右頬に鈍い痛みを感じた。ゴツゴツとしたアスファルトが昼間にたっぷりと溜め込んでおいた熱を放射し続けているかのように熱く、体中から嫌な匂いのする汗をかいていた。目を開こうと思うが、俺の両眼はまるで接着剤で貼り付けられたかのようで、開くことができない。喉がからからに乾いている。俺はどこに倒れているのかが分からない。少しずつ感覚が戻ってくる。車のクラクションや人いきれが遠くに聞えてくる。熱気が全身を包んでいるが、俺はびっしりと鳥肌を立てている。酔っ払い共のフラフラとした靴音が聞こえている。熱い。喉が渇いている。俺は目を開こうともがき続ける。いったい今何時なんだろうか。誰かが俺の脚を軽く蹴った。何か喋っている。外国人のようだ。俺の肩を叩いている。笑っている。話し声が近づく。聞き覚えのある声だ。骨張った手が俺の頬を叩く。俺はその手を振り払おうとするがうまく体が動かない。手が何本かやってきて俺の体を無理矢理引き起こそうとする。俺は立ちたくない。むっとする湿気が俺の体を腐らせている。俺はもがく。両脇を支えられて立たされた。重い目をかろうじて開くとケビンがニヤニヤ笑って立っていた。ケビンの金髪がぐらぐらと揺れていて、俺は激しい吐き気を感じた。乾いた口の中にさらさらした唾液がどんどん出てきて、俺はさらにびっしょりと汗をかき、呻き声を上げた。両脇を支えていた手が離れる。俺は跪いて四つん這いになり、口を開いて痙攣を受け入れた。胃が激しく収縮し、痙攣する。俺はさっき「シシリア」で食ったピッツァやパスタの残骸を吐き出した。胃の中がからっぽになっても痙攣は収まらず、俺は四つん這いになったまま痛みに耐えた。通りすがりの若い男が「きたねーなー」と言い捨てていく。靴音が遠のき、車の排気音にエコーがかかったようになる。俺はまた気を失うのか、そう思ったが、何度か感覚は行ったり来たりしながら、確実に俺のもとに戻ってきつつあった。
掌で口元を拭って俺はフラフラと立ち上がった。ケビンとアーニーとニールが俺をとり囲むように突っ立っていた。
「どうした、クラックのやり過ぎか」ケビンは相変わらずニヤニヤしている。白人特有の腋臭が鼻をつく。ケビンはライムを突っ込んだコロナの瓶を持っている。酒か薬で既にかなり酔っていて、目がとろんとしていて、ろれつがはっきりとしていない。
改めて俺は周囲を見回した。俺は六本木の外苑東通りを飯倉に向かったところで歩道の隅の植え込みに突っ込むようにして倒れていたらしい。右頬が何で切ったのか分からないが小さく裂け、血が固まっていた。口の中が猛烈に乾いている。俺はケビンの手から黙ってコロナを奪いとって、カサカサの喉に一気に流し込んだ。
「今、何時だ」俺はケビンに聴いた。「1時半だよ」アーニーが答える。「まだオネンネには早すぎるよ、ボク」
「トム、何やってあんなになった」ニールが真顔で尋ねてくる。トムというのは連中が俺を呼ぶときのあだ名だ。民雄だからトム、うんざりだ。「ドナルドから買ったヤツか」
俺は頷いた。ドナルドが流してくるクラックは質が悪いといつも言われていた。やり過ぎて死ぬヤツもいるらしい。お前もうちょっとで死ぬとこだったんだぞ。
その時俺はようやく思い出した。俺は女と食事をして、飲みに入ったドナルドの店でクラックやってフラフラになったんだ。ぐるりと周囲を見回してみたが女の姿はもちろんなかった。あいつどこいったんだろう。俺は思った。名前も知らない女。先週Drug Storeで声をかけてついてきた。髪が短くて胸も尻も小さかった。ベッドに滑り込んでから30分もずっとフェラチオし続けた。頭がよさそうな、綺麗な目をしていた。名前も住所も言わず、今日の待ち合わせだけ決めた。あの女はクラックやってなかったからな、呆れて一人でどこかに行ったんだろ。
「お前最近荒れてるなあ」ケビンが呆れたように言う。「女に逃げられてツキも無くしたか」
「まだあの女のこと考えて毎日メソメソしてるのかよ」アーニーが俺をからかう。
