2020年東京五輪・パラリンピックに向けて、政府が基本方針をつくろうとしている。

 国民総参加。復興五輪。そんなスローガンに並んで、気がかりな目標が盛り込まれた。

 「過去最高の金メダル数」を獲得するという。五輪では1964年東京、04年アテネの16個を超す数をめざすことになる。

 日本選手が活躍すれば、もちろん喜ばしい。国内開催だけに大会も盛り上がるだろう。

 ただ、ちょっと立ち止まって考えたい。メダル数の目標を決めるのは、国の役割なのだろうか。自民党が了承し、閣議決定するというが、本来、スポーツは政治から独立しているべきものではないのか。

 選手強化に多額の公的資金を投じるからには成果を求めたいという気持ちもわかる。とはいえ、五輪の成果をメダルの数に託すのは、政府が率先してメダル主義に走るのに等しい。

 スポーツの価値は自発的に目標をさだめ、継続的に努力する過程にある。勝っても敗れても心を揺さぶられるのは、精いっぱいのプレーとその裏にある苦労に思いをはせるからだ。

 もちろん大会の成功に、国の支援は欠かせない。しかしそれは、選手が力を身につけるための環境づくりや、施設の整備、安全の確保、禁止薬物対策などの分野で示せばいいことだ。

 スポーツは近年、国策化の一途をたどっている。遠藤利明五輪担当相(当時は文科副大臣)の私的諮問機関が07年、トップスポーツは国家戦略とすべきだという報告書をまとめた。

 これを受けて自民党のスポーツ立国調査会も同じ趣旨の提言をした。日本人の活躍で「国際社会でのわが国のプレゼンス」向上が期待できるとしている。

 国威発揚をめざす動きの末に今年10月、スポーツ庁が発足した。選手強化費も増えている。

 財政的な支援を得たいスポーツ界はこの動きを歓迎し、むしろ意欲的に国の関与を求めてきた。その結果、自らの独立性をあやふやにし、国の発言力を高めてしまった。

 目標はけっこうだが、それはスポーツ界自らが、各競技ごとの現在の成績や、めざすべき水準を考えて決めればいい。政府がスポーツを国の広告塔にして介入するようでは、大会の意義が見失われてしまう。

 選手たちが競技場で織りなすドラマに触発されて市民スポーツが裾野を広げるのも、また五輪の大きな効能だろう。

 勝利だけでは語れないスポーツと人間の関係を、今後5年間でじっくり考えてみたい。