歴史に対する憧れと深い知識を持ったアイドルの養成所。
それが日本史研究の殿堂高橋歴史女学館である。
(喊声)明治維新によって国民は地租改正や徴兵制などでさまざまな負担を課せられました。
しかし国民が政治に参加する権利はなく国会開設を求める声が全国で高まっていきます。
これが…今回の時代は…今回押さえるべき「三つの要」は…日本の国会開設はどのように進められたのでしょうか。
日本史研究の殿堂高橋歴史女学館へようこそ。
今日は明治時代。
日本の国会が生まれたのが明治です。
国会はもちろんみんな知ってますよね?政治家が国の政策について話し合いをするところですよね。
その政治家は国民が選挙で投票して選んだ人たちです。
総選挙なら私たちもやってます。
あっそうですね。
国会は国民の声を反映して国の在り方を話し合う場所です。
明治政府発足の時に発表した基本方針。
これご覧下さい。
こう書いてあります。
会議の開設つまり国会の事ですね。
ところが国会の開設には長〜い時間がかかりました。
そこで起こったのが自由民権運動です。
では「三つの要」に沿って見ていこう。
その一。
1873年政府内で朝鮮に対する政策を巡り対立が起きます。
この政策の最終決定は話し合いによる合議ではなく大久保利通らの工作によって決着しました。
この決着に反発して政府を去ったのが西郷隆盛と土佐藩出身の板垣退助です。
板垣は政府を批判して1874年「民撰議院設立の建白書」を政府に提出します。
政府の実権が薩摩長州など一部の藩出身の官僚に握られている事を批判し国民の声を反映する民撰議院すなわち選挙による国会を開設すべきだと訴えたのです。
この建白書は新聞に掲載されて大きな反響を呼び国会開設を求める動きが広まりました。
自由民権運動の始まりです。
1874年板垣は故郷の高知市で政治結社立志社を設立。
学校を造り自由と権利という考え方を民衆に教えます。
民権運動の担い手民権派は増え続け各地に政治的結社が結成されます。
1875年には全国的な連合組織愛国社が創立されました。
一方明治6年の政変で政府を去った西郷隆盛は武力による反乱を起こします。
それまでの特権を奪われた士族たちは政府に対する不満を募らせていました。
しかし西郷たちは敗れます。
武力では政府に勝てないと考えた士族たちの反政府運動は言論による自由民権運動へと変わっていきます。
板垣退助ら民権派が積極的に行ったのが演説会です。
日本各地を回り自由や権利について分かりやすい言葉で人々に語りかけました。
こうした演説会を続ける事で自由民権の結社数は全国で2,000を超えるまでになりました。
これに対し政府は弾圧政策を行います。
新聞や雑誌の発行は政府の許可を得なければならないとし更には政府によって新聞雑誌の停止禁止ができるようになります。
フランスの画家…左は警官右は新聞記者たち。
政府の弾圧の様子を描いています。
政府は更に集会条例を制定し政治に関する演説会を許可制にします。
集会には警察官が立ち会い内容によっては中止や解散を命じる事ができるようにしました。
条例によって板垣らの集会には認可が下りなくなります。
更に板垣はある日の演説後暴漢に襲われます。
重傷を負いながらも板垣はこう言ったと伝えられています。
この言葉は人々の間に「自由」という言葉を浸透させ国会開設運動を加速させていったのです。
(3人)・「オッペケペーオッペケペーオッペケペッポーペッポッポー」・「オッペケペーオッペケペーオッペケペッポーペッポッポー」
(3人)イエ〜イ!いやいやいや〜。
今みんなが歌ってくれたのが「オッペケペー節」という自由民権運動の歌です。
演説が禁止されてからはこうした歌で運動を広めたんだね。
ちなみにこうした歌を演歌といいます。
(3人)演歌?こぶし!え?いやいやこれじゃないのよ。
明治時代演説歌の事を演歌とこう呼んでいたんですね。
おおなるほど。
演説歌ですね。
館長。
運動が広がると政府も黙って見ていられないんじゃないですか?そのとおりなんです。
国会開設に向けて政府も動き出します。
では「三つの要」その二。
