。
しかし、そんなヒッキーにとって、独りで行動することは、とても難しい・・。
たった独りで、何か新しいことを始めることほど、不安なことなどないし、
何よりも、うまくいかない中でも、独りで続けることは、至難の業である。
例えば、コトヴァを極めるとしたら、営業の仕事についてたり、お笑いの
芸人をやっていたり、カウンセラーだったり、そうせざるをえない状況で、
ライバルなんかもいて、切磋琢磨するなら、人間は、意外に続けられる。
しかし、そんなプロ達と違い、何にもやってないなら、ヒッキーであるなら、
これは難しい。途方もなく、挫折しやすい。孤独な者は、全てが自分次第。
自分次第なら、自由でお気楽、と思ったら大間違い。実は、ほとんどの者、
いわゆる大衆は、自分で決めたくない。誰かに決めてもらって、それに従う。
そして自分では何も新しいことを始めず、ただ他人を批評するだけの家畜。
与えられたエサをパクつき、檻の中には仲間もいるし、慰めは与えられる・・。
それに反して、新しいことを始める者は皆、孤独である。自分から動くことは、
ありとあらゆる迷い、ありとあらゆる躊躇を乗り越えていかなくてはならない。
自由と不安は同義であり、この心細さは、独りで進む者をトコトン苦しめる。
一歩間違えるなら、精神を病んでしまうような、この「孤独」を、いかにして、
「孤高」にもっていくのか?闇の中を彷徨いつつ、高みを目指していくのか?
その究極の道が、このブログには、綴られていく。もちろん大衆向けでなく、
孤独な者に向けている。心に孤独を宿す者、要するに、あなた独りのため。
読者は1人だけでいい。極めて、パーソナルだ。別に、応援などもいらない。
ただ、死ぬ前に「面白かった!」と納得したいがために、やりきるだけである。
そもそも群れたザコになど興味ないのである。彼らは、パワーあるように
見えて、実は、独りになると何もできない。常に、他人頼りで、無意識だ。
そんな連中より、内気で引っ込み思案だったり、マニアックで少数派で、
周囲と溶け込めなかった者の方が、すっと面白く、可能性に満ちている。
しかし、そんなヒッキーにとって、独りで行動することは、とても難しい・・。
たった独りで、何か新しいことを始めることほど、不安なことなどないし、
何よりも、うまくいかない中でも、独りで続けることは、至難の業である。
例えば、コトヴァを極めるとしたら、営業の仕事についてたり、お笑いの
芸人をやっていたり、カウンセラーだったり、そうせざるをえない状況で、
ライバルなんかもいて、切磋琢磨するなら、人間は、意外に続けられる。
しかし、そんなプロ達と違い、何にもやってないなら、ヒッキーであるなら、
これは難しい。途方もなく、挫折しやすい。孤独な者は、全てが自分次第。
自分次第なら、自由でお気楽、と思ったら大間違い。実は、ほとんどの者、
いわゆる大衆は、自分で決めたくない。誰かに決めてもらって、それに従う。
そして自分では何も新しいことを始めず、ただ他人を批評するだけの家畜。
与えられたエサをパクつき、檻の中には仲間もいるし、慰めは与えられる・・。
それに反して、新しいことを始める者は皆、孤独である。自分から動くことは、
ありとあらゆる迷い、ありとあらゆる躊躇を乗り越えていかなくてはならない。
自由と不安は同義であり、この心細さは、独りで進む者をトコトン苦しめる。
一歩間違えるなら、精神を病んでしまうような、この「孤独」を、いかにして、
「孤高」にもっていくのか?闇の中を彷徨いつつ、高みを目指していくのか?
その究極の道が、このブログには、綴られていく。もちろん大衆向けでなく、
孤独な者に向けている。心に孤独を宿す者、要するに、あなた独りのため。
読者は1人だけでいい。極めて、パーソナルだ。別に、応援などもいらない。
ただ、死ぬ前に「面白かった!」と納得したいがために、やりきるだけである。
posted by fmtbank at 07:59| カテゴリ無し
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2014年04月06日
原点回帰(タイトル戻す!)
