高畑勲「まだ20分しかできていません…」
鈴木敏夫「高畑監督、死んで貰います」
今となっては昔のことだが、『かぐや姫の物語*1』という映画が上映された。キャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」、監督の名を高畑勲といった。制作期間に8年、制作費に50億円投じられたという。なお冒頭は、鈴木プロデューサーと高畑監督の静かなる決闘の様子である。
※平安時代からすでにバレてますが、以下ネタバレを含むのでご注意ください。
※古典文学ですので、少し復習するのも良いでしょう。
○前提1:予告用ダイジェスト版(約6分)
"Kaguya-hime no Monogatari" 6min Official Full Trailer - YouTube
○前提2:おなじみ原作と現代語訳を拾ってきました
序:映像美とキャッチコピー
輪郭が曖昧であることのメリット
筆圧、筆の運び、墨継ぎの様子がうかがえる輪郭線や色付けは、意図的に曖昧さを残すことで、皆どこかでつながっているようです。まるで「動く絵巻物」のように物語が進んでいきます。その曖昧さには、過去も現在も未来も連続しどこかで融合*2し、人もそうでないものも平等に存在する「仏教的、また日本的な」思想が詰まっているかのようです。
一本の絵巻物が表現できるのは、「一連の物語の時間と空間」です。巻物の長さと面積が、個々の絵に「楽譜」や「脚本」に似た性質やライブ感をもたらしている。これは、「ひとつの完結した世界」を完璧に創り上げ、表現する西洋画とはかなり異なる形式のように思います。
また、例えばジュラシックワールドなどの迫真にせまるCGとは異なる、いわば「迫真性のない」2次元の世界は、観る側がリアリティを後づけする余地があります。ようは頭の中で個人的なsomethingを投影して鑑賞しやすくなるということです。
たとえば、高畑監督の「かぐや姫」を描きつつ「一般的な女の成長過程」も表現することができるというわけです。そんなわけで、『かぐや姫の物語』は、かぐや姫の話を高畑監督の解釈で表現しているわけですが、実は観覧者の個人的な体験でもあるというわけです。
月並みな話でした。
なぜ『罪と罰』か
「え、かぐや姫は罪を犯してたの?」
少なくとも私にはセンセーショナルなコピーに映りました。日本にも罪、罰の概念はありますが、あえて「罪と罰」のセットにすることで、現代に生きる我々に想起されるのは、特に愛に押しつぶされたラスコーリニコフが罪を犯すドストエフスキーのアレに代表される、どこか西洋的な考えのように思えます。(まあ、西洋に限らず人間社会には法律があり、「罪を犯せば、罰を受ける」ように出来ていないと無法地帯になるわけですが…)
ときは平安時代。地上に対するのは天、月はその象徴とでもいえるでしょう。仮に、かぐや姫が「ワケあり(有罪判決)で天から地へ下ろされてしまった」とすれば、「地上に生まれること」すなわち処罰ということになります。「月から迎えが来る」ときは、刑罰の執行期間が終わったか、釈放されるような何かをしたと考えられます。地上は刑務所か…と切なくなりつつ、確かに、生きている限りこれでもかと「やってらんねぇなぁ」って出来事に遭遇するのは認めざるを得ない。
聖書的な視点で本編を観ると、生まれることが罰というのは「原罪」の概念に近いのかもしれません。かぐや姫は罰として天上を追放されて地上に生まれた。しかし、西洋の神は慈悲深く、「欲」自体を罪とするわけではなく、些細な罪ならば見逃します。
仏典における輪廻の考えが『竹取物語』に含まれているとすれば、「生きる=苦しむ」とおきかえることができます。地上で苦行を重ね、魂のステージを上げて輪廻から解脱するのが仏教の最終目標です。さらに、「解脱した人しか天に行けない」とすると、直接天から迎えが来たということは、かぐや姫は天で罪を犯したのかもしれません。