「トム、これからどうする。俺達GAS PANIC行くけど」ニールが言う。ケビンは酔いが回ったのかしゃがみ込んでしまった。Pipsからジャクソンが背の高い日本人の女を連れて出てきた。汗で黒い皮膚が青光りしている。目と歯だけを目立たせながら俺達の方に歩いてくる。体臭が鼻をつく。「トム、ひでえ顔してんな」ジャクソンは白い歯を剥いて笑う。髪をソバージュにして、ピンクのタンクトップ姿の女も一緒に笑う。赤い口が開き銀歯が1本見えた。
「ドナルドのところのクラックやり過ぎて死にかけたんだよ」アーニーが面倒臭そうに答える。アーニーの目は黄色く濁っている。ヘロインの常習者だ。
「なんであんなもんに手を出す」テープレコーダーで再生したように同じ質問が返ってきて俺はうんざりする。アーニーは浅黒い顔をにやつかせて黙っている。
「俺達これからGAS PANIC行くんだけど、来るか」ニールが言う。ジャクソンは分厚い両手を上げて肩をすくませる。俺、あんなイラン人ばかりの店嫌だぜ。「踊りはもういいよ。今までずっとキョウコと踊ってたんだ」ジャクソンはそう言うと女の尻をなで回しながら交差点に向かって歩いていった。歩道は昼間のように人がぞろぞろと歩いている。日本人の男は少なくて、外国人の男と日本人の女というカップルが目立つ。ぼんやりと立っているだけで汗が噴き出してくる。アスファルトが饐える匂いがする。交差点の脇には花屋が出て、背の高い女がヒマワリを買っている。
俺達はびっくり寿司の角を曲がってGAS PANICへと向かう。歩くとまだ後頭部が痺れてフラフラする。口の中に酸っぱい匂いが立ち篭めて、さらさらした唾液が口の中に溜まる。行き止まりの路地には若い男や女があちこちで座り込んでいる。抱き合ってる奴等もいるし、ゲーゲー吐いてるのもいる。いかにも家出してきた高校生みたいな女二人が肩を寄せあって歩道に座り、ハイネケンの缶を握りしめている。やぼったい格好をした男二人がその女をでかい声で誘っている。俺の車でドライブいかない、アウディーだよ、アウディー。
自動ドアのボタンを押すと店の中の密度の高い空気が表に流れ出す。冷房で冷やされた汗や体臭の匂いに酒やタバコやマリファナの匂いが混じり合っている。ニールが持っていたコロナの瓶を入口に突っ立っている黒人にチェックされる。ムカツク黒人だ。いつも偉そうに仁王立ちしやがって、いつかぶん殴ってやる。細い目とスキンヘッドが暗い店の中に輝く。
カウンター沿いに細い廊下を奥へと進む。男やら女やらオカマやらがぎっしり詰まっているのでなかなか奥に進めない。耳の後ろの痺れがふっとぶほどのデカイ音で、QueenのWe will Rock Youが流れている。カウンターの中からデーブが手を上げてこちらに笑顔を作っている。前歯が欠けているのは先々週黒人の客に殴られたからだ。
まだ1時半なのに、もうカウンターの上に昇って腰を振ってる女がいる。けばけばしい髪形の日本人の女2人。折れそうなハイヒールでカウンターの上で踊る。タイトスカートの中味をちらちら見せ付けながら、甘ったるい香水の匂いをまき散らしている。踊っている女の足元には、インド人が4人群がっている。需要と供給のバランスが悪いらしい。女達は白人の男を求めているが、群がるのはイラン人やインド人が圧倒的に多い。
ようやく一番奥まで辿り着く。まるで豊島園の流れるプールにいるみたいだ。踊るというよりは満員電車の中でゆられていると言ったほうが近い。白人の店員がやってきて注文を聞く。俺はテキーラを注文した。こんな店員初めて見た。新入りなんだろう。俺達にチップをよこせと空き缶をテーブルの上でガンガンと鳴らす。うるせえよ、と俺が言う。カウンターの中からデーブがニコニコ笑いながらやってきて、新入りの肩を叩き、これがトムだよ、と俺のことを紹介する。ケビン達は白人の店員のことを完全に無視していた。
音楽がLenny Kravitzに変わってフロアーが一層混雑する。俺はテキーラのグラスを手に持ったまま目を閉じて静かに体を揺らす。クラックでいかれていた体の中の組織が少しずつ生き返るように、温かい汗が滲んでくる。テキーラを一気に飲み干すと、口の中に残っていたすっぱい匂いが消え、後頭部の痺れも消えた。俺はテキーラをもう一杯注文した。