自由民権運動が盛り上がりを見せていた頃政府内では国会開設を巡って対立が生じていました。
長州出身の伊藤博文と肥前出身の大隈重信です。
伊藤は十分な時間をかけて国会を開設すべきだとしていましたが大隈は国会の即時開設を主張。
この対立は一つの政変へと発展していきます。
そのきっかけとなったのが…開拓使とは明治政府が北海道の開拓をするために置いた役所です。
当時の開拓長官黒田清隆によって事件は始まります。
黒田は10年計画で進めてきた開拓事業が終わるに当たり国が所有していた農場や工場などの官有物を驚くほど安い額で自分と同じ薩摩藩出身の企業に払い下げようとしたのです。
およそ1,500万円を投じた官有物を38万円余りで払い下げしかも30年間無利子で分割払いを許すというものでした。
この内容が新聞に載ると民権派は反発。
すぐに国会を開くべきだと政府を激しく攻撃しました。
この事件を利用したのが伊藤博文です。
払い下げの中止を決める一方で国会の開設などで対立を深めていた大隈を民権派と手を結んでいるとして政府から追放したのです。
これが明治十四年の政変です。
その上で伊藤は次の手を打ちます。
国会開設の勅諭を出したのです。
これによって10年後に国会を開く事を約束しました。
時間を置く事で事態の収拾を図り国会開設が民権派の主導によって行われる事を避けようとしたのです。
さあ国会が出来ると決まれば次は政党作りです。
81年民権派は板垣退助を党首に自由党を設立。
来るべき国会開設に備えます。
82年政府を追われた大隈重信が作ったのが立憲改進党です。
慌てた政府は政府寄りの政党立憲帝政党を結成しますが僅か1年で解散。
流れは民権運動側が優位になっていきます。
ふ〜ん。
でも政党も出来て民権運動はどんどん盛り上がっていくんですね館長。
実は逆に盛り下がっちゃいました。
(3人)え〜!何でだろう。
その理由は…「三つの要」その三。
当時国は深刻な財政難に陥っていました。
これに対応したのが現在の財務大臣に当たる大蔵卿の松方正義です。
松方は増税や官営事業の払い下げによる歳入増加と歳出の切り詰めを行い全体で黒字になった分出回っていた紙幣を回収するデフレ政策をとりました。
これによって物価は下がりました。
しかし社会は深刻な不況に陥ってしまいます。
特に…このため多くの農民が没落します。
そこで地方の自由党員と農民による反対運動が各地で展開されました。
その一つが秩父事件です。
埼玉県秩父地方の…耕地が少ない山あいの町で当時はほとんどが養蚕農家でした。
そのため生糸の値段が暴落すると農民たちは高利貸しから借金をしてなんとか暮らしをつないでいました。
この地に古くから建つ…自由党員を指導者とする農民の組織秩父困民党は1884年10月31日ここで決起しました。
困民党の要求は…この4つでした。
11月2日秩父の中心地を見下ろす音楽寺に3,000人ともいわれる農民が集まりました。
(鐘の音)彼らは鐘の音を合図に町になだれ込みます。
(喊声)そして高利貸し数軒を打ち壊し役場や警察署裁判所を占拠し書類を焼き捨てるなどしました。
しかし騒動は政府が派遣した軍隊地元の自警団によって鎮圧されました。
そして困民党本部も僅か1週間ほどで解体し事件は終わりを告げました。
これは困民党が裕福な商人や豪農などに軍用資金を出させた領収書の一つです。
このあと彼らは運動の激化に不安を抱き民権運動から離れていきます。
運動が過激になってかえって支持をなくしてしまったんですね。
私も暴力は嫌いです。
そうですよね。
それに暴力というのは権力の介入の格好の口実になってしまいますからね。
館長。
民権運動が衰退して国会開設は中止になってしまうんですか?いやいやいや。
このあといよいよ国会が開催します。
そして国会以外にも足りなかった大事なものが満を持して作られるんですよ。
(3人)え?何だろう。
さあ何でしょうか。
それは次回のお楽しみ。
何だ〜。
気になる〜。
早く知りたい。
今回自由民権運動について学んできましたが季武先生にご登場頂きます。
(一同)よろしくお願いします。
まずAKBの皆さんは明治時代の自由ってどんな事だったと思いますか?
