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赤城

1165:2014/09/07(日) 20:56:16
テスト

2165:2014/09/08(月) 20:40:58
難しいのかな?

3:2014/09/08(月) 21:03:58
起元開の件
藤田→小野栄重→斎藤→荻原→須田と流れてきます。上州路に係図がありました。
藤田以降の関流では必須の書らしく、筆写したらしいです。

段々、恐ろしくなってきましたww

本日から泊(とまり)と名乗ります。

4:2014/09/23(火) 19:11:39
バレるんだ、やっぱりwww

5165:2014/09/23(火) 21:26:21
え?

6165:2014/09/23(火) 21:28:12
五芒星の話かな?w

7:2014/09/23(火) 22:40:48
あたりww

8165:2014/09/26(金) 06:37:18
順調ですか?

9:2014/09/26(金) 14:02:57
解読は進んでいません。
もう自分一人じゃ、無理ですね。

10165:2014/09/27(土) 07:44:10
解読は、ご教授頂いたもので問題はないと思いますが、新たに入手した方位図が問題ですね。
地図に関しては、現地調査が必要だと思います。

やはり、地図で「中」特定、方位図で方向特定、謎文で方角に対する距離特定ですかね?
で、燈明皿は、謎文を解くヒントといったところでしょうか。

11:2014/09/27(土) 09:19:55
地図と方位図が私の解読結果の弱点ですね。
ただ、地図と方位図は正確さが欠けているように思います。
無理に合わせようとすると、失敗しますから。
現時点では解読不可能、わかりませんとしか言えませんね。

12:2014/11/14(金) 17:43:56
貰った写真の051の冒頭に「庚申山」て朱書きしてあるよね。
Kさん、これ知ってて説を唱えてるのかなあ。

13165:2014/11/17(月) 11:59:56
この古文書は、徳川埋蔵金の根拠を書いてあるものです。
時代は浅く、文中に慶応二年と出てきますし、井伊直助、小栗上野介、雲井龍雄、水野智義の名も出てきます。
私たちが知る徳川埋蔵金のストーリーは、この文章から始まったのではないでしょうか。
水野智義が、資金繰りの際に使ったのではないでしょうか。

Kさんの庚申山は、榛名山・赤城山の不動の線の延長ではないでしょうか
赤城山は、複成火山のため頂上がありませんので、庚申山としたのでしょう。

Kさんの掲示板に
「埋蔵場所も、庚申山、日光、世良田と移動したけど。何処が正解かな?林鶴梁との知恵比べ。」
「世良田の牛石のところでレーダーに反応でたが、掘った人に聞いたら、砂鉄の層があっただけだそうだ。」
とありますからw

14165:2014/11/17(月) 12:05:23
庚申山の麓には、足尾銅山があるのです。私も行ったことがありますw

<Kさんの掲示板から>
3枚の銅板。銅はさびる。金でないものはもたない。これは銅ということを伝えてる。
金銀銅だから銅は3だということ。天地人。
庚申山は重要。銀山平は、坑道がある。つまり銅山を意味する。

15:2014/11/17(月) 15:41:40
>この古文書は、徳川埋蔵金の根拠を書いてあるものです。
時代は浅く、文中に慶応二年と出てきますし、井伊直助、小栗上野介、雲井龍雄、水野智義の名も出てきます。
私たちが知る徳川埋蔵金のストーリーは、この文章から始まったのではないでしょうか

この説には賛成です。だけど、嘘が多いですね。
謎文の数字だけの奴、面白いですね。一二三は解読の様子がよく解る。
それと下にある図、苦労してますね。
それとイロハが書かれた所、あれ文字をずらせて解読しようとしてますね。
考え方は暗号円盤と同じです。

Kさんに庚申山の情報流したら、面白いかも(悪い男ですね)

16165:2014/11/17(月) 21:03:21
Kさんは、庚申山にある川の人がくぐれるほどのでっかい石を亀だと言っている。
亀の頭の向きの先を調べたら○印が彫られた岩があったなど、いろいろ御苦労されているw
まぁKさんには触らないほうが無難かとw

17165:2014/11/17(月) 21:32:31
冬になる前に三枝氏のところに行きますか

18:2014/11/18(火) 03:31:01
調査はほとんど終了しましたから、あまり必要ないかと。
企画の件でお尋ねしますが、普通会社ではいつ頃来年の予定をしめますか?

19165:2014/11/18(火) 19:24:43
うちは夏7月ですね。
役所も夏なんで、みんな夏だと思いますよ。
TV局は、秋の番組編成なんてつなぎ番組もあるから、やっぱり夏なんでしょうね。
埋蔵金番組は、全部秋から冬ですし

20:2014/11/18(火) 19:32:39
うーん、夏かあ。
でもあの写真何度みても凄い。あそこまで簡単に見せて貰えるとは。

21165:2014/12/31(水) 10:10:40
来年もよろしくお願いいたします。
来年こそは、実行に移しましょう!

22:2015/01/01(木) 20:52:09
そうですね。頑張りましょう。

23165:2015/01/02(金) 21:55:08
あけましておめでとうございます。
今年こそわ!です!

24165:2015/01/21(水) 21:53:35
八重野さんの週刊誌の記事より

義治が重視したのは『双永寺秘文』の他にもう2点。智義が埋蔵金の守護役と思われる児玉拡平(惣兵衛とも)から聞き出したヒントの一つ「後ろには五輪の松、前には十二社の松があり、はるか向こうには尖った武尊の山が結ぶ」という言葉と、古井戸から見つかった黄金像が赤城の鈴ヶ岳を向いていたという記録だ。

 2本の松を結ぶラインと古井戸と鈴ヶ岳を結ぶラインの交点を基点に定め、『双永寺秘文』の十干の文字と数字を方角と距離に置き換えてたどったところ、地中から三州三和土(さんしゅうたたき)でつくった巨大な亀の像が出てきた。
 「ここが宝蔵への入り口に違いない」と考えた義治は、亀の像を壊して地面を掘り下げた。

25165:2015/01/21(水) 21:54:07
これは、初耳

26:2015/01/24(土) 06:40:12
へえ。初耳だね。亀の発見については、
「無冠の疾走者達‐赤城黄金郷」には銅板の数字を足して、縄を円形に回して
探したとあるけど、現地の状況から見ると無理だね。

27165:2015/01/24(土) 09:50:47
この方法だと、かめの場所は、栗の木川の南面になるね。
住所は芳ガ沢と思われ
大きい地図だと、水野さんちの東に603.1ってのが書いてあって、そのちょっと東かな。
五輪の松、前には十二社の松がわからない。特に五輪の松
まぁ十二社と武尊山を結んで、線を延長すればいいことだが。

28:2015/01/27(火) 08:01:33
>大きい地図だと、水野さんちの東に603.1ってのが書いてあって、そのちょっと東かな。

八重野氏の話だと603.1より大分西側。無冠の疾走者の記述だと534.6より東かなあ。
栗の木川の南面は間違いないだろうけど。

>五輪の松、前には十二社の松がわからない。

五輪の松はわからないが、十二社の森はSさんの発掘地は十二の森と呼ばれてたらしい。

>まぁ十二社と武尊山を結んで、線を延長すればいいことだが

これは少し危険。きっちり来るかどうか?

29165:2015/02/06(金) 06:50:34
 もし実在すれば、時価数百億とも数千億ともいわれる徳川埋蔵金。日本で最も有名な伝説となった理由の一つは、その謎に挑んだ探索者の多さだ。しかし、実績はゼロ。お宝は幻か?−−
 新たな連載となる本シリーズでは、140年にわたる徳川埋蔵金発掘の歴史をひもといて検証し、その真実に迫る!

 「徳川幕府の埋蔵金は上州赤城山にあり」という定説が、いつごろ広まったのかはよくわからない。おそらく、複数の人間が赤城山麓に住みつき、あちこちを掘り返すようになった明治の終わりごろからだろう。以来、大正、昭和、平成と、途切れることなく、常時誰かがどこかを掘っていたから、うわさはいつの間にかまことしやかな伝説として定着し、尾ひれがついて流布されていったのだ。
 中でも、1990年から足かけ4年にわたり、TBSテレビで放送された発掘番組は、いまだに語り草になっている。特番の平均視聴率は20%以上だったというからすごい。
 しかし、この伝説の知名度を全国区にした功績は大きいものの、中身はというと過去の探索の跡をなぞっただけで、何ら新しい発見はなかった。

 日本の埋蔵金研究の草分けである畠山清行氏によると、事の発端は明治初年に横浜で起きた一つの“事件”だという。旧幕臣と称する男が外国人居留区に現れ、「赤城山麓に幕府の御用金400万両が埋蔵されている。自分がその発掘権を持っているが、譲ってもいい」と触れ回ったのだ。
 これに食いついたのがアメリカ人。男に5万円を払い、蒸気機関で動く大型の掘削機を使って約半年間、赤城の数カ所を掘ったが、結局何も出てこなかったので男を詐欺で訴えたのだ。それは日本初の日本語の日刊新聞『横浜毎日新聞』の記事になった。明治6年のことだという。埋蔵されたのが幕末近くだとすると、10年も経たないうちに発掘が始まっているわけで、以後今日まで探索の歴史は140年にも及んでいる。