体をほぐすように軽く踊っていると、奥のテーブルに座っている2人連れの女のうちの1人と何度か目が合った。まだ体がだるいので、特にモーションはかけずに時折目で相手を追っていると、やがて女は席を立ち、フロアーで踊っている連中に揉みくちゃにされながら俺のところへやってきた。曲はAltern8の「Activ8」に変わった。ここはジュリアナかよ。
「あなた、さっき道端にひっくり返ってたでしょう」女はニコリともせずに俺の目をじっと見て言った。轟音に包まれているので、お互いに顔を近付け、怒鳴るようにしないと聞き取れない。
「ああ、Pipsの前のとこでな」俺は答えた。
「酔っ払ってたの」女は引き続き真顔で言った。
「ラリってたんだよ。クスリだよクスリ、わかるか」
「良く分からないけど。わたし、あなた死んじゃってるんじゃないかって思って心配したのよ。でもトモコが相手にしちゃダメだって言うから」女はそう言って友達の方を振り向いた。奥のテーブルから女がこちらに手を振っている。薄暗いので顔は良く見えない。
「クスリって気持ち良くなるんじゃないの?」
「ああ」
「じゃあ、さっきも気持ち良くて倒れてたの」
「ああ、あんまり気持ちいいんで、ぶっ倒れたんだよ。昇天だよ、昇天」
「ふーん。ねえ、わたしもやってみたい、クスリ」
「もうないよ。あんまり気持ちいいから、全部やっちゃったよ。やりたいんだったら自分で買えよ」
「でもそういうのって、ヤクザとかから買うんでしょう。なんかヤだ、そう言うの。それに高そうだし」
「買う度胸もないようなヤツにクスリやってもらいたくないね」
俺がそう言って笑うと女も釣られて笑った。何か飲むかと女に聞くと、ウォッカが欲しいと言った。「わたし、アヤコっていうんだよ」女はウォッカのグラスを両手で持って言った。曲がWild Cherryに変わった。俺は体がむずむずしてきた。俺の大好きな「Play that Funky Music」だ。
「踊ろうか」
「うん。で、あなたの名前は?」
「あだ名はトムっていうんだ。これでいいだろ」
「顔は全然トムって感じじゃないけどね」アヤコはそう言って笑った。
俺とアヤコはWild Cherryのビートに乗って踊った。アヤコはえらく踊りがうまくて、俺は驚いた。ぎゅうぎゅう詰めのフロアーで赤や青のライトを浴びながら、アヤコは小気味よく踊った。俺は彼女の踊る姿を眺めているのが楽しくて、4曲も続けて踊ってしまった。体中から汗がしたたり落ちて、Tシャツを濡らした。アヤコの首筋にも汗がキラキラと光っていた。今アヤコの首筋に唇を寄せたら、きっと女の匂いと汗の匂いでいっぱいになるんだろうと考えると、俺の股間が熱を帯び始めた。俺は気持ちを鎮めようと、カウンターでテキーラを注文した。ニール達の姿が見当たらない。俺が女と一緒にいるから、気を利かせて出てったのか、それともどこかで女を口説いているのか。アヤコがやってきてウォッカを注文する。額に汗を光らせながら赤いマニキュアの爪でグラスを持ち、一気に流し込む。メンソールの細いタバコに火をつける。俺が「どこか店を換えてもう少し飲もうか」と言った瞬間に、俺の目の前に背の低い黒人の若い男が吹っ飛んできた。黒人の男のちりちりの頭が俺の肩に強くぶつかり、そのまま男はずるずると崩れた。黒い唇の脇が裂け、血が流れている。悲鳴が上がり客が遠巻きに輪を作る。背の高い白人が仁王立ちになっていて、座り込んだ黒人の顔を思い切り蹴り上げた。脚がしなるように黒人の顎にめり込み、黒人は「きゅっ」という妙な音を口から発して血を吐き、床の上に倒れた。俺はアヤコの肩を抱いてカウンター沿いに入口に向かった。顔を真っ赤に紅潮させた白人の男はそれでもまだ黒人の腹を蹴っている。デーブと黒人の店員が満員の客をかき分けて白人の男に向かっていく。俺達とすれ違う。すれ違いざまに「うんざりだな」と俺が言うと、「ホントにうんざりだ」とデーブは口を歪ませて笑った。
店を出る前にアヤコの顔を覗き込むと、青ざめて震えていた。人並みを掻き分けるように何とか店から出ると、むっとする湿気が俺達を包み込んだ。俺は気分が悪くなり、こめかみに指を当てて歩道に座り込んだ。アヤコが隣にきた。俺達はタバコを一本ずつ吸い、しばらく呆然と行き止まりの路地にたむろする連中を眺めていた。