これは推測ですが、「かぐや姫は、輪廻転生のなかで一度解脱したに関わらず、罪を犯した」のです。罪にも色々ありますが、天において罪の実行可能性には限りがあるような気がします。知らないけど。たとえば、「解脱=欲を捨てていることが大前提」なので、「天で何かを欲した」ら罪なのかもしれません。凡人の予想として、天は色々満たされたところで、悪いことも良いこともなく、ひたすら平和で何も必要ないところのような気がします。ルンバも出番がないくらい。
逆説的ですが、天にないものは、それこそ「生きる苦しみ」くらいでしょうか。
破:罪と罰の解釈
私の解釈ですが、「かぐや姫が地上に“憧れ(≒has always longed to visit)た”こと、すなわち罪」ではないでしょうか。
天にいながら地上を欲したため、「罰(報い)として地上に送り返された」としたら。そこには地上最強の苦悩を体験するに相応しい環境が用意されているはずです。それは周囲のあらゆる人間の、特にマイナスとされる感情を揺さぶるような環境でなくてはなりません。
竹の中から自分を見つけ世話をしてくれた翁は、それ故に卑しい考えを身につけてしまう。かぐや姫と出会わなければ、「あわてんぼうでどこか憎めない」翁で一生を終えたのでしょうが、あまりに美しい娘と多くの金を手にしたために変わってしまう。かぐや姫の本当の気持ちを察することなく、「立派に育てあげることがかぐや姫の幸せ」と早計に判断し、果ては良い嫁ぎ先を見つけるために相応の豪邸を建ててしまう。
かぐや姫はそれを横目に、年頃になっても相変わらずやんちゃでロッテンマイヤー教育係(いい人なんですけどね)の手に余る行動ばかり。眉も剃らずお歯黒もせず…今でいえばきちんと化粧をしてスーツを着なければならないところを、常にハイジのようにすっぴんで自由に動きまわっているような感じでしょうか。さすがのロッテンマイヤー教育係も「お暇をいただきたく…」と言い出します。
一悶着終え、結局おとなしく身だしなみを整え、教養を身につけた美しく賢いかぐや姫は、あまりに多くの男性の独占欲や性欲(=愛欲*3)を喚起します。しないわけがない。ちなみにクララは立ちません
そして数多くの、翁たちにとって分不相応な縁談(ついには帝まで!)が寄せられ、翁は「この中から決めなさい」と急かすのに対し、かぐや姫は難題を出して断固拒否します。ついに求婚相手たちは公衆の面前で面子を潰されていき、あるいは難題遂行のため命を捨ててしまいます。おそろしい光景です。
ときの最高権力者である「帝」は、眉目秀麗、才色兼備、67度の鋭いアゴまで持っています。このアゴにはさすがのかぐや姫も、胸キュン。だったみたいですが、気高い姫はついにある思いを胸に抱きます。
急:赦しの解釈
もう地上にいたくない。
様々な人間の欲望を実感し、それを愛しく思いつつもついに耐えきれない己を認めることで、かぐや姫の罪は赦され、月からお迎えが来たのではないか。という仮説です。
赦されなくても良いのかもしれません。解釈は観た人の分だけあり、それに正解も不正解もないのです。
ちなみに月からの使者が、かぐや姫を迎えに来たときのエレクトリカルパレード音楽がこちらです。涅槃では小さな出来事であり、みんな呑気なものです。別れの曲がこれとは、ショパン先生もびっくりです。
おまけ:愛について
(ⅰ)西洋の愛
西洋的思想の場合、罪を打ち消すものとして、専ら「無私の愛」がモチーフにされます。愛(アガペーの部類)をもって神に赦され、救いがもたらされます。ただ、愛には色々あって、友愛(フィリア)やら性愛(エロス)やら神の愛(アガペー)と超えられない区別があります。ちなみに神の愛は世界を救えます。
(ⅱ)東洋の愛
仏教的思想では「愛」は欲の一つでしかなく、何も救えないどころか解脱の邪魔です。「愛別離苦、会者定離」のような無常観がそこにあります。誤解をおそれずに言えば、「何かに執着しなければ、苦しまない」とでも言うべきでしょうか。「涅槃」という、苦しみもなく楽しみもないどこまでも平坦な世界を目指す、それが仏教のようにも見えます。
解釈はつづく