 筆者がこの伝説に関心を持ったのは1970年ごろだから、すでに40年以上が経過した。当時、赤城山麓では水野家2代目の義治氏が養老院で生活を送りながらも、ときどきは津久田原の現場に現れ、次の発掘計画を口にしていたし、1キロほど北の長井小川田では元警察署長の三枝茂三郎氏が、窮乏生活に耐えながら地の底を必死に探り続けていた。
 それから間もなく、高崎市に住む兵法研究家の剣持汎輝氏が埋蔵金に関連する複数の文書を手に入れ、その解読によって導き出した場所を掘り始める。そこは水野氏と三枝氏の現場のちょうど中間に位置する芳ヶ沢というところで、剣持氏が諦めたあとも東京プレハブ社長の庄司一春氏が発掘を続けた。

 以後も、何人かが赤城山麓津久田周辺で探索を行っており、本シリーズの中で順次ご紹介するが、彼らが根拠としたのは横浜で起きた詐欺まがいの事件だけではない。地元にも幕末に人家のない原野で武士団が謎の行動をしていたとか、利根川をさかのぼってきた川舟から重たい荷物が陸揚げされたという目撃談が残り、痕跡らしいものも確かにある。また御用金そのものではないが、関連がありそうな出土品が何点かあるし、文書も複数残されていて、その複製も世に出回っている。
 しかし、筆者が畠山氏に協力して徳川埋蔵金の発掘調査を始めたのは37年前のことだが、場所は赤城山麓ではない。他にも赤城以外の場所で何人もの探索者と出会ったし、以後、自身で掘ったところも群馬県内だけで7カ所に上る。

 全国の有力伝説地を30カ所以上歩き、10数カ所で発掘を行った自身のキャリアの中で、この徳川の埋蔵金が占める割合は大きい。それはやはり、いまだに何がしかのものがどこかに眠っている可能性が高いと考えるからだ。これまでにも「今度こそ!」という手応えを感じることが何度かあった。
 ただ、現場を離れ、冷静に分析してみると、残された資料や痕跡についての解釈の誤りを認めざるを得ないことがあった。やっかいなのは、調査の対象となる材料があまりにも多過ぎることだ。140年にもわたり、実に多くの人が足跡を残したのだから無理もない。御用金埋蔵の直接的な証拠や手掛かりは皆無といっていいほどだから、後に続く者は、過去の探索者が何を根拠に掘ったのかを調べ、それを乗り越えていくしかない。中には、つじつまの合わないもの、明らかに捏造されたと思われるものもある。それらをきちんとより分けないと、あらぬ方向へ進んでしまう危険性がある。
 そこで本シリーズでは、筆者の後に続く人たちのことも思い、過去の探索の経緯をできるだけ事実に沿ってトレースし、残された物証や推論などを徹底的に検証して真実をあぶり出してみたいと思う。(続く)

30165:2015/02/06(金) 06:51:15
赤城山麓での徳川埋蔵金の発掘は水野家を抜きには語れない。明治時代にこの地に定住して掘り始めると、事業は親から子へ受け継がれ、そして孫の代まで財宝発見に執念を燃やした。このことは広く知られている。
 加えて手掛かりとなる文書、土中から掘り出したと伝えられる物証も残っているので、今でも水野家の発掘の歴史の延長線上に真実があると考える人は多い。
 しかし、果たしてそうだろうか。実は同家の来歴や伝承、伝わる物証などには疑わしい点が多い。全てをうのみにしてしまうと、真実を見誤る恐れがあるので、一つ一つ検証していきたい。

 初代水野智義が赤城山麓の津久田にやって来たのは、1889(明治22)年のこと。その6年ほど前から榛名山一帯を調べ歩き、最終的に赤城で埋蔵金の見張り役と思われる人物を捜し当て、この人物の動きを注視することによって、埋蔵金の在りかを知ろうとしたらしい。
 では、何をきっかけに智義は埋蔵金探しを始めたのか。それは、伯父にあたる中島覚太郎(蔵人とも)の遺言だという。
 智義の日記によると、水野家は代々徳川家の旗本で、江戸牛込に住まいがあったが、戊辰戦争で一家は離散、数年後に巡り会った伯父の口から、莫大な額の幕府御用金が赤城山麓に埋蔵されていることを告げられた。しかも、その一部である甲府にあった24万両を、自ら榛名神社の近くまで運んだというのだ。智義が最初に榛名山を調べたのは、甲府の御用金がまだその近くに隠されたままになっているかもしれないと考えたからだろう。
 それはさておき、チェックしたいのは中島という人物。水野家の伝承では、勘定吟味役という重職にあったというが、筆者が調べた限りでは、幕末の幕府要人の中にそのような名前の人物は見当たらない。

 さて、探索の舞台を赤城に移した智義は、「井戸を見つけて掘れ」という伯父の遺言に従って、津久田を調べ回った。そしてある場所で埋められた古井戸を発見、掘ってみたところ、深さ4、5メートルのところで突然白煙が上がり、さらに掘り進めると、10メートルほどのところから直径1メートルもある甕(かめ)が出てきた。
 中から現れたのは、高さ約10メートルの人物像。
 黄金製だったから当然のことながら埋蔵金と関連があり、となると、徳川家康としか考えられない…。といういきさつで、今日まで『東照権現像』として伝わっているものが右ページのものだ。

 しかし、この像は家康とは似ても似つかない。しかも現存しない。
 写真は、1972年に埋蔵金研究家の畠山清行氏が、カメラマンのK氏とともに渋川市に住むある女性の家を訪ね、撮らせてもらったものだが、本物ではなく、誰かがすり替えた真鍮製のものと説明されたという。本物が本当にあったのかどうかが問題だ。
 像と一緒に出てきたものがもう一つある。直径15センチほどの銅製の皿で、一見灯明皿のようだが文字が刻まれている。中央に「井」、次に「八社」、そして「子二四芝下炭」「未三二四芝下石」「亥雨芝下石」。もうひと塊の文字群があるが、小さ過ぎて解読不能。

 ちょうどそのころ、水野家とは直接関係のない場所で、別の発見があった。1キロメートル半ほど北の深山の双永寺という寺の床下から、壺に入った3枚の銅板が出てきたのだ。文字だけのものと絵図、そして方角を描いた図面の中に各種マークが入ったもの。これがマニアの間では今でもよく知られる『双永寺秘文』だ。
 智義がこの秘文の内容を知ったのは、発見から6年ほど後のことだった。埋蔵金に関心を持つ京都の商人が聞きつけて、いったん持ち去ったからだ。しかし、それを入手できても解読まではできなかった。智義だけではない、秘文の内容はすでに広く知れ渡っているが、今日まで誰一人解読に成功した者はいない。
 明治の後期、赤城山麓には水野家以外の探索者も、ぼちぼち姿を現すようになっていたようで、虚実入り交じった情報が飛び交い、探索がエスカレートしていったように思われる。誰かがよそから持ち込んだニセ物証に翻弄されたこともあったのではないか。
 結局、智義は以後もこれといった発見はなく、1926(大正15)年、74歳で生涯を閉じた。その遺志を継いで発掘に挑戦したのは、東照権現像発見の日に誕生したという次男の義治だった。
(続く)

31165:2015/02/06(金) 06:52:07
赤城山麓での最初の探索者として知られる水野智義が大正末年に世を去った後は、次男の義治が事業を受け継いだ。といっても、すぐに発掘を始めたわけではない。残された資料を分析して自分なりの解釈と推理でX地点を割り出し、次の1歩を踏み出したのは、ちょうど10年後の1935年(昭和10年)のことだった。
 義治が重視したのは『双永寺秘文』の他にもう2点。智義が埋蔵金の守護役と思われる児玉拡平(惣兵衛とも)から聞き出したヒントの一つ「後ろには五輪の松、前には十二社の松があり、はるか向こうには尖った武尊の山が結ぶ」という言葉と、古井戸から見つかった黄金像が赤城の鈴ヶ岳を向いていたという記録だ。

 2本の松を結ぶラインと古井戸と鈴ヶ岳を結ぶラインの交点を基点に定め、『双永寺秘文』の十干の文字と数字を方角と距離に置き換えてたどったところ、地中から三州三和土(さんしゅうたたき)でつくった巨大な亀の像が出てきた。
 「ここが宝蔵への入り口に違いない」と考えた義治は、亀の像を壊して地面を掘り下げた。それが、彼の苦難の道のスタートとなったのだが、幸いなことに、そのころ彼は有力な支援者を得ていた。近衛文麿内閣のブレーンといわれた後藤隆之助である。
 後藤は陸軍の退役者などを中心にした在郷軍人を赤城に集め、義治の下で発掘を手伝わせた。その期間がどのくらいあったのかはっきりしないが、まるでアリの巣のように複雑に掘られた穴は、当時の発掘がいわば国家レベルでの事業だったことを今に伝えている。

 筆者がこの穴に入ったのは'74年の暮れのことで、当時の水野家当主の智之によると、総延長が25キロメートルあるということだった。それが事実かどうか確かめてはいないが、'90年に始まったTBSテレビによる大発掘の際に、地下深いところから現れた穴が、この時期に掘られたものであることはまず間違いない。穴の入り口からそこまでの距離はおよそ600メートル。一帯は探索のために掘られた穴だらけなのだ。
 ただ、義治が見つけたという三和土でできた亀の像と、その後発見されたほぼ同じ大きさの鶴の像が、本当にあったのかどうか、原型が残っていないので、今となっては確認ができない。

