ファミリーヒストリー「塚地武雅〜謎の防火水槽 父が遺(のこ)した言葉〜」 2015.11.20


結婚さして下さい。
させる訳ないやろがいえ!ある時は役者。
ある時はお笑いコンビドランクドラゴン。
またある時は…。
イカ大王だ!塚地武雅43歳。
そのマルチな才能でテレビに映画に引っ張りだこの人気芸人です。
自らのルーツを知りたいと思い始めたのにはある訳がありました。
今年2月父武志さんががんで亡くなったのです。
おやじが下手したら知りたかった事なのかも分からへんしお父さんがこの番組をなんかこう…引き寄せてくれたんじゃないかみたいな。
運命に導かれた「ファミリーヒストリー」。
武雅さんには子供の頃からずっと気になっていた事がありました。
両方ともいなかったのが多分大きかったと思うんですよね。
つらかったんじゃないかなとかなんか勝手に多分深読みして…。
顔も知らない2人の祖父。
取材から浮かび上がってきたのは苦しい時代を頑固に生き抜いた家族の姿。
貫かれた覚悟がありました。
「二度と帰ってこんでいいから出ていきなさい」。
勘当同然で飛び込んだお笑いの世界。
父が最後に残した言葉とは?取材の結果を知る日がやって来ました。
ここをこうこうこう。
そういう空気じゃなさそうですね。
ドランクドラゴン塚地武雅のルーツが今明らかになります。
高知県黒潮町入野。
塚地武雅の父武志のふるさとです。
この日はお盆の墓参り。
塚地家は先祖代々この土地で暮らしてきました。
全国的にも珍しい「塚地」という名字。
家族はこれまで同じ名字の人に会った事がありません。
塚地家の記録をたどると江戸時代に遡ります。
代々左官の仕事をしてきた家柄。
「塚地」を名乗ったのは明治に入ってからの事です。
それこそここらかな。
ああそやね。
かつて塚地家があった場所を案内してもらいました。
「塚地」と付けたんじゃないかな。
家の近くにあったという塚。
江戸時代街道沿いには旅の目印となる一里塚がありました。
これは中世以降の土佐の歴史をまとめた資料。
そこに一里塚の記録を見つけました。
かつて造り酒屋の東にあった一里塚。
この塚こそ塚地の名の由来です。
塚地家の歴史はここから始まりました。
これは大正時代の写真。
真ん中に座っているのは塚地藤吉。
武雅の祖父です。
腕利きの左官屋として職人たちを束ねていた藤吉。
しかし有名なのには別の訳がありました。
乾杯。
藤吉は地元では有名な大酒飲みでした。
うまい。
うん。
うまい。
うまい。
塚地ですね。
一樽ですよ。
一升瓶なんてちゃちなものはないもん。
ふだんね飲んでない時にへまやるかちょっと子供に気に入らん事があっても何も言わないわけ。
飲んだ時にそいつが全部出てくるわけ。
「この前お前はこうこうやった。
この前お前はこうこうやった」。
それから始まってなんか知らんけど怒られたねぇ。
ふだんは面倒見のよい親分肌。
しかし一たびお酒が入ると説教やけんかが始まりました。
持ち前の頑固さに加え酒で理屈っぽくなった藤吉は手がつけられませんでした。
頑固で大酒飲み。
その性格は親から子へと受け継がれました。
(取材者)お酒は結構飲まれるんですか?そうですね。
好きな方ですね。
結構飲みに行ったりはする感じですね。
俺のおやじのイメージは酒癖悪いんですよとにかく。
酔っ払って必ずけんかしてるんですよ。
大体おやじからその人に対する悪口を言ってて…。
酒癖は悪くとも左官の腕には自信があった藤吉。
昭和10年家族や弟子たちを連れて大阪で新たな仕事を始めます。
当時の町の様子を覚えている人がいました。
82歳です。
そうよ。
これを作って売りよったのよ。
防火用水槽言うてねこの水槽を作って売っておやじもうけたわけよ。
戦時中空襲に備え各家に置かれた防火水槽。