(季武)なるほど。
正解は好きな事をするという事です。
ピンポン!こみすごい!例えば皆さんが学校の先生や親からああしろだのこうしろだのと強制されて「そんなのやだ!」っていうのが自由というふうに思ってる人が多いんじゃないかな。
あ〜確かに。
それに対しまして当時の人々は江戸時代までの窮屈な身分制社会から解放されてさあ自由になったんだから何でもするぞというチャレンジ精神が旺盛だったんですね。
それまでずっと抑えつけられていたからそれがふわっと開いた瞬間の解放感ですね。
そうですね。
それが非常に大きかったんですね。
じゃあ自由になったからといって当時の人たちは一体何したんでしょう。
分かんない。
そうね。
そうです。
政治です。
江戸時代は政治は武士たちが独占していました。
それが明治になって自由になったから参加する事ができるようになった。
はいそうです。
当時の人たちは自由になって1人で何かやるっていうんじゃなくて大体は仲間と一緒になっていろんなものに取り組んでいました。
AKBみたいですね。
あっ確かに。
本当だ。
グループ活動か。
そういうサークルが…いろんな種類のいろんなサークルがたくさん出てきたんです。
勉強したい人のグループ。
それから仕事をする人のグループ。
あるいは遊びのためのグループ。
そしてもちろん政治のためのグループもありました。
へ〜え。
すごいね。
板垣退助たち…へえ〜。
でも全国回るのって新幹線や飛行機とかないから大変なんじゃないですか?そうです。
そこで重要な役割を果たしたのがメディアなんです。
メディアっていいますと新聞が真っ先に思いつきますけども先ほどの「オッペケペー節」じゃありませんけども歌や芝居やあるいは講談なんかも重要です。
このほかにも懇親会というのがありました。
これは自由民権派の弁士たちが堅苦しい政治の演説をするんですけどもそれと同時に…ちょっとAKBの握手会とかに似てるね。
ああ確かに。
イベントみたい。
こうして自由となった事から各地域で生まれたエネルギーとそして板垣退助のような民権派の政治家の活動が結合して自由民権運動は一大国民運動になったんです。
はあ〜。
すごい。
(一同)ありがとうございました。
館長。
今度は私たちも演説歌にチャレンジしたいです。
えっ?演説歌?演説歌!いやしかしAKBにはちょっと合わんでしょ。
いやいや大丈夫です。
カモ〜ン。
せ〜の。
(「会いたかった」の替え歌で)・「オッペケペーオッペケペーオッペケペーポ」・「ペペポ」
(3人)イエ〜イ!
(込山)ぴったし。
合うね合う。
会議による合議が行われなかった政府に対し…広がりを見せる自由民権運動の鎮静化を図った政府は…民権運動は貧困にあえぐ農民たちの不満と結びつき過激な一揆へと発展。
このため…2015/11/20(金) 14:00〜14:20
NHKEテレ1大阪
NHK高校講座 日本史「自由民権運動」[字]
日本の今は、誰が、どのように作り上げたのか? 日本史研究の殿堂、高橋歴史女学館がその謎に迫る。出演:高橋英樹・AKB48(向井地美音、土保瑞希、込山榛香)
詳細情報
番組内容
明治新政府は「徴兵制」や「地租改正」などによって国民にさまざまな義務を課した。しかし国政は雄藩出身の一握りの者が握る状態が続いていた。これに対して1874年頃から、国民の政治参加を求める機運が高まった。これが「自由民権運動」である。運動の高まりを見た政府は「国会開設の勅諭」を出して1880年に国会を開くと公約する。自由民権運動がどのようにして全国に広まり、そして政府を動かしていったのかを考える。
出演者
【司会】高橋英樹,【出演】土保瑞希,向井地美音,込山榛香,【講師】創価大学教授…季武嘉也,【語り】杉村理加
ジャンル :
趣味/教育 – 中学生・高校生
趣味/教育 – 大学生・受験
趣味/教育 – 生涯教育・資格
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