2015年11月24日

パリのテロ後。。

ベルギーの友人宅で夕飯を食べていた私は母からの電話でニュースを知った。

その後部屋にこもり、朝の3時過ぎまでラジオを離せなかった。毎分ごとに増えていく死者の数で震える体を押さえながらパリの友人たちの無事を確認し、同時に日本からのメッセージに対応していた。

犠牲になったのはライブに行く若者、カップル、親子、レストランで食べて飲んで友達の誕生日を祝っている若者、つまり普通に金曜日に外出していた20代から30代の人々、正に私でもおかしくなかった。

犯行があった10区や11区は世代と人種がもっともミックスして賑わっている人気地区で新しいパリの象徴の様な場所。無差別ではなく、私達の自由と多国の民族の融合が的となったのだ。でも考えてみればアムスやバルセロナ、ロンドン、ベルリンなど自由でミックスカルチャーという条件に当てはまる都市は世界に多々ある。他にテロがありえた理由としてはフランスがアラブ諸国を植民地にした歴史、資源に手をつけたいがため爆弾を投下した背景、その結果ゆえにフランスに移民してくる人々への差別的扱いから生まれた憎しみ、地理的にアクセスしやすい事などといったことが挙げられる。

平和ボケしている私の意識に初めて「戦争」という言葉が浮かんだ。
テロでも無差別殺人でもない、これは戦争なのかもしれない。でも私の父や祖父母が経験してきた戦争とは違って敵に国も顔もない。世代を超えて憎しみとフラストレーション、そして彷徨った若い魂を餌に知らず知らず大きくなっている姿のみえないモンスターの様だ。

カラシニコフで乱射し自爆したテロリスト達は8人全員が20〜30代だった。

我々と同じ国で育ち教育を受けたはずの彼らはどうやってここまで洗脳されてしまったのか、憎しみの根はどこからくるのか。。。

事件から2日後パリへ戻った。いつも見慣れた自分の町なのに異国のような空気感が漂っていた。晴れ晴れした日曜日だったのに公園もお店も閉まっていて人が少なく町が静かだった。パリを出ている2日の間に自分の住んでいた時代とは異なる時代にまるで放り投げられた感覚を覚えた。

これからどう世界は変わって行くのか、今回父や母を殺された子供達はどんな大人になって行くのか、憎しみを育てないためにはどうすれば良いのか。奥さんを殺され17ヶ月の赤ちゃんと二人で残された男性が公開したテロリスト宛の手紙にとても強い言葉が綴られていた。《私はあなたが誰なのか知らないし、知りたくない。私はあなたを憎まない。憎んだらあなたの勝ちだから。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。息子には世界に目を見開いて生きてほしい。世界を、より美しい場所にする人の一人になってもらいたい。私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い》

ナイーヴのようだが私達は出来る限り愛を撒くしかないと思う。異なる人とたくさん意見を交わし合い、より世界の流れについて学び、子供達を愛情もって教育し、それぞれが大事な人たちと自分を一生懸命愛すだけでも大きな戦いでありいま急務なミッションなのではないか。

マイア


レパブリック広場にはテロの日から毎日何百、何千人という人が集まって献花をしたり蝋燭に火を灯して祈っています。メッセージの中には《怖くなんか無いぞ》《この暴力にデモクラシーで答えよう》《戦争はおまえの心の中でやれ》
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テロ数日後レパブリック広場でfree hugの看板を持って抱き合う見知らぬ人同士がいました。
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個人的に感動したのはモスリムの若い男性やシリアの難民としてフランスに来たばかりの男性が《私はモスリムだけどテロリストではありません》という看板を持って立ち、彼らに仏人の老若男女が抱き合い涙を流していたこと。テロリストの狙いでもあるがイスラム原理主義の仕業のテロがあると差別が増え右翼が強くなる。今正にフランスの政治は危ない方向に向かっているのだ。だからこそ我々一人一人、そして特イスラム教徒達が誤解を解くため立ち上がるべきなのではないか。
https://www.youtube.com/watch?v=lRbbEQkraYg