 義治の発掘は、太平洋戦争の勃発とともに中断。掘り手がいなくなったためだ。戦後、身内だけで細々と発掘を再開したが、それがいけなかった。縦穴に吊るした縄ばしごが切れて、妻のマスが落下して死亡するという事故を起こしてしまったのだ。
 その後、義治はしばらく赤城を離れ、1960年ごろから10年ほど掘り続けていたようだが、筆者が訪ねていった'70年ごろは、近くの養老院に入所していて、天気と体調のいいときに外を歩き回るだけで、もう掘るつもりはなさそうだった。
 水野家の発掘は、実質的には義治が世を去った'74年(昭和49年)に終わっている。3代目を名乗っていた智之に、マスコミは随分と振り回されたようだが、彼は研究も発掘も自身ではほとんどやったことがない。人が訪ねてくれば、伯父義治の時代に掘られた穴を見せていただけ。しかも、彼の父の愛三郎(智義の三男)は、戦前は京都府舞鶴市の警察官で、智之もそこで生まれているので、義治の発掘の詳細については知らなかったようだ。
 その智之も先年他界し、水野家の探索の歴史には完全にピリオドが打たれた。

 最後に、水野家のさまざまな伝承についての疑問点を挙げてみる。
(1)初代智義は、伯父(養父とも)の中島覚太郎の遺言を基に探索を始めたと伝えられるが、横浜で外国人相手に詐欺まがいの事件を起こした人物も元幕臣の中島某。同一人物と思われる。また、赤城への埋蔵計画の中心人物は、井伊直弼、小栗忠順の他に、軍学者で大学頭の林鶴梁、そして勘定吟味役の中島となっているが、林は実在の人物ではあるものの(正しくは鶴梁)、代々大学頭を務めた林家とは無関係であり、軍学者ではなく儒学者。幕末の勘定方で重職を務めた人物の中に、中島という名は見当たらない。
(2)智義は江戸で両替商として成功し、店を畳んで全財産を赤城の発掘につぎ込んだというが、旗本が商人に転身して成功する例はあまりなかったし、江戸を離れて赤城に落ち着くまでは食うや食わずの暮らしをしていたらしいから、かなりの虚飾が感じられる。
(3)児玉拡平(惣兵衛)なる人物が実在したかどうかは疑問。彼が智義に渡した『大義兵法秘図書』も由来に信用性が欠ける。
(4)古井戸から見つかった黄金像と銅皿は、ねつ造品の可能性がある。(完)

32165:2015/02/06(金) 06:53:02
東京の警察署長や区議会議員まで務めた三枝茂三郎が赤城山麓で徳川の埋蔵金探しを始めたのは、1938年(昭和13年)のこと。以来、およそ30年にわたって苦闘の日々を送るのだが、きっかけは、この埋蔵金をネタにした詐欺に引っかかったことだった。
 当時、三枝はバス会社を経営していて、事業を軌道に乗せていた。するとあるとき、知人の紹介でやって来た男が赤城の埋蔵金発掘計画に出資を求めてきたのだ。伝説そのものについてある程度の知識はあったし、水野父子の発掘のことも知ってはいたが、本気にはなれない。だが、男があまりにも熱心に語るものだからつい心を動かされ、金に余裕がないわけでもないので少しばかりの額を渡すと、それに味をしめ、たびたびやって来るようになった。

 不審に思いながらもズルズルと金を渡しているうちに、総計でかなりの金額になってきたので、かつての警察仲間に調べてもらったところ発掘は行われておらず、方々から集めた金は遊興費に消えてしまっていた。
 三枝は現場近くで酒色にふけっていた男を取り押さえて詫びさせたが、元警察署長のプライドから、これを表沙汰にすることはなかった。それよりも初めて赤城山麓にやって来て、水野家の発掘の様子やうわさ話も含め埋蔵金に関するさまざまな情報を得てみると、全く眉唾でもなさそうだと感じ、自分の勘を頼りにいろいろ調べてみた。
 現役時代は腕利きの警察官だったから捜査はお手のもの。さほど時間をかけないうちに、いくつかの手掛かりをつかんだ。

 彼は『双永寺秘文』にあった、「一将ヲ覓ムルトキハ七臣ニ達シテ天下平ナリ」の「一将」とは、古井戸から出た家康像(当時はそう思われていた)で、「七臣」は甲乙丙丁戊己庚のうちの七番目の「庚」ではないかとひらめいた。さらに、家康像と一緒に出土した銅皿に刻まれた「子」と「十」(正しくは「井」だが、当時はそう思われていた)の文字に注目し、井戸から子の方角(北)に十尺か十間か十町行ったところに「庚」に関係した何かがあるのではないかと考えた。
 すると、北へ十町(約1キロメートル)行ったところに、彼を喜ばせるものが見つかった。たくさんの庚申塔が立つ百庚申(ひゃくこうしん)である。

 その場所は、現在の渋川市赤城町長井小川田。水野家のある津久田から、銅板に刻まれた秘文が見つかったという双永寺へ向かう途中の、農道から一段上がった台地の上だ。
 三枝は、ここで一大決心をする。バス会社は順調にいっていたにもかかわらず、これを手放し、全財産を懐に赤城に乗り込んだのだ。

 「400万両を掘り出し、国のため人のため、大いに役立てる」
 彼は百庚申の近くに土地を借りて小屋を建て、土との戦いを開始した。
 翌年の春、目と鼻の先の崖沿いの場所で、土に埋もれていた祠が見つかり、その中から仏像とともに日本刀一振りが見つかった。これは後に名刀『村正』と発表されている。また、その周辺から「此の山の中を尋ねよ」「天下平也」などと文字を彫り込んだ石が現れた。
 三枝は狂喜した。いよいよ宝は近い! 「一将(家康像)を求めて七臣(百庚申)に達し、宝を見つけて天下に平和が訪れる」というわけだ。

 しかし、いくら掘っても黄金が顔を出す気配はない。わずか数年で資金は底をつき、やむなく親戚や知人から借金をするようになった。三枝ほどの人物が、「宝が出たら、何倍にもして返すから」と言うのだから、それを信じて最初は貸してくれる人もいたが、次第にソッポを向かれ、揚げ句の果てには山師だの狂人だのと、ののしられるようにさえなった。
 人手の方は、最初は三枝をだまして金を巻き上げた男が罪滅ぼしに手伝っていたが、食うや食わずの暮らしの中で体を壊して早死にし、しばらくは独力で掘らざるを得なかった。やがて、ある人物が協力を申し出て小屋に同居し手伝ったが、彼もまた病死する。

 金もない、人手もない、もはやこれまでかと諦めかけた三枝の前に救世主が現れたのは、1957年のことだった。
 東京の大塚で『千成最中』という製菓会社を経営する清水信次郎氏が、資金の援助を申し出たのである。おかげで、深い縦穴の昇降を楽にする、大型のモーターやウインチなどの機械類を購入することができた。
 地下66メートルの地点に宝庫らしいものを発見したのは、その直後だった。(続く)

33165:2015/02/06(金) 06:53:45
三枝が赤城山麓で発掘を開始して19年目の1957年(昭和32年)、当時日本に1台しかなかった電波探知機を2本目の穴にかけたところ、地下66メートルのところに異常が見つかった。そこに到達したのは翌年のことだったが、いかにも人工的に敷き詰められたような石が現れた。すき間は漆喰で固められている。
 「やった、宝庫にたどり着いたぞ!」
 三枝は驚喜した。そして、きっと大騒ぎになるに違いないと考え、周囲に有刺鉄線を張り巡らし、黄金数万枚を収納できる約1立方メートルの鋼鉄製の大金庫を用意した。
 しかし、それはぬか喜びに終わった。敷かれた石の下から黄金はかけらさえ現れず、掘っても掘っても赤土の地山、つまり自然層が続くだけだった。

 このときの金庫は、筆者が足しげく赤城山麓北方の昭和村に通っていた'90年代の終わりごろまでは、無人となった発掘小屋の裏手に錆び付いたまま放置されていた。小屋の表側には、やはり錆びたウインチが転がり、すぐ近くにはいくつめかの穴があり、安全対策としてかぶせられたコンクリートの蓋をめくると、まっ黒い闇がのぞいていた。
 夢の跡…。
 その言葉が自然と頭に浮かぶ光景に、同行した仲間があぜんとしていたのを記憶している。筆者が初めて三枝に会ったのは'70年のことだから、20年以上たったころの話だ。
 人づてに、彼が高崎の老人ホームで90年の生涯を閉じたことを聞いたのが'74年。それから数えても随分と時が経っていた。小屋や金庫を含め、地上に残されていたものがきれいさっぱり片づけられ、危険な穴も埋め戻されたのは、TBSテレビが例の発掘番組の続編として、一帯を掘ることになった'99年の暮れのことだ。直後にその場所を見に行った筆者は、三枝の発掘にようやくピリオドが打たれたことを実感した。