ここ最近、ブログを引っ越したばかりで、以前の記事を読みかえしている。
ブログ内で記事同士のリンクが、以前のURLのままでは機能しないので、
新たに修正するために始めたわけだが、自分でも刺激を受けてしまった。
急に原点回帰の気持ちが高まり、タイトルを以前のものに戻すことにした。
ただし、以前の『タダでナンパする!』のままでは芸がないので、そのまま、
音声プログラムでお馴染みの『ナンパするぞ!』の語尾、「ぞ」を付加して、
さらに、和風の何無派(ナンパ)ブログなので、「ぞえ!」をプラスしてみた。
最近の『何無派神話大系』や、『何も無くとも極めてみるか』は難しすぎた。
この『タダでナンパするぞえ!』なら、どこか上品で、かつバカっぽくていい。
ブログ内で記事同士のリンクが、以前のURLのままでは機能しないので、
新たに修正するために始めたわけだが、自分でも刺激を受けてしまった。
急に原点回帰の気持ちが高まり、タイトルを以前のものに戻すことにした。
ただし、以前の『タダでナンパする!』のままでは芸がないので、そのまま、
音声プログラムでお馴染みの『ナンパするぞ!』の語尾、「ぞ」を付加して、
さらに、和風の何無派(ナンパ)ブログなので、「ぞえ!」をプラスしてみた。
最近の『何無派神話大系』や、『何も無くとも極めてみるか』は難しすぎた。
この『タダでナンパするぞえ!』なら、どこか上品で、かつバカっぽくていい。
posted by fmtbank at 10:39| カテゴリ無し
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2014年04月04日
キッカケは浅田真央だった。
キッカケは、ソチ五輪における、浅田真央の演技であった。
それまで、彼女やフィギュアのことなど、ほとんど知らずに、
あの復活劇をたまたま目にして、度肝を抜かれたのである。
それは長年探し求めていた一つの答えでもあった。彼女は、
間違いなく、究極のナンヴァ使いである。(体を使う者のこと)
現役の女子では唯一、トリプルアクセルというジャンプを跳ぶ。
それも、失敗して、他の演技にまで影響があろうとも、二年間、
まともに跳べない時期があろうとも、ずっと挑戦を続けてきた。
そもそも他者が出来ないのなら、これは純粋に、自分との戦い。
その、あまりの孤独っぷりが美しく、なぜだか、他人に思えない。
★
そして、私は決めたのだ。彼女がナンヴァ使いを極めたのならば、
私はコトヴァを極めよう。究極のコトヴァ使いとして命を捧げる、と。
そうして新たに『何無派道場』が開場された。それは今、ここにある。
ここ『何無派道場』において、彼女は、神話の岩戸開きの時に踊った、
アマノウズメともいえる。彼女の舞いで、新たに開き、日が差したのだ。
(以下は、浅田真央のトリプルアクセルシーンをつなげたプロモ動画)
それまで、彼女やフィギュアのことなど、ほとんど知らずに、
あの復活劇をたまたま目にして、度肝を抜かれたのである。
それは長年探し求めていた一つの答えでもあった。彼女は、
間違いなく、究極のナンヴァ使いである。(体を使う者のこと)
現役の女子では唯一、トリプルアクセルというジャンプを跳ぶ。
それも、失敗して、他の演技にまで影響があろうとも、二年間、
まともに跳べない時期があろうとも、ずっと挑戦を続けてきた。
そもそも他者が出来ないのなら、これは純粋に、自分との戦い。
その、あまりの孤独っぷりが美しく、なぜだか、他人に思えない。
★
そして、私は決めたのだ。彼女がナンヴァ使いを極めたのならば、
私はコトヴァを極めよう。究極のコトヴァ使いとして命を捧げる、と。
そうして新たに『何無派道場』が開場された。それは今、ここにある。
ここ『何無派道場』において、彼女は、神話の岩戸開きの時に踊った、
アマノウズメともいえる。彼女の舞いで、新たに開き、日が差したのだ。
(以下は、浅田真央のトリプルアクセルシーンをつなげたプロモ動画)
posted by fmtbank at 12:58| カテゴリ無し
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