(姜聖律〔カン・ソンニュル〕さんのfacebookへのご投稿を転載させていただきました)
ものすごく違和感のある社説だ。
違和感の第一は、「表現の自由」という言葉。朴裕河の著書を名誉棄損とすることは、「歴史の解釈や表現をめぐる学問の自由」の侵害に当たるのか。
例えば「慰安婦と日本軍は基本的に同志的関係にあった」という表現。「同志」という言葉を辞書で引くと、「主義・主張を同じくすること。また、そういう仲間。同じ志の人」とある。
<慰安婦>が侵略戦争を実行した日本軍と、どんな主義・主張を共有したのだと言うのか。仮に結果的にそういう(性的サービスを提供することで侵略戦争に加担する)構造に<慰安婦>が置かれたとしても、それを「同志」と規定することがどれほど当事者を侮辱し、傷つける行為なのか。日本文学を専攻する朴裕河がこの言葉の暴力性に気づかないはずはない。彼女は、そのことを知っているがゆえに、「~的」(それそのものではないが、それに似た性質を持っていることを表す)という接尾辞を付けることで、言葉の暴力性を薄めるレトリックを使ったのかも知れない。
このような性犯罪被害者へのセカンドレイプを「表現の自由」として擁護すべきだという論旨に、たいへん違和感を感じる。
次に、「韓国ではこれまでも日本の過去の問題が関係する事案では、法律論よりも国民感情に流されるかのような捜査や判決があった」と、具体例を示すことなく、いかにも韓国の司法が「反日感情」をもって法を恣意的に解釈しているかのように論じていることだ。
これは一体何のことだろう。日本の言論が関与する最近の事例では、セウォル号事件当時の朴槿恵大統領の行動をめぐる記事で起訴された産経新聞の論説委員の件があるが、あれは「日本の過去の問題」とは関係がない。具体的な例示をしないまま印象だけで論じているこの一文こそが、日本の「国民感情」に流されているものではないか。
「帝国の慰安婦」は本当に「研究者の成果」と言えるのか。日本文学を専攻する学者には<慰安婦>問題を研究する資格がないとは思わないが、朴裕河は、実証的な研究の積み重ねの上にこの著作を発表したのだろうか。
この本の中に書かれている歴史認識や日本社会の分析の杜撰さはいろいろな論考で指摘されている。また、著者が<慰安婦>の聞き取りを支援団体に申し込んだ際のいい加減さについても、「ナヌムの家」が指摘している。
そして、朴裕河自身が認めているように、この本を含む彼女の一連の<慰安婦>関連の著作は、<慰安婦>問題についていわゆる<第三の道>を模索し、「膠着した日韓関係の現状を打開する」という目的で書かれている。
歴史研究に一定の目的意識を持つことは何も悪いことではない。朝鮮近現代史研究の第一人者であった故・梶村秀樹は、自らの歴史研究の目的を、<朝鮮停滞史観>から脱却して「自立した朝鮮民衆像を確立すること」に置いていた。そして彼は、実証的研究を積み重ねて、優れた論考を多数発表した。
しかし、朴裕河は違うと思う。歴史や人権が専攻でない彼女が「多様な<慰安婦>像」を究明し、日本軍と「同志的関係」にあったと規定づけるほどの地道な研究活動を行ったとは到底思えない。この本は、自らの政治目的に合うような<慰安婦>を選択して、それを題材に書いた「小説」のジャンルに入るのではないか。
「帝国の慰安婦」が「研究」であれ「小説」であれ、「表現の自由」は守られるべき基本的人権の一つであるのは間違いないが、この本がある種の政治目的をもって<慰安婦>の人格を貶めることを承知で書かれているとすれば、それは検察が指摘するように、学問の自由を逸脱している。この社説はそこまで掘り下げて書かれているようには読めない。
最後に、僕が最も違和感を感じるのは、過去の国家的犯罪(この本では日本の国家責任を否定している)について、歴史解釈をめぐる被害国内の論争を、加害国の言論が「普遍的人権」を掲げて批評していることだ。
最初の<慰安婦>の存在(裴奉奇ハルモニ)が明らかになって40年、初めて公的に名乗り出て(金学順ハルモニ)25年。いまだにその実像をめぐって韓国国内で論争が起き、刑事事件にまで発展していることを、この社説の筆者はどう考えているのか。「確かに慰安婦問題については実際の総数など、まだ不明な部分も多い」などと、他人事のように論評している場合ではないだろう。
「自由を守る声が広がることを願ってやまない」朝日新聞は、韓国国内の論争をあれこれ批評する前に、自らに加えられている攻撃をはねのけ、加害国の言論の責任として、<慰安婦>問題の真相究明に取り組むべきだ。
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