脇には「塚地製」と書かれています。
防火水槽の販売が軌道に乗り始めた昭和16年。
塚地家に3人目の男の子が生まれました。
武志武雅の父です。
50歳の時に生まれた息子を藤吉は大層かわいがりました。
「武士」に「志」まで付けちゅうけんね。
おやじう〜んう〜んこれよねこんちくしょう。
しかし武志誕生の8か月後太平洋戦争が勃発。
昭和19年には大阪の上空にもB29が現れました。
これじゃない?あった〜。
これが藤吉。
(取材者)酔っ払ってるんですか?…と思いますね。
ちょっとまっすぐじゃないですね。
おやじはね写真酔うたらかなり斜めになっちゅうけん。
懐かしいなこの斜めの藤吉。
涙が出る。
戦時中も大好きな酒をやめなかった藤吉。
酔いが回ると思った事がポロポロと口からこぼれ出ました。
おやじがね……言うたわけ。
おやじの口押さえたわ。
「憲兵に聞かれたらしまいで」言うて。
すごいとは思わんけどおやじのなんじゃろうね…。
空襲が激しさを増してきた昭和20年。
藤吉が仕事中に屋根から落ちて大けがをしました。
もう働く事はできませんでした。
家族は大阪を離れます。
戦後は高知で静かに暮らした藤吉。
昭和28年63歳でその生涯を終えました。
終戦から70年。
かつて塚地家が暮らした大阪で藤吉の作った防火水槽を探しました。
戦時中のなおとうさん古いやろ。
おとうさん古うないわ。
「こういうの知らんか」言うねん。
あそこの角っこにあんねや。
あんの?地元の人が心当たりの防火水槽を教えてくれました。
(取材者)ほんとですね。
よう似てますでしょう。
ねえこれ形がここらがね。
花壇の代わりとなった防火水槽。
「塚地製」という文字は消えていますが形はそっくりです。
壊しちゃいかんねぇ…。
(取材者)でも70年たってまだあるっていうのが…。
あっ今あるんですか?これが。
(取材者)これ今の写真です。
えっ?うわっ!そんなら自慢していいね。
恥ずかしがらなくていいね。
そうか。
まだあるのか。
70年もたって塚地製は大したもんだ。
大阪の下町に今も残る塚地藤吉の生きた証しです。
何より顔がおとんにそっくりでちょっとびっくりしてますね。
なんかいい主人公ですよねおじいちゃん。
見応えのある…いいドラマの主人公の気がしましたね。
「こんな事を戦時中言うんや」とか斜めに立つとか酔っ払うと。
いいっすねこの防火水槽とかも。
塚地製って…。
まだ俺塚地製のなんか作ってませんもん。
これすごいな〜。
ほんまにおとんにそっくりやわ。
塚地武雅の父武志のふるさと高知入野の海です。
武志は子供の頃毎日のように弟と海で遊びました。
かつて家族の暮らした家が今も残っています。
久しぶり。
しかし2人ともなかなか眠れませんでした。
それには訳が…。
藤吉の死後暮らしを支えたのは妻のヒサコでした。
ヒサコが始めた商売は居酒屋だけではありません。
お好み焼きに…夏はかき氷。
時には少々むちゃもしました。
まことそれもしよった。
食うためにはという感じやったねヒサコさんは。
何でもやった。
たくましかったね。
まあ弱音吐いたのは聞いた事がない。
なんぼ貧乏しても金が無かっても。
明日は明日の風が吹く。
そんなお母ちゃんでした。
武雅の父武志も母の働く姿を見て大きくなりました。
地元の高校を卒業後大阪に出て大手製鉄所に就職した武志。
アルバムの余白に当時の思いがつづられていました。
ふるさとの海に武志が重ねた生きざま。
その姿はいつもたくましく生きる力にあふれていました。
昭和56年母ヒサコは75歳で亡くなりました。
晩年楽しみにしていた事があります。
それは大阪に暮らす息子が孫を連れて帰ってくる事。
特大のかき氷を作って孫を迎えました。
藤吉とヒサコ。
2人の位はいは入野に暮らす長男が守っています。
