2015年11月25日23時19分
戦前から戦後にかけて銀幕のトップスターとして活躍、42歳の若さで突然引退した後は「伝説の女優」といわれた原節子(はら・せつこ、本名会田昌江〈あいだ・まさえ〉)さんが9月5日、肺炎で死去していたことがわかった。95歳だった。
横浜市生まれ。女学校2年の時に義兄の熊谷久虎監督に女優の道を勧められ、1935年、日活多摩川撮影所に入社、「ためらふ勿(なか)れ若人よ」でデビューした。芸名の「節子」はこの時の役名からとった。
山中貞雄監督の「河内山宗俊」など清純な美しさとかれんな演技で注目を浴び、36年、アーノルド・ファンク監督から、日独合作映画「新しき土」の主役に抜擢(ばってき)された。
東宝系の会社に移籍。戦争映画への出演を経て、戦後の46年、黒沢明監督の「わが青春に悔なし」で、生の輝きに満ちた新しいヒロイン像を演じて注目を集めた。第2次東宝争議の最中、組合の政治闘争主義に反発し、長谷川一夫、高峰秀子らとともに組合を脱退し、47年3月に創立した新東宝に参加。この年の6月にフリーとなった。
以降、「安城家の舞踏会」「お嬢さん乾杯」「青い山脈」などに主演。みずみずしい美貌(びぼう)と着実に成長した演技力を発揮した。49年の小津安二郎監督の「晩春」では、大学教授の父(笠智衆)と暮らす、婚期を逸した娘のこまやかな愛情を好演。この年の毎日映画コンクールの女優演技賞を受けた。
「白痴」「麦秋」「めし」「東京物語」「山の音」など、戦後映画を代表する作品にたて続けに主演した。54年には、白内障の手術を受けたが、翌年、「ノンちゃん雲に乗る」で鰐淵晴子の母親役で再起した。
その後も、「東京暮色」「秋日和」「小早川家の秋」など小津作品や、「智恵子抄」などで活躍したが、62年、「忠臣蔵」を最後に突然引退した。
その後は神奈川県鎌倉市の自宅で静かに暮らし、パーティーなどの公の場には一切登場せず、マスコミなどの取材にも応じていなかった。それがかえって神秘的なイメージを生んだ。