 三枝が掘った場所は、隣家の石田政子さんが所有する土地だった。30年以上も借りていたことになる。その石田さんの言葉が思い出される。
 「三枝さんは、総理大臣にしてもいいくらいの人でしたよ」
 夢のような話に取り付かれ、食うや食わずでひたすら穴を掘り続ける人間に対して、正気を疑うのが普通だと思うが、石田さんの見方は違っていた。黄金発見の期待があったかどうかはわからないが、三枝が私利私欲ではなく、世のため人のためにあえて苦難の道を歩んでいることを信じ、見守っていたのだ。

 しかし、彼は成果を得ることはできなかった。もっと厳しい言い方をすれば、徳川埋蔵金の糸口は何一つつかんでおらず、後に続く者への示唆めいたものさえ残していない。そもそも、『双永寺秘文』の謎解きの内容もお粗末で、たどり着いた百庚申(ひゃくこうしん)が特別の存在とは考えられない。庚申塚なんて、田舎に行けばどこにでも残っている。
 何よりも、掘った穴の深さが50メートルにも60メートルにもなるというから、その執念には敬服するものの、埋蔵金探しであれば全くムダというしかない。TBSテレビの発掘番組も同じくらいの深さまで掘っているが、そんなところに隠すはずがない。
 遺棄したのならともかく、埋蔵金はあくまで一時的に隠したもの。しかるべき後に再び世に出さなければならず、そのときは緊急を要するはずである。掘り出すのに何カ月も何年もかかるようでは意味がない。
 そのことを考えずに、見つからなければ「もっと下だ」と、ただやみくもに掘り続ける人が多い。昔も今もそうである。

 さらに、三枝の現場から出土したという「金山」「宝」「○上」といった文字や記号が刻まれた50点を超える石は、間違いなくねつ造品である。5メートル、10メートルと掘り進めるうちに地下から出てきたというが、地上に何らかのカムフラージュをして置くのならわかる気もするが、地下にそういうものを埋め込んでも、探索者を宝庫へ導く物証の役目を果たすことはできない。
 警察署長を務めたほどの三枝氏自身が、スポンサーをその気にさせるためにでっち上げたとは思えないので、おそらく、作業を手伝っていた周辺の人物がこしらえたものだろう。悪意があってやったことかどうかはわからない。

 現在、長井小川田のその場所には、百庚申とともに『徳川幕府埋蔵金犠牲者萬霊供養塔』と刻まれた石碑が雑草に埋もれて建っている。施主3名の筆頭には、もちろん三枝茂三郎の名がある。(完)

34:2015/02/07(土) 05:06:56
サンクス!全部コピーして、資料集に入れた。
また、教えてください^^

35:2015/02/11(水) 13:38:57
千成最中(有)千成屋 清水で出てきた。信次郎さんて、ここの先々代位かな?

36165:2015/02/12(木) 21:20:33
徳川幕府の御用金は『八門遁甲』という古兵法によって埋蔵されているといわれる。赤城山麓で初めて継続的な発掘を行った水野智義・義治父子、後続の元警察署長・三枝茂三郎をはじめ、ほとんどの探索者が、残された物証を八門遁甲の秘法に従って解き、示された場所にたどり着こうと懸命に知恵を絞った。しかし、いまだに誰一人として解読に成功したものはいない。
 その中でかなり核心に迫っているのではないかと評価できる人物が2人だけいる。1人はまだ現役で調査を継続中なので公表できないが、ここでは1980年(昭和55年)に78歳で死去した、高崎市の剣持汎輝の事績についてご紹介する。

 筆者が剣持とコンタクトしたのは、亡くなる前年のことだった。直接会うことはなかったが、電話で何度か話し、手紙も数通もらった。おそらく自分の寿命を悟り、それまでの成果を誰かに伝え、後を託したいという思いだったのだろう。
 剣持の家には代々『源家訓閲集』という古兵法書が伝えられてきたという。これは、平安貴族で学者だった大江維時が、唐から持ち帰った兵法書を日本風にアレンジしたものが基になっていて、源氏の武将をはじめ、以後の戦術家たちが改良を加えて伝えてきたものらしい。徳川幕府にも最後まで、同系統のものが徳川流兵法として伝授されてきたという。

 筆者が八門遁甲について調べ始めたのは、剣持と知り合う2年ほど前のこと。最初は何ら資料がなく途方に暮れたが、しばらくして、占いの『奇門遁甲』がこれと同じものだということを知り、ようやく国会図書館で目にしたのが、明治17年に出版された『八門遁甲要録』(全4巻)だった。ただこれも、今で言えば年初に発行される十干十二支や九星に基づく運勢表のようなもので、しかも序文には「中国伝来のこの占術の極意を知るにはあまりに資料が乏しい」と書かれていた。
 おそらく八門遁甲は、武士の支配階級のごく一部にだけ、書き物にせず口授口伝で伝えられてきた秘中の秘だったのだろう。現在は占術の形でしか残っていないが、かつては兵法も、吉凶をさまざまな方法で占い、それを戦術に組み込んでいたと思われる。
 また、太閤秀吉の埋蔵金など、この秘法で隠されたと伝えられる他の埋蔵金についての文書などを調べていくうちに、軍用金の調達や配備などに関するノウハウも盛り込まれていたことが想像できた。

 剣持は最初から徳川埋蔵金を狙って八門遁甲の研究を始めたわけではない。家伝の源家訓閲集の中身を理解しようと、易学、九星術、四柱推命、陰陽五行論の哲理について研究していたところ、たまたま徳川埋蔵金関係の文書と出会う。
 文書を持ち込んだのは、一時、水野義治の発掘を手伝っていた桜井柾寛で、桜井が急死したため、その後を引き継ぐことになったのだ。それが1966年(昭和41年)のこと。

 文書は3種類あった。一つは水野父子も三枝もよりどころとした『双永寺秘文』。あとは、千葉県の旧家から出てきた『椎名家秘文』と、水戸徳川家にあったという若月三郎ヱ門兼隆なる人物から勝安房守に宛てた『将軍秘 認証状』だ。
 このうち、双永寺秘文と椎名家秘文には多くの共通点があった。一八六、二九七、三一八、四二九、五三、六四、七五という数字の並びと、「七臣ニ達スレバ分証揃テ茲ニ一将顕ル」(双永寺秘文)、「上州赤城山津久田原七臣伏して大将軍を守る」(椎名家秘文)のくだりだ。「一将」「大将軍」が埋蔵金を表し、七つの手掛かりをたどっていけば、そこに到達できるということではないか。

 そして、二つの文書の要素を抽出し、試行錯誤の上につくり上げたのが、円盤状の埋蔵設計図である。円の中心から24の行に区切り、十干と十二支、易の乾・坤・巽・艮(運勢や方位の吉凶を占う基本図像)それぞれを配置したものだ。埋蔵実行者はこれと同じものをつくって事を進めたと考えた。
 将軍秘 認証状の方は、大判小判や金の延べ棒一万六千二百十六貫を運んだなど、記述が具体的だが、「徳川亀之助」とか「越前堀」とか「伝馬船清快丸五十五隻」といった言葉が、脈絡がなく唐突に出てくる。剣持はこれが、設計図をたどっていく手引書だと気付く。その解釈に、これまで研究してきた東洋占星術の知識が役に立った。

 まず「徳川亀之助」は、16代目の将軍になるはずだった家達の幼名で、易のルーツである『亀卜』につながることから、これが基点を表すものと解釈した。他の語句も一字一字細かく分析し、そこに潜む方角などを割り出した。
 そのプロセスはあまりに複雑なため全ては説明できないが、ともあれ、剣持は赤城山麓に基点と考えられる場所を発見した。原野の中にぽつんと立つ十二神社である。(続く)

37165:2015/02/12(木) 22:05:30
千成最中(有)千成屋?

38:2015/02/13(金) 07:08:27
三枝茂三郎、田村寛一、清水信次郎
庚申塔にあった三枝氏のパトロン。

39:2015/02/14(土) 07:58:26
>>36
>その中でかなり核心に迫っているのではないかと評価できる人物が2人だけいる。
>1人はまだ現役で調査を継続中なので公表できないが、ここでは1980年(昭和55年)に78歳で死去した、高崎市の剣持汎輝の事績についてご紹介する。

1人はまだ現役で調査を継続中って、私の事だったら、嬉しいけど。

40165:2015/02/14(土) 19:48:56
たぶん 本命さんじゃないかな。最近会ってるし
手法が剣持さんと同じだし

ただ、剣持さんの著書を見ても
「円盤状の埋蔵設計図である。円の中心から24の行に区切り、十干と十二支、易の乾・坤・巽・艮(運勢や方位の吉凶を占う基本図像)それぞれを配置したものだ。」が、
出てこない。

個人的な見解だが、
今までどの本にも出てきていない話を書いてきているから、八重野氏もそろそろ引退を考えているんじゃないかな。

41:2015/02/15(日) 05:27:58
>ただ、剣持さんの著書を見ても
「円盤状の埋蔵設計図である。円の中心から24の行に区切り、十干と十二支、易の乾・坤・巽・艮
(運勢や方位の吉凶を占う基本図像)それぞれを配置したものだ。」が、
出てこない。