92歳。
あ武志まだおる。
分骨してね分骨して武志ここへおる。
今年2月大阪で亡くなった弟の武志さん。
遺骨がふるさとに帰ってきました。
うん…帰ってきた。
(鈴を鳴らす音)亡くなった家族に俊雄さんは朝昼晩の3回手を合わせます。
末期の胃がんだった武志さん。
兄弟3人で大阪に見舞いに行った時武志さんはこう話したといいます。
「もう一度家族で高知に行きたい」。
生涯武志さんの心の中にあり続けた景色。
高知入野の海です。
そうですかここでそうですねばあちゃんとうちのおやじの…。
闘病中とかも「海見たいな」みたいな話はようしてましたね。
うちのおやじも武骨な感じやしまあ無口でしたし…。
でもまあ男らしい頼りがいのある感じみたいなのは受け継いでたのかもしれませんね。
大阪府阪南市。
ドランクドラゴン塚地武雅が育った町です。
24歳の時お笑い芸人を目指し上京した武雅。
家族が反対する中一人だけ応援してくれた人がいます。
おばあちゃんは「武雅やったら大丈夫やと思うよ」みたいな事言ってくれてたんですよ。
実家帰ったりするとおばあちゃんいつも泣いて出迎えてくれて「あれ見たこれ見た」って言ってもう握手してくるぐらい。
それがうれしかったのもありますしもっと頑張りたいなと思いましたし…。
2年前に亡くなった母方の祖母イサコ。
晩年イサコは武雅の実家で暮らしました。
塚地武雅母方のルーツ曽木家。
母のきょうだいは皆大阪近郊に暮らしています。
わっうちだ。
こんにちは。
曽木家の話を伺うこの日きょうだいが集まってくれました。
結婚した時士族と平民の差を…差別受けたいうのだけは母から聞いて。
それぐらいです。
母が嫁いだ時おじいちゃんはちょんまげで羽織はかまで日本刀を抱いていろんなお仕事なさってたって。
それどこで言われたんか知らないけど覚えてるな。
塚地武雅の祖母イサコはどんな人生を送ったのか。
鹿児島の西40キロに浮かぶ甑島。
山と海に囲まれた瀬々野浦地区です。
大正7年イサコはこの村の農家に生まれました。
イサコの妹が今も甑島に暮らしています。
92歳です。
ヒシカヒシミ…。
イサコナルコおいコキコフエコホシコ。
7人やったと。
うん。
これに男が2人。
ですから9人。
トチ子さんに昔のアルバムを見せてもらいました。
これ…。
これがイサコ姉やなかと?知らん。
(取材者)それイサコさんですか?10代のイサコを見つけました。
当時イサコは出稼ぎに出ていました。
向かった先は大阪。
岸和田の歯科医院に住み込みで働きました。
最初は看護婦さんいうて行ったけど結局家事一般…。
家事一般的な事を…。
させられてたまたま藤正も鹿児島でっていって意気投合してつきあった。
ここでイサコは2歳年下の男性に出会います。
同じ甑島の出身でした。
歯科医院を営んでいたのは藤正の姉ソノエでした。
藤正は高校卒業後姉のもとで技士として働いていました。
大阪で恋に落ちた藤正とイサコ。
やがて結婚を誓い合った2人はふるさと甑島に帰ります。
島の南端藤正が生まれ育った手打地区です。
大阪から帰った2人を待っていたのは家柄の違いによる差別でした。
曽木家はもともと士族の家柄。
薩摩藩に仕えていました。
甑島に来たのは今から400年前に遡ります。
これは江戸時代後期に薩摩藩が編さんした資料。
甑島の歴史の中にこんな記述がありました。
「曽木甚右衛門をして甑島の代官たらしむ」。
1595年代官として甑島にやって来た曽木甚右衛門。
藤正はその末裔に当たります。
ほらもうあいてしまって…。
かつて曽木家が暮らした家を近所の人が教えてくれました。
ここですけどほらもう茂って入られん。
こんななってしまってね…。
農家の出だったイサコが曽木家に嫁いだのは昭和15年の事。
昭和22年には武雅の母良子が生まれます。
