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ファミコン30週年記念!! 学校では教えてくれないファミコンの歴史!(1983年〜1984年)

ファミコン開発秘話


ファミコン開発スタート!

1980年に横井軍平の「枯れた技術の水平思考」により生み出されたゲーム&ウォッチ!当初はサラリーマンの暇つぶし用として作られたが、これが子供たちに大ヒット!日本を含む全世界で4340万台を売り上げ、抱えていた負債などすべて返済してもなおも有り余るほどの巨額な資産を得る。その資産を基にファミコンの開発はスタートする!

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横井軍平は「枯れた技術の水平思考」と言われる独自の哲学を持ち、最先端技術を使うのではなく、今現在最も普及して安価に使えるものを使って新たな物を作ることを常に考え、「ゲーム&ウオッチ」「ゲームボーイ」「バーチャルボーイ」など数々のハードを世に送り出した!またゲーム&ウォッチの時に十字キーを生み出したのも横井である。

コードネーム「GAMECOM(ガメコム)」プロジェクト始動!

1981年10月に山内社長はゲーム&ウォッチもやがて廃れると認識しており、次なる物として家庭用ゲーム機に興味を抱いていた。そんな話を持ちかけられたのが、上村雅之らアーケードゲーム開発陣である。

上村は試行錯誤を繰り返しある答えを導き出す。業務用ゲーム機のドンキーコングの回路をもとにIC化すれば、家庭用ゲーム機が実現できそうだと言うものだった。そこで1982年春、いよいよ本格的にコード・ネーム「GAMECOM(ガメコム)」としてプロジェクトが立ち上がる。

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GAMECOM(ガメコム)を開発するにあたって下記の2つが山内社長から厳命された。
・本体価格を1 万円以下に抑えよ!
・少なくとも他社が1年は追従できないものを作れ

上村はこの命を受けて様々な試行錯誤をすることになる。まずはCPUの要らない機能をバサバサと削っていったりしたが、ゲームで非常に大事な部分となるスプライトなどの機能はオリジナルのGPUを開発するなど、力の入れる所、入れない所の線引が絶妙だった。さらに、音、表示画素数、色数などをデザイナーの宮本茂などと協議し、限界ギリギリまで削っていった。削っていったのはたしかなのだが、性能は同時期に発売されたセガのSG-1000などと比べるとスプライト機能などが数段上で他機種と一線を画していた。

当初はアーケードゲームで使っていたCPU「Z80」を使う予定だったが、コストなどの関係上MOS 6502に変更した。これにより開発ツールなどを、一から作る必要があったりと色々苦労する部分があったが、大幅なコスト再現に成功する。MOS 6502はAtari 2600、PCエンジン、Apple IIなどにも使用されており、当時、安価で高性能と非常に人気があったCPUである。

同時発売されたファミコンとSG-1000の性能比較
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下記の動画は、ファミコンとSG-1000の動画集になっているので、スプライト数や色数、スクロール機能などに注目して見て欲しい。スプライトを簡単に説明すると動いてるキャラのことです。Atari 2600などはスプライト機能がなく全画面を毎回処理していたので、CPUへの負荷が高かったのだが、スプライトを使うと、背景とキャラを別にすることが出来、全画面処理必要がなく、キャラクタの位置情報だけを変えるだけでいいのでCPUに掛かる負荷が大幅に少なくなっています。

ファミコンゲーム集

SG-1000ゲーム集

続いてコントローラーをジョイスティックから、十字キーに変更する、これは子供が踏んづけて壊したりする恐れがあるのと、十字キーの方がコストが安いと言う理由で採用することになる。この十字キーだが、家庭用ゲームとの相性が抜群であのビル・ゲイツが「次世代のマルチメディア機器はキーボードではなくて十字キーにする」と大絶賛したのは有名な話である。

開発談として、カセットを取り出すレバーは本来手で引きぬいても、何ら問題ないのだが、レバー押すとカセットが飛び出すと言う仕掛けがあれば、子供たちが喜ぶのではないかと考え作られた。ゲームをしていない時でもガチャガチャ動かせて遊べる。そんな子供向けの配慮を忘れていないのもスゴい点である。子供の頃、電源も入れずにガチャガチャ動かしてた経験のある方は多いのではないだろうか。

また都市伝説となっている、赤のプラスチックが安い説は実は間違っており、実際は下記の説が有力になっている。

山内社長と上村が車で同行していた時に、あの色がいいと指さしたのが「アンテナ・メーカのDXアンテナの赤い看板」だった。その翌日に山内社長が川上の席まで、この色がいいと赤いマフラーを持ってきて、最終的にその赤い色が採用された。

プラスチックについても、当初プラスチックより安価なスチールを使う予定だったが、スチールがあまりにも脆かったため、コストの高いプラスチックを採用しているので、けして安いから採用しているわけではなかった。

ファミコンの名付け親は川上の妻だった!

