政府の憲法解釈の正当性をいっそう揺るがす事実が、明らかになった。

 政府解釈を変更し、集団的自衛権の行使を認めた昨年7月の閣議決定について、内閣法制局が内部での議論の過程を文書に残していなかった。朝日新聞の情報公開請求に対し、該当文書が示されなかったのだ。

 先の国会で、日本の安全保障政策の歴史的転換となる安保法制が成立した。そのもととなった閣議決定を法的に問題なしとしたのが内閣法制局だ。

 そこにいたる経緯が文書に残されていなかった事実は重い。解釈変更が妥当だったのかどうか、主権者である国民が検証できないことになるからだ。

 公文書管理法は、行政機関が意思決定にいたる過程を合理的に跡づけ、検証することができるよう、文書の作成と保管を義務づけている。「事案が軽微なもの」は除かれているが、憲法解釈の変更がこれにあたるとはとうてい思えない。

 解釈変更にあたって内部議論をしていたことは、横畠裕介法制局長官自身が国会答弁で認めている。あえて記録を残さなかったとすれば、国民に対する説明責任の放棄であり、歴史への背信と言われても仕方がない。

 さらに重大なのは、法制局内で本当に詳細な法的検討がなされたのか、あるいは政府内における「法の番人」として機能したのか、という疑問だ。

 集団的自衛権は保有しているが行使できないとの政府解釈は、長年の政府内での議論や国会での質疑によって積み重ねられてきた。だから政府は「行使を認めたいのであれば、憲法改正という手段をとらざるをえない」と説明してきた。

 これを政府の解釈変更で可能だと一変させる閣議決定にむけては、自民、公明による与党協議と、一部の与党幹部と法制局長官ら官僚による水面下での協議が並行して進められていたことが明らかになっている。

 解釈変更が法制局による組織的な検討を離れ、一握りの政治家らと長官の手で実質的に進められていたのなら、法制局の存在意義そのものが問われる。

 今後の政府の意思決定においても、法的妥当性よりも政治的要請が優先されてしまう前例を残すことになりかねない。

 限定的な集団的自衛権の行使は認められるとの政府の説明は、安保法制が成立したいまもなお、多くの国民の納得をえられたとは言い難い。

 政府は事実関係を国民に説明する責任があるし、国会は一連の経緯を詳細に検証すべきだ。