記憶の中の母はいつも笑っていました。
当時のイサコをよく覚えている人がいます。
96歳。
近所に住んでいました。
イサコさん?優しい人だったよ。
忘れられんどそれが。
イサコが曽木家に嫁に来て10年。
家族は甑島を離れ本土に引っ越します。
子供の学校や将来の事を考えた末の決断でした。
家族が暮らしていた家に今は良子さんたちのいとこが住んでいます。
あっこれてっちゃん?いやてっちゃん!面影ある!顔変わってへんやん。
(一同)中?はいはいはい。
お仏壇やな。
ああガラッと変わってる。
新たな生活が始まりました。
しかしそこに父藤正の姿はありませんでした。
野良仕事を嫌った藤正は再び大阪へ出て歯科技工士として働き始めたのです。
親子が会うのは盆と正月だけ。
それでも子供たちは父の帰りを心待ちにしました。
うれしかったよね。
そらもちろんな。
とりあえず土産がうれしかった。
ほんまに。
もう全然ちゃうねんそこらの人と。
何ですかねあれにおいといい。
においは特に言うてるな。
ものすごい覚えてるの。
大阪に行ったらこんなにすてきになれるんかなって思うような。
かっこよかったよね。
かっこよかったですよ。
結構あのあか抜けしてたと思う。
(良子)あか抜けしてた。
大阪で再び家族が共に暮らし始めたのは10年後の事。
しかし離れ離れだった時間は夫婦の間に埋めがたい溝をつくっていました。
おかんと行くって言うても…。
うんうん覚えてるよ。
父は一人家を出ました。
親子が再会したのは20年後。
その時にはもう藤正の意識はありませんでした。
藤正が家を出たあとも家族は大阪に残りました。
でも「田舎にもう帰ろう」って言うた時母に出ていった時ね。
「もう帰ろうよ。
おうちもあるし田畑もあるし向こうでゆっくり…」「嫌」言うたもんね。
「絶対嫌!どんな顔して帰るのよ!」と言うて母が怒ったの。
やっぱ意地かね。
意地なんやろうね。
「どんな顔して今更あの田舎に帰れるの」。
すごい決心で出てきたんやと思うねんな。
多分それをもう覆すなんてできないみたいな。
あっ身分証明とかの…。
(一同)あ〜写真!イサコのアルバムに仕事を探していた時の写真がありました。
繊維会社の社員となったイサコは朝から晩まで働きます。
生活費に子供の学費。
お金はいくらあっても足りませんでした。
どんなんして得たんやろねお金。
私田舎の田畑とか売ってたんかなと思ったりもする時もあった。
そやからものすごく感謝してる。
だから子供のために一生懸命やってきはった人やろね。
それだけ考えて働いていたんやろな。
せやのになぁ何もせんで何もする事なく終わっちゃって。
別れちゃったけどねお別れしたけどね。
忙しい日々の中で母が作ってくれたごちそうがありました。
甑島の混ぜ御飯です。
おふくろの味やもんな。
懐かしい思い出話の合間にふるさとの味を頂きます。
うん!おいしい。
ああこの味やなぁ。
うんおいしいおいしい。
うまい。
いろんな具入ってるからな。
そろって食べるなんてね…。
おかげさまやな。
おばあちゃんのおかげやね。
平成25年8月イサコはふるさとから遠く離れた大阪で亡くなりました。
94歳。
夫と別れたあとも曽木の名字を捨てる事はありませんでした。
「私はもう曽木で死にたいし曽木のままでいたいから」というのはいつも言ってたんで。
何でかいうのは母しか分からなかったね。
それを私たちに説明する事もなかったからね。
「私は一生死ぬまで曽木でいたい」っていって言ったからね。
22歳の時曽木家の嫁となったイサコ。
かつて家族が暮らした甑島の家にイサコの決意が刻まれていました。
(良子)ああほんとだね曽木って書いてある。
ああ…!でもこれって母の字に似てない?ああ書いたんかなぁ…。
(良子)おばあちゃんの字そのものやわ。