上村の妻がガメコムの話を聞きこう言った「ホーム・コンピュータでもパーソナル・コンピュータでもない家庭用コンピュータなら、ファミリーコンピュータかもしれない。しかも、パーソナル・コンピュータを略してパソコンというのだからファミコンという愛称がいい」。この一言をきっかけにファミリーコンピューターと言う名称が候補となり、最終的にもこの名称が使われることになった。

ここでおもしろ話があるのだが、ファミコンと言う略称は1983年の10月31日にシャープが商標を取得したのである。この時期にマイコンピュータテレビC1と言われる、ファミコン一体型のTVを発売、その過程で取得したと思われる。当時、山内社長はゲームセンターをゲーセンと略す感覚が好きではなく、ファミコンと言う略称が気に入ってはいなかったようだ。そんなこんなで任天堂がファミコンと言う商標を取らずにいたので、シャープが取ってしまったのかもしれない。のちにファミコンの名称はシャープから任天堂に譲渡されている。

参照サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF
http://ja.wikipedia.org/wiki/SG-1000
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20081002/1019378/?P=1
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20081002/1019327/?P=1


1983年


ファミリーコンピュター発売!

1983年7月15日にファミリーコンピューター(ファミコン)が発売される。山内社長の1万円を切るまでには至らなかったが、14,800円と当時のゲーム機としては安く、性能も申し分なかった。しかし発売当初はあまり売れずにディスカウント店では7000円程まで値下げされたりなど苦戦をしいられる(値下げの真意不明)。

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苦戦中に起きたリコール問題!

苦戦していた任天堂にとんでもない事が起こった。特定ロットのPPUに致命的な欠陥があり、動作が不安定になるバグが見つかったのだ。この時、山内社長は特定のロットのみを回収するだけではなく、すべてのファミコンを無償で交換するリコールに踏み切る。リコールは多額の費用や、会社のブランドが傷つくなど、会社としては絶対やりたくないことなのだが、対応の速さと、全ファミコン無償で交換すると言う行為のおかげで、ブランドはそれほど傷つくことなく、この危機を乗り切った。

また発売半年分のコントローラーはA,Bボタンが四角い形のゴム仕様で、ボタンを押すと戻らなくなったりする問題があったため、丸いプラスチック製のボタンに切り替わってる。現在この四角いボタンのファミコンは、リコールや、発売期間が短かったため高値で取引されている。

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ローンチタイトル

発売同時タイトルは、ドンキーコング、ポパイ、ドンキーコングJr.で、ドンキーコングをベースに作られたものばかりであった。ドンキーコングは2面がカットされたり、細かな演出がカットされるなどしたが、移植度としては高かった。

ドンキーコングについては、下記の特集ページの1981年を参照してください。
アーケードにドンキーコングが登場! ≫

ルイージ初登場のマリオブラザーズ発売!

1983年9月9日にマリオブラザーズが発売される。ドンキーコングの時は職業が大工だったのだが、配管工に転職してる。このゲームではじめて弟ルイージが初登場する。この時のルイージはマリオと色違いなだけで、身体的な特徴はない。

一人プレイが主流だったこの頃に、協力要素と裏切って対戦モードに突入してリアルケンカになったりするなど、斬新なシステムで好評を博した。

ベースボールが発売!

1983年12月7日にベースボールが発売!販売本数は約235万本で「Wii Sports」「ゴルフ」に次ぐ第3位である。

初年度の売り上げ!