「謎解き 徳川埋蔵金伝説」p221にそれらしい写真があるよ。

八重野さんは物書きだから、現地調査はやめても、仕事は続けるよ。

42165:2015/02/15(日) 06:35:19
ああぁ本当だ 見落としてた

43:2015/02/15(日) 18:24:16
>40
>今までどの本にも出てきていない話を書いてきているから

今回の記事の中で、私が一番興味を持ったのは。石田政子さんの三枝評だね。
三枝氏が詐欺的行為でやってた訳じゃないことがはっきりした。
これは隣の石田六市さんの話とも一致する。
三枝氏は本心から信じ込んで発掘してたんだなあ。合掌。

44165:2015/02/15(日) 22:00:02
1.暗号区分
地図 中心点
方位図 方位
謎文 距離と解読方法
 以上が3枚の銅版の役割を大きく分けてみたものである。中心点、方位、距離の3点は、
このまま測量に必要な3条件となっている。
 基本的にいうと、この3条件こそが銅版に隠匿された暗号と考えてもよいと思う。
この考え方は、銅版の解読方法としては幾度も試みられた古典的なものであるが、
解読を合理的に行おうとすれば、この方法から逸脱は困難だと思える。
 私は、徳川埋蔵金赤城説に基づき解読を行ってきたが、これは黄金像発見地に
「中」の字を描いた地図の存在が重要であると考えるからである。

45:2015/02/16(月) 07:26:22
>>44
これ、私の書いたやつ?
>私は、徳川埋蔵金赤城説に基づき解読を行ってきたが、これは黄金像発見地に
「中」の字を描いた地図の存在が重要であると考えるからである。

ここ、ちょっとおかしいなあ。説明不足だから、ちょっと足してみる。
「中」は起点と同意語なんだけど、何故「中」と書いたか?ということなんだよね。

46:2015/03/06(金) 18:49:53
9月に姪の結婚式で上京予定ができた。
ひょっとすると、その前後で探索ができるかもしれない。

47165:2015/03/06(金) 19:23:01
1970年(昭和45年)、群馬県高崎市の剣持汎輝は赤城山麓芳ヶ沢の十二神社を基点と考え、いよいよ現場での調査に着手する。古兵法に興味を持ち、研究を始めてから4年目のことだった。
 『赤城同友会』という組織をつくり、兵頭家の畑地を一時的に借りて、地元の協力者数名とともに発掘を開始した。穴が深くなるとウインチも導入。間もなく、「天門入口・辛宝庫」と彫られた石が出土した。
 穴の深さは19メートルに達していた。地下から現れたのはそれだけではない。一つは易で用いられる基本図象の「≡」(乾)と三角形、これは天門の基点を表すものだ。ほかに「丁」の字を彫ったものもあった。
 剣持はそこから酉(西)の方角に財宝があると解読し、横穴を掘ったが、途中で「戌(北西)の方角に曲がれ」という印が現れたので、その通りに進むと、「疑(うそ)」の文字が彫られた石と炭が出てきた。これで「炭=済み(終わり)」ということか。
 さらに横穴をジグザグに掘ったが、黄金は姿を現さない。後に剣持から筆者に届いた手紙には、「これらは陽動作戦、すなわち、人々の目を赤城山麓にくぎ付けにするための囮であると見破った」と書かれていた。
 本当のところはわからない。そう考えた理由を、本人の口から詳しく聞き出すことができなかったし、第一、出土品の存在を筆者は確認していない。

 剣持が赤城山麓に見切りを付けたのは、それだけではないようだ。水野父子や三枝茂三郎が見つけたと伝えられる物証や埋蔵の痕跡を、全て陽動作戦と結論づけている。古兵法『八門遁甲』の論理に合わないということだろうか。その後、彼は高崎市の碓氷川河畔の乗附というところに注目し、独力で発掘もやったようだが、こちらも失敗に終わっている。
 剣持は、どちらかといえばフィールドワークよりデスクワークを重視した人物だったが、晩年は精力的に山野を歩いている。そして、石碑や自然石に刻まれた文字や記号を丹念に調べ、カメラに収めた。その数は数千枚に及ぶという。
 徳川埋蔵金に関連するものを探し求めたのだが、ついに成果らしいものはなかった。また、幕末に高崎郊外に住んで私塾を開いていた佐々木愚山という人物が、幕府の密偵で埋蔵金に関係したとみていたようだが、それも見当違いだったと思われる。

 一方、剣持が断念した芳ヶ沢だが、実はそれ以後も別の人物によって発掘が行われている。それも、重機を使った大掛かりなものだった。
 重機による徳川埋蔵金探しというと、25年前のTBSテレビの番組がすぐ頭に浮かぶが、赤城山麓では決して珍しいことではない。時代をさかのぼれば、本シリーズの第1回目にも書いたが、最初は今から142年前の明治6年、アメリカ人によって行われた発掘だった。どんな機械を使ったのか資料がないので詳しいことはわからないが、昭和の初めまで存命だった地元の人の目撃談によると、大きな機械が白い煙を吹き上げていたというから、時代を考えれば内燃機関ではなく、蒸気機関を動力とした掘削機械だったと想像される。文明開化の当時、東京や横浜にはガス灯や電信柱の設置が始まっているから、柱を立てるために導入された掘削機があったのではないだろうか。

 ともかく、それからほぼ100年後の1972年(昭和47年)、芳ヶ沢の大発掘に乗り出した人物がいる。東京プレバブという会社を経営していた庄司一春だ。彼は剣持が発見した「天門入口・辛宝庫」の石のことを知り、その謎解きに取り憑かれた。
 しかし、それに成功したとは言えない。豊富な資金力にまかせて、最初は石が出土したところと剣持の探索地を含む一帯をブルドーザーで掘り起こし、えぐり取った大地のある1点に目星を付け、そこから縦穴を5メートル掘り下げ、さらに横穴を掘り進めた。
 結局は、ただいたずらに大きな穴を掘っただけで、資金と労力の無駄遣いだったと言ってよい。トレジャーハンターの世界では、このような発掘を“総掘り”という。ポイントをはっきり決めずにやたら掘りまくることで、最も蔑視される。とにかく広く、深く掘ればターゲットにたどり着くだろうという甘い考えの者は今でもいる。中には4億3千万円を使い果たした上に、数千万の借金までつくった例も。地球が広いことを知ってほしい。

 剣持が考えたように、赤城山麓が陽動作戦だったのなら、庄司はまんまと引っ掛かったことになる。水野父子も三枝茂三郎もしかり。だが、結論を出すにはまだちょっと早いかもしれない。本シリーズでは、あと一、二例、赤城山麓での探索を取り上げてみたいと思っている。

48165:2015/03/06(金) 19:23:34
畠山清行は昭和初期からおよそ半世紀にわたって日本の埋蔵金伝説を調べ上げ、マニアの間でバイブルと評価される数々の名著を残した。その畠山も徳川の埋蔵金への関心は高かった。ただ、当初はこの話に疑念を持っていたという。赤城山麓の水野家の伝承や見つかったという物証に、怪しげなものが多過ぎたからだ。
 だが、自分の視点で調査を進めていくうちに、伝えられるほどの莫大な額ではないにしても、幕府の金の一部が隠匿されたのは事実とみてもよいと考えるようになった。最大の功績といえるのが“生き証人”を探し当てたことだ。

 江戸城明け渡しの際に立ち会った幕府側の人間が、昭和の初めまで何人かは生存していた。1人は江戸城内の御蔵番で、目付の牧野鋼太郎らが官軍の代表者に御金蔵が空っぽだった理由を問い詰められたとき、様子を脇で聞いていたが、自分はその理由を知っていたという。数年前から金箱を少しずつ外へ運び出していたのだ。
 もうひとりの旗本の証言はもっと具体的だった。
 「芝山内から本所の御竹蔵まで、重たい木箱を30個以上運んだことがあります。中身は武器といわれていましたが、警護があまりにも厳重だったし、それが金であることをみんな知っていました。時期ははっきりとは覚えていませんが、われわれがまだ幕府が倒れることなど想像もしなかったころです」

 また、吉田忠太夫という旗本の手記にも「慶応3年10月、江戸城の外堀龍ノ口から、夜陰に乗じて端艇(ボート)数隻を使い、数十回にわたり重い箱と梱包を本所の御竹蔵に移送した」と書かれている。
 芝山内は徳川家の菩提寺である増上寺のことだろう。秘密が漏れる心配はない。また御竹蔵というのは幕府の建築資材置き場で、現在の墨田区横綱1丁目、JR両国駅北側の国技館や江戸東京博物館などが建っている場所にあった。
 御用金らしきものの、そこから先の行方までは誰も知らなかったが、御竹蔵が隅田川沿いにあったことを考えれば、舟で上州方面に運ばれた可能性は高いだろうと畠山は考えた。

 江戸城開城のとき、御金蔵が空だったのは官軍の記録にも残っているので事実である。
 その理由を、幕府にはもう金がなかったからと簡単に片付けてしまうわけにはいかない。なぜなら、大阪城には18万両残っていて榎本武揚が品川まで運んでいるし、甲府にも24万両あったと伝えられる。
 官軍は金座・銀座から約20万両の金銀銅貨と地金を接収している。南北町奉行所だけでも数万両あって与力や同心が分配したそうだから、ともかく江戸城内に小判1枚なかったというのは、あまりにも不自然というしかない。
 畠山はこの他、官軍に接収される前に金座・銀座から17万5千両が持ち出されて、板橋宿まで運ばれたことを突き止めた。そしてその行方を追うことがライフワークの一つとなった。

