2011-01-25
「ホームレス×広告」 心に響く4つの広告
最近「広告×コミュニケーション」の言葉を良く耳にする。
それは消費者の生活行動の多様化やモノがありふれた結果などによって、広告の在り方が戦略的になり、そして広告がより人々の生活に入り込むようになったということだ。私はそういった考え方を利用して、戦略的に消費者の生活に情報を発信し、行動のキッカケをつくりたいと思っている。
今回は、ホームレスに対する広告キャンペーンについて調べてみた。実際それは様々な国で行われている。興味深かったものをいくつか挙げてみよう。
BEING HOMELESS
http://www.dailymotion.com/video/xcxzy9_being-homeless_webcam
これは2010年カンヌ広告祭のソーシャル広告銀賞を取った広告キャンペーンである。
写真にあるようにホームレスの人たちに小型カメラを内蔵したメガネをかけて生活してもらい、その生活のありさまをWEB上で見れるようにした。多くの人がホームレスとの接点を全く持たず、その理解も進まないなかにあって、この企画だけでも十分有意義に思われるが、面白いのはここからだ。動画を見終わってウィンドウを閉じようとすると、「申し訳ないのですが、ストリートから抜け出すのは簡単ではありません」という警告文が表示される。このWEBサイトから出るにはホームレス支援団体のロゴをクリックするしかない。そこから団体のホームページに飛ばされ、ホームレス支援の活動をしていること、寄付を集めていることなどが伝えられる。興味本位でサイトに来た人を寄付に誘導していく広告キャンペーンなのだ。多少強引な手法ではあるが、「ホームレスの境遇はひとえに個人の努力不足に帰結させられるようなものではない」というメッセージを強く感じられる、面白い広告だ。
TAKE AWAY DERELICT
同じくカンヌ受賞のソーシャル広告。
往来の多い通りの壁にたくさんの紙が貼られている。紙の絵柄は一枚一枚異なり、全体でそこに一人のホームレスの絵が描かれる。実はこの紙は裏面がホームレス自立支援団体への寄付申し込み用紙になっており、人々は自由に取って行って構わない。団体への共感者が一人また一人と増えていくにつれ、紙が一枚一枚消えていく。そしてとうとう街からホームレスが消える(救われる)。メッセージがビジュアル的にわかりやすい。
“心とクローゼットを開けてください”
不必要な服は寒さに凍えるホームレス達に寄付しようと投げかけている。映像認識技術によって、用意された服をポリバケツに入れると、映像の中の男性がそれを着る。このキャンペーンは、一過性にはすぎないが、彼らにとって寒さは生命に関わる重要な問題であるということを認知させる、素晴らしい取り組みだと思った。映像に見入る通行人たちの姿が印象的だ。
顔を背ける前に
最後はロサンゼルスで実施されたゲリラ広告だ。
非常にシンプルな企画で、観光地によくある書き割りを実際のホームレスを撮影して作り、路上に設置した。
都会で生活しているならそこかしこで目にするホームレス。しかし彼らの姿は確かに視界の隅には入っているものの、なかなか人々の意識には登らない。事が難しいだけに、無意識の領域に抑圧してしまっているのかもしれない。
"BEFORE YOU TURN AWAY, PUT YOURSELF IN MY PLACE."(顔を背ける前に、私の立場になってみてください)
それは「風景」と化されてしまったホームレスが投げかける強烈なメッセージだ。
このように世界各国で様々な取り組みは行われている。どれも一過性のものではあるのだが、キャンペーンが行われることで人々はホームレス問題に目を向け、考えさせられる。日本でも同様に、ホームレスの存在に蓋をすることなく、このような広告キャンペーンを積極的に行っていくべきだ。
2011-01-15
凡人たちが社会的責任を果たす時代へ 〜『キック・アス』
スーパーヒーローものアクションコメディ。15禁。
スパイダーマンのような従来のスーパーヒーローものよろしく、主人公はどこにでもいる平凡な青年。しかしこの作品が特徴的なのは、彼がヒーローコスチュームを身に纏ってキック・アスに変身してもなお平凡だということ。殴る蹴るの暴行を加えられ、ナイフで刺され、あげくの果てには車に轢かれてもう散々。主人公はあくまでヒーローに憧れる一個の青年でしかなく、ヒーローには決してなりきれない。その点はどこまでも現実的な映画だ。また、馴染み深いYouTubeやMySpaceのシークエンスがリアリティを強化する。