書いたんやなぁ。
うんすごい。
旧士族の家に嫁いで72年。
何があっても変わらなかった女の意地がありました。
曽木イサコ頑固に自分の信念を貫いた人生でした。
うん。
僕に至るまでにいろんな…いろんな事乗り越えて僕のところにたどりついてんやなというのをなんか思いましたね。
でもおかんはおじいちゃん似やな。
いろいろあったんでしょうけどいい人やったんやろうなと思っちゃうんすけどねこの笑顔見るかぎり。
会いたかったなとも思いますし。
うん…。
高校卒業後大阪の大手製鉄所に就職した良子さん。
同じ職場の男性から交際を申し込まれました。
そんな言葉すごいじゃありませんか。
聞いた事ない。
自分の事を「小生」って言うからすごい人なんだぁって思って。
どの手紙にも全部「小生」。
「小生」の名は「塚地武志」。
土佐の荒波を見て育った酒が大好きな青年でした。
昭和45年10月20日2人は結婚します。
結婚式のアルバムの1ページ目には大きな四つ葉のクローバー。
主人がしたんだと思います。
これを見つけたら必ずどっかにとじてましたね四つ葉のクローバーを。
別に探したわけではなく偶然見つけたら幸運に恵まれる言うてなんか結構挟んでましたよ。
結婚から1年後四つ葉のクローバーが早速幸せを運んできました。
初めての子供。
父は「強く優しく」という気持ちを込めて「武雅」と名付けました。
廊下でバンザーイバンザーイって言ってる主人の声いまだに覚えてます私。
武雅が生まれた時ね。
「恥ずかしい」と思いながらね。
これは武雅さんが生まれた日の新聞。
昭和46年11月25日木曜日。
息子が生まれた日に何があったのか残しておきたい。
夫のアイデアでした。
(良子)わあリモコンがこの時…。
(取材者)こたつから出なくてもテレビが見れますよ。
(良子)今は考えられへんよね。
塚地家の長男として厳しく育てられた武雅さん。
忘れられない父との思い出があります。
おやじはジャイアンツファンなんですよすげぇ好きで。
で俺が小学校の時に夏に入りかけてるからというのでこれから暑くなるからというので帽子をかぶって外出なさいと帽子を買いに行くというのでおかんと帽子を買いに行ったんです。
当時阪急ブレーブスの球団があってそれの帽子が黒のベースでひさしの部分つばの部分が赤でみたいな。
その色合いにひかれて赤と黒という…。
で同じ黒っぽかったから買って帰ってきたら…。
ラシャ切りばさみでブワーって真っ二つに切られて…。
買ったその日に。
すっごくそれは忘れられませんもんね。
たとえ理不尽であろうと父が駄目と言ったものは駄目でした。
武雅さんは長男として父の期待に応える事ばかり考えてきました。
長男はやっぱしっかりしとかなあかんとか勉強もせなあかんしスポーツもせなあかんみたいな。
言われてきた事結構守ってきてて…。
ほんま最後の最後に反抗したみたいなとこやからぐらい俺の中でこれだけは譲れないみたいなのあったと思うんです。
お笑いやりたいという気持ちは隠したら死ぬ時絶対後悔すんなみたいなとこから「よっしゃいっぺん言ってみよ」みたいになったんで…。
主人と2人で正座してここの部屋で挨拶して「二度と帰ってこんでいいから出ていきなさい」って言われてうん出ていったんですよ。
ああもう俺もう帰れないもんだと思って。
東京出てきて一生帰る機会ないだろうと思って。
毎年そんなに帰らないもう帰る事なくなって…。
親子が会う事はなくなりました。
(良子)「俺はもう絶対許せへん」とか言って。
けど心の中はまた違ったと思うんですよ。
私がやっぱ不安になる時あるじゃありませんか。
「生き残っていけるのかなぁ」とか心配したりしたら「大丈夫大丈夫。
絶対武雅だったら生き残っていける」というのはいつも言ってました。
言葉とは裏腹に息子を信じ続けた父。