 筆者が初めて畠山と会ったのは1974年(昭和49年)。最初は天草キリシタンの財宝の話しかしなかったが、交流を重ねるうちに信頼を得て、徳川埋蔵金の調査に力を貸してくれないかと頼まれたのは1977年のことだった。
 大先生が狙いを付けたところなら間違いないだろうと、仲間の了解も取らないうちに引き受けた。結果的には筆者の他に4人がこのプロジェクトに加わることになる。

 話を切り出されたときには、徳川というから当然赤城山麓だろうと思っていたら全く違った。旧三国街道、現在の国道17号沿いの利根郡新治村(現みなかみ町)にある永井という宿場跡だった。東京方面から向かうと、少し手前に猿ヶ京という温泉地がある。
 畠山は赤城山麓の深山双永寺で見つかったという『双永寺秘文』の解読に挑戦、最終的に「さるがけふ十二 黄金一万枚」とフレーズを導き出した。「さるがけふ」は猿ヶ京、「十二」は山の神を祀る十二神社のことだろう。
 そう考えて猿ヶ京周辺を調べ回ると、十二神社は十以上もあってなかなか絞りきれない。ところが、思いがけない情報をキャッチした。猿ヶ京の少し手前の相俣にある海円寺という曹洞宗の寺に、幕末近くに馬数十頭で大量の荷物が運びこまれ、数日のうちに消えてしまったというのだ。

 さらに詳しく調べると、永井のほとんどが海円寺の檀家であり、集落の地下に謎の横穴があることを突き止めた。
 馬で運ばれてきたのは幕府御用金で、その横穴が隠し場所だと、畠山は確信した。
(続く)

49165:2015/03/06(金) 19:24:06
1977年(昭和52年)の秋、群馬県利根郡新治村(現みなかみ町)永井で、畠山清行の発掘が始まった。目指すは「黄金1万枚」。徳川幕府の御用金の一部だ。「黄金」というのは普通大判(10両)のことをいうから、しめて10万両。大判だけが1万枚もあるはずはないが、最低でも200億円の価値はある。それが、宿場跡の永井の裏山に続く謎のトンネルの中に隠されていると、畠山は確信していた。
 埋蔵金の権威といわれた畠山だが、実は自ら本格的な発掘に乗り出すのは、これが初めてのことだった。その著書を読んで埋蔵金を掘り当てた人物が過去に2人いるそうだが、まだ自身の実績はないので、70歳を過ぎたそのころ「自分の手で一つくらいは」という気持ちが高じ、未公表のとっておきの場所を掘ろうと決心したのだった。
 ただ、公にやるわけにはいかない。マスコミに騒がれると、せっかく調査に合意してくれた地元に迷惑が掛かる。そこで、秘密を共有できる筆者と仲間が実働部隊として選ばれたというわけだ。

 9月から10月にかけて、ほとんど毎週末に永井へ通い続けた。上越新幹線が開通したのは1982年だから、当時は上越線の後閑で下車し、バスとタクシーを乗り継いで行くしかない。現地では、民宿と食堂を兼ねた『越路』に泊まり、目と鼻の先の畑の真ん中に縦穴を掘り下げた。
 謎のトンネルは長い間閉ざされたままで、入り口がない。かつては越後方面の大名も宿泊したという本陣の蔵の裏手から、十二神社の下に向かって掘られたと想像された。それが戦前の軍用道路としての工事中と、戦後、国道17号となって舗装工事をする際に偶然現れたという。
 本当は穴の開いたところを掘ればいいのだが、まだ関越自動車道もなかったころで、17号は関東と新潟を結ぶメーンルートだったから、とても不可能。そこで、トンネルを見たことがあるという越路の主人の記憶を頼りに、道路面より5メートルほど高い畑からトンネルに向かって縦穴を掘り下ろすことにしたのだった。
 しかし、幅1メートルもないような横穴にうまくぶつかるはずがない。8~9メートルを目安にしていたが、結局12メートル掘っても到達できず、第1ラウンドはそこで終了となった。

 翌年、畠山は「永井史蹟学術調査」の名目で建設省(当時)の許可を取り、国道脇の斜面を崩して、そこから縦穴を掘り下ろすことにした。
 戦前に穴が開いた場所に近いからより確実で、深さも3メートルも掘れば十分だと思われた。ただ、目の前を大型トラックがひっきりなしに通るので、細心の注意が必要だった。

 8月初旬に発掘開始、猛暑の中で目標の深さまで掘ったが、横穴は現れず、一時は穴の存在そのものを疑うほどだった。しかし、地元の古老の記憶を頼りに掘り続けた結果、思いがけなく、側溝の真下の道路面からわずか1.2メートルのところに空洞が現れた。
 トンネルさえ見つかれば黄金をゲットしたも同然と信じて疑わなかったので、入り口が開いたときには畠山はもちろん、われわれは小躍りしたが、慌てふためいたのは建設省の道路パトロール隊だ。長い間空洞を放置していたことは大失態なわけで、内部の調査は2週間だけにしてほしいと懇願されれば、無理矢理掘らせてもらった手前、応じるしかない。

 幅約60センチ、高さ約1.6メートルで延々と続くトンネル内は、幸い空気の状態は問題なく、窮屈な姿勢ではあったが、安全に侵入することができ、すぐにその全容がわかった。途中で1カ所分岐があるT字形で、総延長は約90メートル。
 しかし、中は空っぽだった。10万両あるとすれば千両入りの金箱で100個、2千両入りでも50個なければならない。狭い横穴のどこかに、さらに穴を掘って埋めるのは到底無理だから、むき出しに置くしかないはず。その可能性は消えた。
 とりあえず、金属探知機に反応があった場所を3カ所だけ掘ったが何もなく、最も怪しげな、そこだけ少し広くなった分岐点のうずたかい土の下は、結局時間切れで掘れなかった。それが今でも心残りだ。

 2週間がたった同年8月末、建設省はダンプ3台分の砂利でせっかく開いた入り口を埋め、数年後にはご丁寧にコンクリートの擁壁を造った。再度中を調べることになれば、また5メートル上の畑から目指すしかない。
 畠山はその後、永井のことを口にすることはなかった。落胆は大きかったようで、まもなく体調を崩して入退院を繰り返した末、1991年に85歳で世を去った。
(完)

50:2015/03/06(金) 21:57:27
うひょ!これ雑誌の記事にはもったいないね。
サンクス!

51:2015/03/11(水) 20:57:50
ちょっと思いついたんだけど、
Aさん宅の資料、買い取れないかなあ。
このままじゃ、散逸するね。どうにかならないかなあ。

52:2015/03/11(水) 21:02:49
そう出来れば、有力な二次資料を俺達で独占できるけどなあ。

53165:2015/03/11(水) 21:42:06
んー 難しい質問だな。
今まで、買い取りの申し出はいくらでもあったと思うし、特にブームの時は、それこそ高額だったはず。
今やブームも下火で貴重価値は低下しているし、本人も高齢だからなぁ
まぁ今後のことを考え、散逸するのが・・・と説得する要素はあるけど、なにせ思い出の品だしなぁ
あとは値段ですね。いくらなら買います?

54:2015/03/11(水) 21:53:55
金額はあまり問題じゃないと思うけど?
気持ちを動かすしかないかも?
30位がやっとww

55:2015/03/11(水) 22:01:45
残ってる資料では。Mさんの所の巻物、これが一次資料で、
あとはもうあれ位しか古いものはない。
内容はほとんど把握したけど、ものがあるのとないのとでは、大違いだよね。

56165:2015/03/14(土) 09:35:16
確かに本物があるとないとじゃ違うけど
気持ちを動かすのかぁ かなり難しいかと思う。

57165:2015/03/15(日) 09:36:44

https://www.youtube.com/watch?v=KwjLgGBatdY

Aさんも出てるし、うちらが持っているものも出てます。
先頭のHは、半角に直してください。

58:2015/03/15(日) 15:34:10
私がやってることとはまったく違う方法論ですね。
解読に関することはまったくない。
これはこれでいいと思うけど。

59165:2015/03/16(月) 23:27:29
いろいろな書物を読んで、思ったこと

義治を悪く書いてある本が多いこと。
悪くとは、ボケちゃってるということ。
また、水野家の成り立ち、小栗等の登場人物は、義治が言いだしっぺと書いてある。
これはなぜなのか?
少なくとも私たちは、智義の上申書を読んだ。また、智義のメモも読んだ。
そこにはすでに小栗や井伊の名があった。水野家の成り立ちはなかったけど。
なぜそこまで、悪者なのかが疑問である。

義治の話を元に本を書いてあるのは、次の人たちである。
木屋隆安の著書には、ボケ老人で同を話と同じ動作で一週間後にもしていたと書いてある。
義治が持っていた三州たたきは、分析の結果、炭釜の底の土だったと書いてある。
(この本では、三枝さんは、秩父で質屋をやっていたと、書いてある)

岡田文夫、八重野充弘も義治の話を元に書いてある。
この二人の著書は、一般によく知られる赤城埋蔵金の話である。

60:2015/03/17(火) 21:55:26
人の評価は難しいね。
ただ、義治氏は騙されるタイプだったように思う。
木屋隆安の著書→今度見せてね。

61:2015/03/18(水) 18:10:10
>木屋隆安の著書には、ボケ老人で同を話と同じ動作で一週間後にもしていたと書いてある。
義治が持っていた三州たたきは、分析の結果、炭釜の底の土だったと書いてある。

義治氏は昭和55年頃、亡くなっているから、それより少し前の話かなあ。

>この本では、三枝さんは、秩父で質屋をやっていたと、書いてある

三枝氏の経歴は畠山さんの著書を信じたほうが良いかも。何度も現地を訪れて、面談している。
三枝氏は昭和40年頃、亡くなっているから、本人の証言(一次資料)かどうか怪しいね。
もう亡くなって50年経つんだ。合掌。

62:2015/03/21(土) 19:45:03
『幕臣小栗上野介 埋蔵金ゆえに罪なくして斬らる』泰流社 1982

木屋隆安の本って、これ?