物語はここから、残虐な殺戮マシーンに育てられたヒット・ガールとその父ビッグ・ダディの登場によって一気に非日常・非現実へとドライブしていく。その過程で、本来なら引いてしまうほどのバイオレンスが笑いや可愛らしさへと転化させられていく。すごくうまく作られているのだが、これ以上僕がエセ映画論を語っても仕方ないのでここら辺で本題に入る。
*****
この映画のメッセージは劇中にもセリフとして言及される、
「力のない者は責任を負わなくてもいいのか?」
ということである。
スパイダーマンやスーパーマンのような従来的なスーパーヒーローには特殊能力があり、その常人持たざる力のもとに「悪を倒し弱者を救う」というような責任感が発生している。言ってみればノブレス・オブリージュだ。
ノブレス・オブリージュまたはノーブレス・オブリージュ(フランス語:noblesse oblige)は、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」の意味。oblige は、動詞 obliger の三人称単数現在形で、目的語を伴わない絶対用法である。名詞ではない。英語としてもこのまま通用するが、「ノーブル・オブリゲーション」(noble obligation)とも言う。一般的に財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことを指す。
wikipedia
ノブレス・オブリージュの発想は自己犠牲的であり、また社会の平等を担保するという観点から広く支持されるものだ。だから莫大な寄付活動を行うビル・ゲイツやウォーレン・バフェットのような資産家はカッコイイと評価されるし、一方でそうした社会的責任に無関心な日本の資産家などは揶揄されることになる。
しかしよくよく考えてみると、こうした特別な地位や財産、能力を持たない一般人の態度の背景にあるのは、ノブレス・オブリージュの裏返し、つまり「力がない者には積極的な社会的責任は発生しない、あるいは軽減される」という発想だ。もし社会的責任が我々一般人もひとしく担うべきものだと認知されているのなら、とりわけ資産家・企業家のみが槍玉に上がったりはしない。
ヒーローに憧れて、挫折して、無力感に打ちひしがれて、しかしまた奮い立つ。
そんな凡人キック・アスの姿が思い出させてくれるのは、力から責任が発生するのは確かだが責任は力のみから発生するのではないこと、凡人や弱者にも社会的責任はあるのだということだ。
少し話が変わるようだが、「お客さまは神様です」という言葉がある。これは本来はサービス提供者の人間が胸に留める言葉であるはずなのだが、消費者側が口にすることがある。耳障りのいい言葉が一人歩きしてしまったときに生まれるのは、高慢な消費者とギスギスした社会だ。
同様にノブレス・オブリージュだって、貴族が胸に留める自負の言葉であって、平民が貴族を評価するために口にする言葉ではないと考えるべきだろう。
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このように考えると、『キック・アス』は時流をよく抑えた映画なのかもしれない。
以下は2010年度版アメリカの文系大学生就職先人気ランキングだ(Universum)。
- Teach for America
- U.S. Department of State
- Walt Disney Company
- Peace Corps
1位のTeach for America とは貧困地区の教育改善を使命とするNPO、5位のPeace Corps とは日本でいうところの青年海外協力隊に当たる。TFAが国務省やディズニー、グーグルなど超一流機関・企業を抑えて一位になったは驚くべきことであり、アメリカの若者のあいだで社会貢献の機運が非常に高まっていることがわかる。
日本の就職先人気ランキングではこうはいかないが、しかし似たような傾向はある。
統計数理研究所の調査では、2008年までの10年間に「人のためになることをしたい」と答える割合が20代30代で大幅に増えている。現に1998年にNPO法が成立して以来、地域の問題解決に取り組むコミュニティビジネスは続々と立ち上がっている。また、最近では学生団体GRAPHISの活動が映画化されたことも記憶に新しい。