そして上京から3年がたったある日の事。
息子はテレビの中にいました。
はいじゃあエントリーナンバーと自己紹介の方をどうぞ。
エントリーサンバーナンバー。
何番だよ!ちょっと緊張しすぎじゃないの?ちょっといいですかね。
こういう場合は…そうだ手のひらに「犬」。
「人」だろ「犬」書いてどうするんだよ。
うちでは飼えないんだよ。
飲み込めよ!何回も見てましたね。
ドラマでも必ず2〜3回は見てましたもんね。
「母さんは見ないんだ」って「私一回見たら十分よ」とか言ってたんですけど主人は何回も見てましたね。
その父が去年5月病に倒れます。
胃がんでした。
医者から「余命半年」と告げられました。
何でしょうねそういう反対もされましたし勘当もされたみたいなところで疎遠な時期もあったりとか憎んだ時期もありましたし…。
生きようと頑張ってる父に朝ドラ決まったっていう話した時も「朝ドラ楽しみやな」って言って待ってくれてて…。
始まるまで頑張ってほしいと思いましたけどそれもかなわずだったんですけど…。
こういう子や!こういう子や!武雅さんが演じたのは大切な娘の結婚を案じ同じ言葉を繰り返す父親。
みのりは…みのりはこういう子ねんぞ一徹!2015年2月3日最期までがんと闘い塚地武志は亡くなりました。
73歳でした。
主人が亡くなる時にお話ができたのは武雅だけなんですよ。
握手して…。
で「俺ももうちょっと頑張ってみるからあんたももっと頑張ってな」とか言って「武雅」って言って「ありがとうね〜」って…。
(鈴の音)良子さんは一度お祈りが終わるともう一度目をつむります。
「どうぞ安らかに眠って下さい。
私たち家族をいろんな災難から守って下さいね」っていうのと「武雅がもっと…有名になりますように」っていうのをいつも祈ってます。
知らなかったおやじの思いみたいなのもこの番組で教えてもらったんでもうただただますます頑張らななぁって。
みんなみんなおじいちゃんもおばあちゃんもおやじもおかんもそのきょうだいの方々もやっぱり誰しも人間苦労して生きてきてるんやなというの分かったからまだまだ頑張らなあかんなって。
「先人」という言い方も変ですがそういう人たちに笑われないように笑わせたいというかなんて言うんでしょうね…。
笑われたくはないですけど笑わす仕事ですから…。
ほんで泣いててどうすんねんって話ですけどこれ見て視聴者どう思うのか分かりませんが先人に笑われないように笑わしていきたいですね。
うん。
なんかうまい事言えたような気がします。
2015/11/20(金) 14:05〜14:55
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「塚地武雅〜謎の防火水槽 父が遺(のこ)した言葉〜」[字][再]

高知で左官をしていた父方の祖父は大酒飲みだが、腕は確かな職人。今回、70年前の仕事の跡が大阪で見つかった。そして、今年2月に亡くなった父。のこした言葉が明らかに

詳細情報
番組内容
お笑いコンビ、ドランクドラゴン塚地武雅さん。顔も知らない二人の祖父のことが謎だった。高知で左官をしていた父方の祖父は大酒飲みだが、腕は確かな職人。戦前、大阪に出た祖父の仕事の跡が70年ぶりに家族の目の前に。一方、母方の祖父は、鹿児島甑(こしき)島出身。薩摩藩に仕えた旧士族の家柄。農家の出だった祖母との身分の差を越えた結婚。そして、今年2月に亡くなった父が遺した言葉。塚地さんは涙を抑えきれなかった。
出演者
【出演】塚地武雅,【語り】余貴美子,大江戸よし々

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:6892(0x1AEC)

カテゴリー: 未分類 | 投稿日: | 投稿者: