韓国の民主化の主役だった金泳三元大統領はこれまでさまざまなエピソードを残してきた。ストレートな話し方で自身の考えを述べるのが特徴だった。
金元大統領は1961年、後に大統領となる朴正熙(パク・チョンヒ)氏の「5.16軍事クーデター」以降、「共和党の結党に参加を」という提案を国家再建最高会議から受けた際、「軍が政治に参加しようとするのは間違いなので、参加できない」と拒否した。70年9月に新民党の大統領候補党内選考でライバルの金大中(キム・デジュン)氏に敗れたが、結果を承服した。その後、「金大中氏の勝利は我々の勝利であり、すなわち私の勝利だ」という支持演説を行った。弔問に訪れた新政治民主連合の文在寅(ムン・ジェイン)代表は22日、当時の演説に言及し、「韓国の野党史で最も輝いた瞬間だった」と述べた。
金元大統領は78年7月、朴正煕元大統領が維新憲法で大統領に就任した際、国会演説で「政府には安全保障を口実に抑圧政治を行う名分がない。むしろ安全保障のために民主回復をすべき時だ」と主張した。79年10月に議員職を追われた際には、「ニワトリの首を折っても朝は来る」という名言を残した。83年5月には民主化を要求するハンスト中に全斗煥(チョン・ドゥファン)政権から出国を勧告されたのに対し、「私のなきがらにして海外に送ればよい」と反論した。
「日本のポルジャンモリ(礼儀作法)を必ず直してやる」という言葉は、95年11月に中国の江沢民国家主席(当時)との首脳会談で飛び出した。村山内閣の江藤隆美総務庁長官による「植民地時代に日本は悪いこともしたが、良いこともした」という妄言に反発したものだ。金元大統領は97年、米メジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースで活躍していた朴賛浩(パク・チャンホ)選手に「頂上に登れば、下りるときのことも考えておくべきだ」とアドバイスした。任期末に次男、金賢哲(キム・ヒョンチョル)氏による利権スキャンダルとアジア通貨危機を経験した金元大統領は、98年2月の退任あいさつで、「栄光の時間は短く、苦痛と苦悩の時間が長かった」という言葉を残した。