僕は「凡人たちが積極的に社会的責任を背負っていく時代」が来ているのだと思う。
『キック・アス』はこの時代の象徴的な映画だ。
2011-01-12
貧困ビジネスが路上に生む3つの壁
Kさんはこぎれいな格好をしていた。
黒い肌、白髪交じりの髪はオールバックにして整え、髭もしっかり剃っている。
こんなところで料理をしていなければホームレスとはわからない。
今夜はすき焼きのようだ。甘い匂いが夕暮れの公園に漂う。
話しかけると最初は訝しげであったが、僕の足元に新聞を広げて座れといった。
そして徐ろに自身の話を聞かせてくれた。
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Kさんは一度、自立に成功している。
東京都が実施した地域生活移行支援事業を利用し、生活保護を受給した。この事業は「3000円アパート事業」とも呼ばれ、家賃の実費負担は3000円で済む。
入居した所は、なんでも一年前に自殺者が出て心霊現象が起きるいわくつきの物件だったらしいが、Kさんはそこで就職活動をし、晴れてとある企業の契約社員になることができた。贅沢は出来なくとも日々の暮らしには困らないほどの収入を得た。そして保護はぬけ、家も引っ越した。
しかしそんな生活もそう長くは続かなかった。
2009年、突然の解雇。
「国からの通達を受けて障害者を優先的に雇用するため、契約社員に辞めてもらう」と会社は説明したが、眉唾ものだ。不景気のなか、雇用の調整弁として契約社員のクビを切るために、障害者雇用という外聞のいい理由を持ち出したように思える。
もし仮にその後本当に障害者を雇用していたとしても、弱者を優遇するしわ寄せがまた別の弱者にいくという構図は、なんとも空しい。
Kさんは職を失い、収入を失い、そして住居を失って、新宿の路上へ舞い戻ることになった。
現在はビッグイシューの販売によって生計を立てている。
*****
僕はホームレスの方のお話を聞きながら、自立に向けたお手伝いをさせていただくことがある。
Kさんに脱路上への再挑戦について聞くと、この生活を長く続けるつもりはないと言いつつ「いつごろ?」という問いには、お茶を濁されてしまった。
しかし僕が、サポートの具体的な手順や僕自身の意志をゆっくり説明すると、かなり前向きになってくれた上、本音を聞かせてくれた。
「うまい話にホイホイついていくことは出来ないよ」
それが全てだったと思う。
狭い部屋に何人も押しこみ、不釣合な家賃を得る「囲い屋」と呼ばれる貧困ビジネス。ホームレスに仕事を持ちかけ、不釣合な労働を強いる貧困ビジネス。彼らが自力では脱路上を果たすことが難しいという構造をついた、「手を差し伸べる」体の利益追求ビジネスが蔓延っている。
そうした中うまい話に簡単に乗ることは食われることだと、当事者たちは経験的に、あるいは人づてに聞いて知っている。
信頼関係を作れるまでじっくり待つしかない。僕は連絡先の記された名刺を手渡して今回はお暇した。
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結局、貧困ビジネスに関連して、自立サポートには3つの壁が生まれてしまっているのではないかと思う。
- 強い警戒心が存在するため、信用の形成が難しい。結果、腹を割った話がなかなか来ない。
- 信頼関係が出来たとしても、一度貧困ビジネスに絡めとられた経験がある人は、自立への努力は報われなかったと感じて、再挑戦への腰が重くなっている。
- 生活保護までたどり着いても、福祉事務所が貧困ビジネスと結びついていることもある。「藁をもつかむ思い」でつかんだその藁が、路上生活者の傷んだ心身をさらに傷つけるガラス片になっている。
壁1は必ずしも貧困ビジネスから派生するものではない。初対面やそれに近い人間への警戒心はどんな人にもデフォルトで存在する。しかし貧困ビジネスによってこの警戒心が強化されることは十分ありうるだろう。
いずれにせよ、このように路上生活者の脱路上への取り組みには多重な壁が存在している。
しかしそれでもひとつ手応えを感じるのは、
少しずつだけど人としての距離は必ず近くしてゆけるということ。
最初は信用せず目も合わせなくても、こちらの思いをぶつければ手を振ってくれるようになる。「久々に話せて嬉しかったよ」と言ってくれるようになる。「また来いよ」と言って、次会ったときには名前で呼んでくれるようになる。
Kさんはお別れするときに「ありがとう」と力強く僕の手を握ってくれた。
