至誠館 館長 佐野松雄 新羅善新堂は古色そう然としたお寺と云おうか、神社といおうか、 山に向かって登りはじめると石段を二十段くらい登ったところの右側に 土饅頭が鉄格子に囲まれてひっそりとたたずんでいる。 |
これが900年に亘り大東流の元祖といわれる合気武道の墓だと云う。 また、大正のころまでは、大東流と書いて「やまとりゅう」と呼ばれていたらしい 新羅三郎義光といえば、兄八幡太郎義家の後三年の役出陣の時、足柄山に差しかかった処、 大江国房から伝えられた笛の秘伝を従ってきた青年に伝え、都に帰したという風雅な話がある。 後に、左兵衛尉として宮廷に仕え相撲、合氣の道も究めた文武の名将だった。 新羅三郎義光の合氣は、源氏の家に伝わる秘法に工夫を加えたものである。 合気の源流をさかのぼれば古来の手乞い(てごい)に行き着く。 日本最古の書の一つであって、古事記に出てくる建御雷神(たけみかずちのかみ)の手をとって 筆をとるようにつかみひしいで投げたという話がそれである。 この手乞いとは、相撲の始めとも言われ、 日本書記に出てくる野見宿禰(のみのすくね)当麻蹴速(たいまのけはや)伝説から さらに平安時代の宮中での相撲節介(すまいのせちえ) 鎌倉時代の武士相撲まで伝承されたものである。 相撲節介は全国力士を集め天皇の御前で相撲を取るものだが、今日の相撲と異なり土俵も無く、 手乞から発した武技の色彩を勉め手乞によって天皇を守護する形が清和天皇の孫、経基王から継承された。 これら墓参も三度お参りできたこと、また多田神社も三度参詣し足柄山の大きな石を見て新羅三郎を偲びました。 聞くところでは、毎年9月2日に記念祭が行われるということなので、元気なうちに一度お伺いしたいものである。 |
大東流合気武道 総本部至誠館 館長 佐野松雄 私の歩み鍛錬してきた道、大東流合気武道。 そして、その本部でもあった大東流合気武道総本部大東館の生い立ちにも触れ、 私の半生を顧みたいと思います。 まず、合気柔術(のちに合気武道)の祖、武田惣角の長男、大東流合気武道 第36代宗家 武田時宗が実際に世間に出て、 教授活動を開始したころの話にふれたいと思います。 戦後間もなく昭和20年代初期、日本は第2次世界大戦に敗れ、アメリカ軍に占領されて今後どうなってしまうのか? との不安が当時の国民、 特に若年層はこのことの不安がストレスとなり自暴自棄となっていました。 またこのことでの暴力沙汰が日本全土で頻発していた頃のことです。 北海道の網走市も例外ではなく、市はこの対策に追われていましたが、 その中で、武道を通じて心身の練磨、礼儀作法、そして次世代の若者に夢を持たせることが必要であるとの考え方のもと、 これを教授できる人、団体を捜そう…とのことで、まだ一般には知れていなかったが、 この道では精通していた武田時宗 宗家に白羽の矢が立ち、中川イセ、杉本両氏を通じて依頼がきたと聞き及んでいます。 前述の「若者に夢を…」という行政の願いと努力が実を結び、 昭和29年時宗宗家は大東流を一般に公開、指導することを決断されました。かくして、 合気武道が世に出た記念すべき出来事だったと今更ながら感じております。 当時の私は出生が岩手県でありましたが、縁あり、昭和21年網走の水産加工場に勤務していました。 大東流「門下生募集」このことを知った私は当初より武道にあこがれていたので、迷わず入門しました。 昭和29年のことです。今でいうなら第1期生で25歳の時と記憶しております。 同期には市役所職員の方も何人かいて小原氏も同期だと記憶しております。 世に出たといっても、当初は予算も少なく大変でした。この時、時宗宗家はすでに警察官を退職され、 義兄の経営する水産会社の役員を務めていました。 そんなことで道場は使用していない魚カスの工場で稽古を開始しました。 しかし始めたころは畳といえば、家庭用の廃棄するような日本畳での稽古の毎日でした。 冬は厳冬の中、門下の皆さんと薪は各自で持ち寄り、暖をとりながら稽古したことを今更のように思い出します。 その後、こうした我々の現状を知った網走市民の方より多額の寄付が寄せられ、 そのおかげをもって昭和31年秋「大東館」道場の設立を見たわけでございます。 これに伴い、時宗宗家は、呼称を合気柔術から合気武道に改めました。 このことが、市民の武道の普及と人間育成のスタートを切ったといっても過言ではありません。 時宗宗家が大東流合気柔術から大東流合気武道へ改めた経緯はこの道を志す者は「争いを止める」 いわゆる弋を止める→「武」でなければならぬ。 として合気武道と改名したと聞いています。 このことは、私も今更ながら時宗宗家の合気武道の普及の一念を感じさせられました。 私は、このように網走での生活、合気武道の稽古の毎日でしたが、 昭和35年転機が訪れました。 将来を見据えて北見市に移住、転職して北交ハイヤーに入社しました。 こうして、北見にて新しい生活をスタートさせたわけですが、 ここでも大東流合気武道を普及させるべく、 昭和38年、社内で合気武道サークルを立ち上げ、活動を始めました。 活動当初は勿論、社内には稽古場はなく、青少年ホーム、市で建てた小さな武道場、 屋外稽古とさまざまなところを稽古場とする状況でした。 また、冬にはお寺の境内での雪上稽古も実施したことがあります。 ただ、この頃、ハイヤー会社という勤務事情もあり、一同に会する機会がなかなかできず、 サークル員も思うようには増えませんでした。 このような状況の中、昭和42年縁あり、北見市北上にある北海道糖業((株))より合気武道の指導依頼をうけました。 この時の北糖(北海道糖業の略…以後北糖)合気武道サークルで、 後日会員になられた吉武様(当時事務部長 故人)と石橋様(現東京在住)、佐々木様にはその後、 合気武道普及のため多大なご尽力をいただき今更ながらお礼申し上げます。 そして、このことが、のちに至誠館設立のきっかけとなったのです。 こうして北糖サークルでの指導が始まりました。そして、北糖のサークル員は徐々に増えていったのです。 そして、昭和43年外部より指導願いたということで佐々木(現 師範)宮本(同 師範)氏が入会し現在に至っています。 私の半生で心に強く残ることは、前述の雪上稽古であり、このことは北見の会員により長い間受け継がれていました。 この鍛錬は昭和45年頃北糖の敷地内で開始されから以降、毎年1月2日に「新年雪上初稽古」として実施され、 最近まで北見至誠館道場の年中行事になっていました。北海道の冬、その中でも有数の巌冬で知られる北見の早朝、 白足袋一枚で雪上での初稽古を三十数年継続してきたことは、相当な精神と忍耐力が培われた事と思います。 また、このような鍛錬は、北海道でも我々の会以外にはない…と今更ながら自負するところです。 また、このような時期に施設、場所を提供していただいた (株)北海道糖業様並びに関係の方々には厚く御礼申し上げたいと思います。 その後、このような活動が認められ、宗家より昭和44年2月、 東京支部と同時に大東流合気武道総本部支部第1号として認可されました。 この時の会員は北糖サークル員及び少年部も含めて四十数名になっていました。 今、垣間見ると私も合気武道とともに絶頂期をむかえて充実した毎日でした。 以上、半生として私と合気武道のかかわりを記憶の赴くまま、紐解いてみました。 これ以後については、また次の機会に披露したいと思います。 |