63165:2015/03/21(土) 21:19:22
それ 買う価値はないですよ。

64165:2015/03/21(土) 21:21:03
本シリーズの初回に書いたが、徳川の埋蔵金の知名度を上げるのに一役買ったのが、1990年から足かけ4年にわたってTBSテレビで放送された大発掘番組だ。しかし、内容はというと過去の探索者の跡をなぞっただけで、新発見は何もなかった。揚げ句にあまりにも巨大な穴を掘ったので、産業廃棄物の捨て場になるのではないかとの噂が立ち、近隣から苦情が出て発掘も番組も打ち切りになってしまった。
 それからしばらくは、マニアでも赤城山麓をうろつくことはあっても、発掘までやろうと思う者はおらず、県北の旧三国街道や旧沼田街道沿いの何カ所かで、地味な発掘が行われただけだった。

 ところが、1999年に再び赤城山麓が注目される。仕掛けたのはまたもやTBSテレビ。『38時間テレビ・20世紀最大の黄金スペクタクル・徳川埋蔵金大発掘・炎のリベンジ・紅白の裏で考えるドロだらけの経済番組・徳川埋蔵金は日本を二度救う!』という、長ったらしく、ド派手なタイトルで、大晦日に長時間の発掘の生中継をやったのだ。
 発掘場所は3カ所で、2カ所は以前の現場の北方に位置する長井小川田。うち1カ所は空中探査などハイテクの機器があぶり出したという場所で、元警察署長の三枝茂三郎が30年間掘ったところのすぐ近くだった。このとき、三枝の発掘小屋は放置されていた深い穴ごと、きれいさっぱり片付けられた。
 そしてもう1カ所が、前の現場より少し南のゴルフ場の中。それを聞いて筆者は驚いた。そこに目を付けたのが、岩手県で肉牛の牧場を営むヤマナカタロウ(仮名)だったからだ。事前に連絡がなかったから、本当に掘るなんて思いもよらなかったのだが、画面を見ていたら本人が登場した。思えばヤマナカが筆者にコンタクトをとってきたのは、1994年のことだから、5年間の執念が実ったのだった。

 ヤマナカが徳川の埋蔵金に魅せられるきっかけとなったのは、筆者がある雑誌に書いたレポートだった。かなりのページ数を割いてもらったので、もう一人の研究家とともに執筆し、それまでの探索の歴史や残された物証と痕跡を、余すことなく盛り込んだつもりだった。
 するとヤマナカは『双永寺秘文』と井戸から出たと伝えられる銅皿の文字、すなわち「井」「八社」「子二四芝下炭」「未三二四芝下石」「亥雨芝下石」の謎解きに夢中になった。そして、人に見せてもいいと思えるほど自信がついたのだろう、最初は手紙で解読の内容について感想を求めてきた。
 ただ、「どう思われますか?」と聞かれても、「よくここまで考えましたね」くらいは言えるが、その先の言葉が続かない。そもそも、秘文や銅皿の存在そのものが怪しいのだから、うまく解読できたかどうかの判定に、どれだけ意味があるというのか。
 古文書の謎解きにはまるマニアは結構多いが、共通しているのは「考えすぎ」で「こじつけ」が多いことである。ヤマナカにもその傾向が感じられたので、否定はせずに「思い込みは大敵ですよ」とくぎを刺すにとどめた。

 何回かの手紙のやりとりの後、どうしてもと言うので赤城山麓に同行することになり、最後に彼がたどり着いた場所に足を運んだ。そこが1987年開場の赤城ゴルフ倶楽部で、発掘調査が可能かどうか筆者が交渉役を頼まれたのだった。
 ソフトな物腰の支配人は初めは驚きの表情を見せていたが、次第に笑みを浮かべるようになり、コース内を案内してもらうと、ヤマナカが地図上に×印を付けたところはグリーンでもフェアウエーでもなく、ホールとホールの間の狭間だった。
 「不思議ですねえ」と支配人が首をひねる。その訳は、大きな岩が一つだけ不自然に転がっていたので、そこを避けてコースを設計したからだった。ヤマナカがすかさず「地上の目印では」とつぶやいた。

 筆者がこの件に関わったのはそこまで。それがいつの間にかTBSに伝わって、発掘にまで進んだわけだ。結果は収穫なしに終わったが、もしかしたらゴルフ場側が積極的にテレビに話を持っていったのかもしれない。というのは、それからしばらくして、赤城ゴルフ倶楽部は徳川埋蔵金伝説のゴルフ場というキャッチフレーズを使うようになったからだ。おまけに8番のショートホールのホールインワン賞は本物の小判。これは現在も続けられていて、すでに10人以上がゲットしているという。(完)

65165:2015/03/21(土) 21:23:34
群馬県内には道祖神や庚申塔、馬頭観音など、民間信仰に由来する素朴な石造物が多い。だから赤城山麓にそういうものがあっても不思議はないのだが、1860年(万延元年)から幕末までの8年間に集中的に建てられた石造物がある事実を、どうみればいいのだろうか? 特に、1864年(元治元年)に『大黒天』だけで8体も建てられているのは、ただごとではない。筆者がそれを知ったのは、1995年のことだった。

 実はそれ以前から、赤城町棚下の岩壁に彫られた剣持大黒天(元治元年)や、津久田十二坂の狩野家梅林にある大青面金剛明王(安政7年)などが気に掛かっていた。徳川の埋蔵金が古兵法『八門遁甲』で隠されたのなら、必ず地上に目印が置かれているはず。その目印は「不動のもの」、つまり、長い時間がたっても移動したり消滅したりしないものでなければならない。宗教に関連したもの、石造物が使われていることが多いと聞く。
 そこで、他にも何かあるかもしれないと考え、前号でご紹介した岩手県の牧場主の調査に付き合った後、赤城村(当時)の役場に立ち寄った。教育委員会がまとめた石造物のリストがあると聞いていたからだ。運良く残部があったので一部分けてもらったのだが、帰京後すぐに地元の人物から電話がかかってきた。役場に置いてあった名刺から筆者の連絡先を知ったらしい。

 ガソリンスタンドを経営しているというその男性Tは、筆者が徳川埋蔵金の調査をしていることも知っていて「なぜ石造物に興味を持ったのですか?」と問いかけてきた。「御用金の埋蔵場所へ導く手掛かりを探していたもので」と正直に答えると、相手はこう言った。
 「ぜひ聞いていただきたい話があります。私たちは埋蔵金探しをやっていたわけではなく、趣味で山岳信仰と石造物の関係を調べていたのです。ところが幕末に建てられたものがやたらに多いので、それがなぜなのか不思議に思って研究していたところ、それらを建てた人物が特定できたのです。やっぱり、埋蔵金に関係があるとしか思えません」
 筆者はだんだん血が沸き立ってきた。(彼は、僕の知らないことを知っている!)
 数日後、筆者は赤城山の麓へ向けて車を走らせた。

 Tは石造物の中のいくつかに、同じ人物の名が刻まれていることに気が付いた。観理院第三十世権僧正廣深。かなり位の高い僧であることは想像できたが、観理院という寺がどこにあるかすぐにはわからない。今のようにネット検索などできなかったころだから、それが判明するまでに数年かかった。そして、一緒に研究をしていた彼の兄が、実にアナログ的な方法でそれを発見した。江戸市中の切絵図の中にあったのだ。
 東京都民なら誰でも知っている日枝神社。千代田区永田町二丁目にある、格式の高い都内でも指折りの神社だ。神仏習合が行われていた江戸時代末期までは、広い境内の中に神社を管理する役目をもつ別当寺の観理院を筆頭に、10を数える坊(大寺院に属する小院)があった。古地図を見ると、観理院は現在の永田町山王森ビルからザ・キャピトルホテル東急にかけての広い場所を占め、他の坊は南側の溜池に面してずらりと並んでいたようだ。
 日枝神社は、太田道灌が江戸城を築いたころからあり、徳川家康が江戸に移って城を改修したときは城内に置いて城の鎮守としたが、4代将軍家綱のころ、江戸城の裏鬼門に当たる現在の場所に移された。いずれにしろ徳川幕府にとっては縁の深い神社で、刻まれている名の廣深は、そこのトップだったわけである。

 そしてTは、もう一人の重要人物の情報をつかんでいた。廣深とともに行動していた地元出身で江戸で材木商として成功した狩野長重郎だ。2人がプロデューサーとスポンサーの関係だったことは容易に想像がつく。では、そのプロジェクトの中身は何だったのか?
 「江戸城の普請に使った木材はほとんどが上州産だったらしいですから、狩野も幕府とは関係が深かったと思われます。2人で、幕府のために一肌脱いだということではないでしょうか」

 Tは自信満々だった。筆者もそう思った。石造物は呪術的意味合いとともに、しかるべき後のしかるべき人物のために残した道しるべの役割を持っているのかもしれない。言い伝え通り、御用金埋蔵の発案者が井伊直弼だったのなら、2人が石造物の配置を終えた元治元年は、井伊が桜田門外で斃れてから4年後のことで、遺志を継いだという解釈になる。
 問題は石造物の配置だ。筆者は一通り見て回り、その結果思い浮かんだポイントがあるが、それについての見解は、本シリーズの最後に述べることにする。
(完)

66:2015/03/21(土) 23:12:18
八重野さん、頑張ってるなあ。これはすごいよ。

67165:2015/03/21(土) 23:35:02
石造物は過去に調べた。
沼田街道だからという結果だった。

68:2015/03/22(日) 10:22:54
石造物、私はこれらを神社仏閣を含めて、宗教的遺物と考えている。
何らかの意味が見出されれば、意味があるけどね。

69165:2015/03/22(日) 22:31:31
で、企画はどうなっているんすか?