一度直接関わったら、彼らはただのおっちゃんになる。そこに「ホームレス」だなんて言葉はいらない。
そして何度も直接関わったら、僕らはただの友達になる。そこに「支援」だなんて言葉はいらない。
どんなに高い壁があろうと僕は諦めない。
僕にとって活動を諦めるのは、友達を見捨てるのと一緒だから。
クサイと思われるかもしれないけど、それが現場で動く僕の本音だ。
2010-12-28
生活保護の申請に同行して
11月25日、僕は市役所にいた。
役所の小さな面談室の中で、僕はひどく慌てた顔をしていたと思う。
こんなはずじゃなかった。頭にはそれしか無かった。
新宿中央公園で活動を始めてから、ずっと仲良くして下さっている方がいる。
彼はもともと長野でタクシーの運転手をしていた。
東京に出てきたのは会社が潰れてからだと話してくれた。
それからは色々な仕事を転々として、今は三鷹市の道路清掃をしている。
仕事は不定期で、多いときには月に7-8万の稼ぎになる。
少ないときには4万くらい。それでも、食べていくには困らないらしかった。
僕のアルバイトの収入もそんなものだ。食べていくだけなら確かに何とかなる。
ただ、生活の条件は毎日の食事だけではない。
年齢を重ねるごとに、屋根のない公園での生活は厳しさを増す。
夏の暑さも冬の寒さも、全てそのまま引き受けなければならない。身体への負担はかなり大きい。
まして脚に軽度の障がいを持つ彼には、尚更のことだった。
今はとにかく、屋根が欲しい。その言葉を口にした時の彼の目は忘れられない。
それでも、すぐに生活保護の申請を選んだわけではなかった。
生活保護が開始される前に、行政は保護を開始するべきか審査を行う。
その審査の中で、親族に対する扶養の可否の確認がなされる。
生活保護を受けるためには、自分の窮状を親族に知られなければならないのだ。
何年も会っていない兄弟や親。そこに、自分が生活保護を申請していることを知らせる手紙が届く。
必要な審査だとは思う。けれど、このことに恥を感じて申請をためらう人は実際にいる。
彼もその1人だった。彼が保護の申請に踏み切ったのは、11月の10日を過ぎたころ。
初めて話をした夏はすっかり過ぎて、生活保護の申請を初めて提案してから2カ月が経っていた。
生活保護の申請は1人で行くと窓口で帰されることがある。これは水際作戦などと呼ばれたりもする。
こうした現状への対策として、僕は彼の申請に付き添うことにした。
といっても、僕が前面に立って話をしたわけではない。事情を話すのは保護を受ける本人の仕事だ。
第三者がいることで、適正な手続きを確保することが目的だった。
結果から言えば、帰されることもなく申請はすぐに受理された。きちんと話も聞いてもらえた。同行の目的は果たされた。
しかし、その後が想定外だった。アパートに移るまでの期間の処遇についてだ。
想定していたのは、行政の持つ施設に入居するか、もしくは宿泊施設を利用することだった。
実際には、その市では宿泊施設を持っていなかった。NPOの運営する宿泊施設を行政から紹介された。
NPOによる運営と聞いて、いやな予感がした。少し詳しく話を聞いて、僕はひどく慌てた。
代替案を出したが、断られた。もともと他に道はなかった。
こんなはずじゃなかった。その言葉しか、頭になかった。
NPOの施設と聞けば、いい印象を持つ人は多いと思う。
ところが、一般に貧困ビジネスと呼ばれる施設を運営しているのもNPOなのだ。
今回、僕は見事に貧困ビジネスに引っかかった、ということになる。
しかも、行政の誘導にのって。
貧困ビジネスがどういったものなのかは、次の機会に書こうと思う。
ただ、覚えておいて欲しい。
貧困からの脱出には、思いのほか多くの障害がある。
時には、予想外のところにも。
2010-12-21
寿町で感じた、支援の難しさ
横浜、寿町。日本三大ドヤ街の一つと称される場所である。先日、私は親友と共に寿青年ゼミというものに参加するため、寿町を訪れた。寿青年ゼミとは、一泊二日で寿町に滞在し、炊き出しなどのボランティアを通して、自分たちにできることを考えようという趣旨の勉強会である。寿町へ行くのは夏以来であったので、少しの緊張と不安を抱いてはいた。
町内を歩いていると、ぶつぶつと何かをつぶやいている人、ふらふらとして足取りがおぼつかない人をよく見かける。今まで会ってきた路上生活者のおじさんたちが、お酒を飲むことが多いのを思い出し、このおじいさんたちも、きっと同じようにお酒を飲んでいるのだろうと思った。