「さて、どっかでもうちょっと飲み直すか」俺が言った。
「ねえ、今何時なのかしら」アヤコが目を伏せたまま静かに言った。大音響の中に長い時間いたので耳の奥が金属音の残響で満たされていて、アヤコの言葉が遠くから聞えてくるような気がしたが、その言葉は俺の耳にしっかりと突き刺さった。この女は時間を気にしている。もう家に帰ることを考えている。体についた汗が冷えるような気がして、俺は肩をすくめた。俺はハンバーガーインの店の中に掛かっている時計を見ようと外苑東通りまでよろよろと歩いていった。通りには始発を待つ行き場のない若い女やヤクザ者が当てもなくフラフラと彷徨っている。東の空には東京タワーが黒く聳え、両側のビルの群れを裂くかのように外苑東通りが東京タワーへと向かっている。東京タワーの向こう側の空が微かに蒼く色づき始めている。もうすぐ夜明けがやってくる。車のヘッドライトの列が熱帯夜の終わりを告げるかのように俺の目に飛び込んでくる。磯部焼き屋の屋台のオッサンが帰り支度を始めている。ダブルのスーツを着込んだサラリーマンがカバンを大事そうに抱き締めたまま路肩で吐いている。濃密で短い真夏の夜が終わり、再びぎらぎらと輝く太陽が眠りから覚めようとしている。俺が自由でいられる時間が終わろうとしている。昼間の太陽は俺から全ての力を奪い去り、俺を閉じ込めてしまう。熱と湿気で俺の全ての器官は腐ってドロドロに溶けてしまう。太陽が昇れば女達は帰り支度を始め、俺を独りぼっちにする。始発電車の轟音は俺をこの街に置き去りにし、甘い熱気もハシシの匂いも全て洗い流してしまう。俺は独りぼっちで太陽が沈み、再び熱帯夜がやってくるのを待たなければならない。俺はこの街に一人で置き去りにされるのは嫌だ。
「もうすぐ4時だ。もう夜が明ける」俺は憮然とアヤコに言った。恐らくこの女は駅で始発待ちして酒と汗の匂いの立ち篭めたぎゅうぎゅう詰めの日比谷線に乗っていなくなってしまうだろう。俺はアヤコの顔をじっと見つめた。ふいに目の裏側に涙があふれてきて俺は驚いた。
「4時かあ。ねえ、Zestだったらまだやってるよね。テキーラ飲んでタコス食べようよ」アヤコは明るく言った。俺は一瞬言葉を失い、そして胸を突き上げる感覚に思わず声を上げて泣いてしまおうかと思った。俺は酔っているんじゃないか、そう思った。
「ただし、一つだけ条件があるの」アヤコは俺の目をじっと見つめながら言った。俺は涙で目がうるんでるのではないかと思って慌てて手首で目をこすった。
「何だよ、条件て」自分の声が震えていないかがひどく気になったが、ちゃんとした自分の声が出てホッとした。
「あなたの本当の名前、教えてくれる?」アヤコは俺の目を覗き込むように言った。
「俺は、夜には本名を言わないんだ」俺はそう言って外苑東通りに向かって歩き始めた。アヤコのパンプスの音がアスファルトの上に響き、俺の腕を掴んだ。
「でも、もう夜は明けるのよ」アヤコが俺の手を引っ張って、東京タワーの向こう側の空を指でさした。ビルの群れを押し潰すような暗闇は姿を消し、東の空は鮮やかな群青に染まっていた。空の手前には照明の落ちた東京タワーがどす黒くそびえ立ち、俺達を見下しているように思えた。俺達は東京タワーに背を向けて、腕を組んで歩き始めた。これから俺達はZestでタコスを食いテキーラを飲み、俺の部屋でセックスして、程よく冷房の効いた部屋でぴったりと肌を寄せたまま眠るだろう。お互いの汗と肉の匂いを胸一杯に吸い込み、コンクリとアスファルトの照り返しに茹だる真夏の太陽に耐えるだろう。俺はそう思うとまた涙が溢れそうになった。アヤコは口笛を吹きながら俺の腕に手を回している。「たみおって言うんだ」俺は交差点を渡りながら小さな声でアヤコに言った。「トムよりもよっぽど良い名前だと思うわ」アヤコの声は小さかったが、首都高の高架を走る車の轟音をはね付けて、しっかりと俺の耳に届いた。「たみおさん」アヤコの声が、朝焼けの空に響いていた。
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