70:2015/03/23(月) 21:37:03
今年は無理かなって感じですね。
完全に止まったままです。

71:2015/03/24(火) 23:51:44
>義治が持っていた三州たたきは、分析の結果、炭釜の底の土だったと書いてある。

炭焼きの窯跡を亀と混同したということか?
これ、まったく盲点だったなあ。窯跡だったら、人里離れた場所にあっても
不思議じゃないなあ。

72:2015/04/01(水) 23:17:54
髭剃りました。
面接に行って来ましたww
採用になるかなあ?

73165:2015/04/02(木) 20:21:46
まじかwwwwwwwww
就職してないで、埋蔵金を掘るんだw

74:2015/04/02(木) 23:48:11
髭期間は無職ww
その方が『埋蔵金探し』って感じでしょww

75:2015/04/04(土) 11:03:32
内定しました。
当分、入社書類で忙しいですww
今月、赤いチャンチャンコですww

76165:2015/04/05(日) 09:02:44
内定&還暦おめでとうw
仕事に追われず、埋蔵金もお願いしますw

77:2015/04/09(木) 18:21:32
久しぶりにロードーをしたら、疲れました。
酒飲んで寝ます。

78165:2015/04/09(木) 20:05:47
早く企画書を書いてくださいな。

79:2015/07/11(土) 00:14:09
11月7、8日に姪の結婚式で上京します。
7日に一杯いかがですか?

80165:2015/07/12(日) 07:27:18
了解しました。
場所はどこがいいでしょうか?
メンバーは?

81:2015/07/12(日) 07:40:31
おまかせします。

82165:2015/08/22(土) 20:02:59
週刊実話買ってみてね。
八重野氏の徳川埋蔵金最終決着シリーズ

83165:2015/09/05(土) 17:50:04
生きてる?

84:2015/09/09(水) 21:09:34
ごめん、ごめんww
引っ越ししたりしてて、見てなかった。
実話の件、完全スルー。涙目。

85165:2015/09/09(水) 21:59:46
引っ越し?どちらへ?まさか赤城?

86:2015/09/11(金) 21:16:05
同じ市内で安いところへww

87:2015/09/24(木) 18:25:25
昨日はひさしぶりに楽しい時間をすごしました。
サンクス。

88:2015/10/27(火) 16:26:42
11月7日(土)17:00頃、東京へ行く予定ですが、どうしますか?

89165:2015/10/28(水) 21:58:02
了解です。
東京駅でいいのですか?
東京駅なら、東京駅八重洲北口を出て、大通りのところでお待ちしています。
参加者はどうしましょう?私一人でいいですか?

90:2015/10/28(水) 22:14:20
17:00に八重洲北口でよろしく。
1人のほうが話が見えていいと思います。

91165:2015/10/28(水) 23:48:01
了解しました。

92<削除>:<削除>
<削除>

93165:2015/11/07(土) 23:39:42
株式会社フルタイム

*** 様

突然のメール、大変失礼します。
2チャンネル 趣味一般 埋蔵金発掘が趣味の人に書き込んでおります165こと**と申します。
まず初めに、以前、御社から番組出演のご依頼がありましたが、私の趣旨と異なっていたため、
大変失礼だと思いましたが無視してしまいました。深くお詫びいたします。

さて、メールをいただいて2年になろうとしていますが、メールさせていただいた理由は、
埋蔵金発掘の企画の持ち込みです。狙うはTBSが手掛けたあの「徳川埋蔵金」です。
TBSに直接企画を持ちこもうと思いましたが、以前メールをいただいた御社を思い出しメールをした次第です。

2チャンネル 趣味一般 埋蔵金発掘が趣味の人に書き込んでいる赤城本命(**氏)さんとの協議の末、
あとは掘るしかないという結果に至りました。
埋蔵金といえばトレジャーハンターの八重野充弘氏が有名ですが、八重野氏は徳川埋蔵金に否定的で協力を
得られるとは思えず、また、数年前に水野智之氏がお亡くなりになられているので、現状個人では限界を感じ
TVの力に頼るしかないと判断しました。

10年ほど2チャンネルで埋蔵金の話題を書いてきており、私のホームページからメールを送れるようにしていましたが、
徳川埋蔵金の情報や問い合わせ等はありませんでした。
このことから、一般の徳川埋蔵金の探索者は、165と赤城本命さんで最後だと思われ最後の挑戦だと思います。
埋蔵金と言えば、山師や変わり者というイメージでしょうが、まぁその通りですが、調査研究は万全です。
赤城本命さんが数学により埋蔵場所を導き出し、私がそれをサポートした結果になります。
掘るに至った経緯を書くと枚挙に苫がないので割愛させていただきますが、簡単に説明いたしますと、
徳川埋蔵金に出てくる「三枚の銅板」「燈明皿」「家康像」ですが、「三枚の銅板」「燈明皿」は、
数学で解読できTBSや水野氏のアプローチと全く異なる結果になっています。(TBS、水野氏はそもそも解読していない)

掘る場所は赤城山ですが、水野家の周辺ではありません。
また、TBSのような大規模ではなく、ごく限られた範囲です。
もちろん有るという保証はありません。

ご興味がございましたらご連絡ください。
なお、赤城本命(**氏)さんは、三重県在住のため、頻繁には東京に出てこれません。
お話をお聞きいただける際には、初回は私から赤城本命さんにご連絡することとなりますのでご了承ください。
私への連絡ですが、日中等多忙なため電話に出られる機会も少ないので、メールでお願いします。

ご参考までに
TVや書籍で公開されたことがない有名な銅版の写しの本物の画像と、
この銅版の写しの出所を証明する水野家初代智義が書いた上申書の画像をお送りいたします。
上申書は、今まで発行されている徳川埋蔵金関係の書籍に掲載されていますので、見比べてみれば本物だとわかるはずです。
以上、長文になりましたが、ご検討をよろしくお願いいたします。

165こと**(***)
埼玉県****   090-**-**

94165:2015/11/07(土) 23:40:26
↑これでメールを出そうとおもっていますが、添削等お願いします。

95165:2015/11/07(土) 23:42:34
信ぴょう性を増すため、上申書の本物表紙と銅版の写しの一部の画像をメールに付けようと思います。

96:2015/11/08(日) 23:29:47
>>埋蔵金といえばトレジャーハンターの八重野充弘氏が有名ですが、八重野氏は徳川埋蔵金に否定的で協力を
得られるとは思えず、また、数年前に水野智之氏がお亡くなりになられているので、

八重野さん、水野さんの件は削除したほうが良いと思います。
八重野さんへ連絡が行ったとしても、私の事はある程度理解されていると
思います。八重野さんにネガティブな印象を与えかねませんから。
どこでどう繋がりがあるか、解りませんので。(これまでなんらかの番組で面識があったりとか)

後は特にありません。

97:2015/11/08(日) 23:33:19
追伸

昨日は楽しい時間をありがとうございました。
23時頃、四日市に戻りました。

98165:2015/11/09(月) 20:52:38
ご帰宅ご無事で何よりです。お疲れ様でした。
添削ありがとうございます。

99165:2015/11/24(火) 19:46:07
なかなか作業が進んでいません。

ところで、日本宝島探検 桑田忠親著(文学博士)に三枝氏の発掘について書いてありました。
八門遁甲を六門遁甲としていたり、実際三枝氏に会ったのかなど、真贋のほどはわかりませんが、次のように書いてあります。
*3mごとに現れる数々の証拠品(うちらの知る証拠と同じ)
*報道陣や野次馬の襲来に備えて、発掘現場の周囲50mほどの場所を有刺鉄線の柵で囲った

三枝氏の発掘現場の見取り図があり、発掘抗は2箇所で、1箇所は供養塔の横
もう1箇所は、だいぶ離れたところ

供養塔の横から発掘抗を過ぎてガゲ側に向かうと三枝氏の小屋があり、その横にろくろ、発掘した土砂がある。
さらに赤城山方面に向かうと稲荷神社があり、2つ目の発掘抗がある。


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