だからこの日、朝から日本酒を水のように飲むおじいさんを見ても、たいして驚きはしなかった。ただ、そんなに飲んで体を壊すことがないのだろうかと、それだけを危惧していた。
そんなおじいさんの姿を目にした後、プログラムの一つであるバザーのお手伝いが始まった。バザーに出す品は、男性・女性用中古衣類、雑貨、食器など。これらの入った、数え切れないほどのダンボールを寿児童公園に運び出し、公園いっぱいに広がるブルーシートに置いていく。一つ一つ取り出していくと、たちまち、ブルーシートが品物で覆われた。バザーがあると事前に聞いていたのだろう、開始時刻が近づくにつれ、にわかに人も増えてくる。集まったバザー参加者の数は、私の想像をはるかに超えるものであった。ボランティアスタッフの開始の合図とともに、人の波が押し寄せる。私は、彼ら彼女らの応対に追われていった。
開始から一時間程経った頃であったろうか。ふと後ろを振り返ると、人だかりができていた。何事だと思って目を凝らす。すると、見えてきたのは、人の倒れている姿であった。仰向けに倒れ、ぴくりともしないおじいさんの姿。状況を見ていた人に何があったのか尋ねると、お酒を飲んでいる最中に倒れたとのこと。ふいに、朝見かけたおじいさんのことを思い出す。思わず「あの人だったらどうしよう。」と考えた。茫然としている間に、おじいさんはサイレンの鳴らない救急車に運び込まれていった。その間も、何事もなかったかのように、バザーの喧騒は続く。怖い、そう思った。
衝撃を受けつつも、再び持ち場へ戻る。しばらくすると今度は、怒声が聞こえてきた。その声があまりにも大きかったため、反射的に振り返る。そして、愕然とした。親友がおじさんに怒鳴られている。慌てて、親友のもとに駆けつけ、おじさんから理由を付けて引き離した。聞けば、始めは普通に話をしていたのだが、だんだんとおじいさんが親友にちょっかいを出すようになったらしい。それを避けるために話をするのを止めたら、おじさんが怒鳴り始めたのだそうだ。おじさんの怒声はなおも続く。親友が自分の態度のせいでこうなってしまったのだと捉え、塞ぎ込んでしまったのを見て、わたしもまたどうすれば良いのか、分からなくなってしまった。お酒を飲めば態度が大きくなることがあるということを、私は知っている。しかし、自分にとって大切な親友が傷ついているという事実を無視することは、どうしてもできなかった。止めてくれ、そう思っておじさんに憤った。
バザーもその日のプログラムも終了し、寿町を出るときに、私もまた同じような状況に直面する。歩いていると、明らかに酔ったおじいさんに怒鳴りつけられた。思わず、全速力で走り出す。怖い。ただ、それだけだった。
次の日。私は、徳恩寺というお寺に向かった。寿町の町内周りをしている時、ある一角に地蔵があり、徳恩寺の和尚さんに追善供養されているのだという話を聞いて興味を持ったからだった。突然の来訪にも関わらず、和尚さんは徳恩寺と寿町との関係について、快く話をしてくださった。炊き出しと供養を始めた理由、先代住職の思い、和尚さんが子どもの頃の話。中でも、和尚さんに対する寿町のおじいさんたちの反応の話が、心に残っている。徳恩寺のお坊さんたちが寿町に来ると、決まって誰かがついて来て、強い口調で、しかし笑って、「何しに来たんだ!?」と言うそうだ。炊き出しを終え、お坊さんたちが地蔵に向き合い念仏を唱えれば、おじいさんたちも一緒になって手を合わせ、寿町で死んでいった仲間たちの冥福を祈る。「寿町の人たちは、寂しいだけなんだよ。ぶっきらぼうなのは、その裏返し。」そう言う和尚さんの顔は、優しかった。
帰路、寿町での二日間と和尚さんの言葉を考え合わせてみる。ひょっとしたら、寿町の路上生活者は寂しさから酒を飲んでいるのかもしれない。そうだとすれば、寿町にアルコール依存症の人が多いのも、親友を怒鳴りつけたおじさんの真意も、分かる気がした。
しかし、それは私の本心ではないということも、一方で感じている。少し、考えてみてほしい。いざ自分が相手に危害を加えられるような立場に置かれた時、相手がなぜその行為に至ったのかという背景や相手の心情を考える余裕は、果たしてあるのだろうか?
寿町での一連の出来事を通して、私はそんな余裕がないのが現実だと考えた。ホームレスのおじさんの気持ちを汲み取りたいという感情と、実際に傷つけられたら怖いという感情とが、私の中でせめぎあう。私は、どうすればよいのだろう。