ファミコン本体の初年度の売り上げは、リコールなどがあるも、7月からの約半年間で45万台を販売した。まだまだファミコンブームに火か付いてるとは言えず、一部のお金持ちやマニアだけの販売にとどまっている。


1984年


光線銃対応ソフト第一弾「ワイルドガンマン」

1984年2月18日に光線銃対応ソフト第一弾「ワイルドガンマン」が発売される。光線銃の他に、専用フォルスターなどがついてお値段7,800円!この光線銃の考案者は、みなさんご存知の横井軍平である。

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1984年4月21日にダックハント、6月21日にホーガンズアレイの計3タイトルのみの対応で短命に終わっている。

ゴルフ

1984年5月1日に発売されたゴルフゲームで価格は4,500円。約246万本とダブルミリオンを達成しており、2013年現在でもスポーツゲームとしての売り上げ歴代2位である。マリオに酷似したキャラが出てくるが、マリオではなくただのおっさんである。

ハドソンが開発した「ファミリーベーシック」

1984年6月21日にファミリーベーシックが発売される。ファミリーベーシックはファミコンが発売された2、3ヶ月後に任天堂からシャープにファミコン用のベーシックを作ってくれないかと打診が有り、ちょうどその頃、シャープのパソコンMZ-80K向けにベーシックを開発していたハドソンに、シャープから打診が有り3社共同開発で作られることになる。

この事がきっかけとなり、ハドソンが初のサードパーティーとしてファミコンに登場することになる!

参照サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF

初のサードパーティー製ソフト「ナッツ&ミルク」

1984年7月28日に初のサードパーティーであるハドソンより「ナッツ&ミルク」が発売される。3日後に発売されるロードランナーに影を潜めてしまうが、よく出来たアクションパズルゲームである。タイトルのナッツはプレイヤキャラではなく、ミルクを邪魔する敵キャラである。ファミコン専用タイトルではなく、パソコン用に発売されていたゲームの移植になっている。

参照サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%84%26%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%AF

ロードランナー発売!

7月31日にハドソン第2弾ソフト「ロードランナー」を発売!ロードランナはダグラス・E・スミスによって作られたゲームである。純粋な移植ではなく、ファミコン用にキャラを大きくしたりなどの配慮がされている。キャラを大きくした分、面が1画面に収まらないので、ファミコン初の横スクロール機能をが使われている。当初、版権をもっていたブローダーバンド社から横スクロールしないと画面が見えないのはゲームのパズル性が失われると難色を示したが、当時ハドソンにいた高橋利幸などの説得により、発売にこぎつける。

ちなみに高橋利幸はのちの高橋名人である。

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ロードランナーは100万本超えの大ヒットを記録し、他のゲームメーカーに大きな衝撃を与え、翌年から他社メーカーの参入に拍車が掛かった!

ロードランナーはファミリーベーシックのカセットテープを用いて、自分で作ったオリジナルマップをセーブしたりすることができた。

ファミコン版

Apple2版

参照サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC

ハドソンは倒産覚悟のファミコン参入だった!

初のサードーパーティとなったハドソンだったが、実はこの一番初めの参入から、任天堂の工場でのロム製造と、前金制のロイヤリティーを払わないといけないシステムだった。当時のハドソンにはそんなお金がなく、銀行から個人融資としてハドソン社長が30万本分のお金を借りた。売れなければ倒産覚悟の大勝負だった。

また任天堂には巨大な一次問屋「初心会」と言われるものがあり、そこに加盟している問屋から全国の販売店にゲームソフトを流通していた。その問屋にはまだサードパーティーと言う概念がなく「任天堂さんじゃないのにゲームを出していいのか?」など販売するまでかなり苦労させられた。

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サードパーティーになるための条件!

サードパーティーになるには、任天堂が提示した3つの条件に承諾する必要があった。

1,ゲーム内容について任天堂の審査を受ける
2,年間に販売できるソフトの数を1〜5本と制限がある
3,カセットの製造は任天堂がおこない、その費用は前金で支払う

以上が条件である。

なぜこの様な条件を出したかというと、アタリショックの原因が粗悪なソフトの氾濫にあると考えていたからである。この様な縛りを掛けることによってサードパーティーは下手なゲームを作れなくなるのと同時に、質の良いゲームが生まれる可能性が上がったのである。これを心良く思わなかったATARIが任天堂の許可を得ない無許可のゲームソフトをファミコンに出す。当然、裁判沙汰となるのだが、この裁判はATARI側の敗訴で幕を閉じる。

ナムコ参入でギャラクシアン発売!

1984年9月7日にギャラクシアンが発売される。アーケードでゲーム業界に衝撃をもたらし、ファミコン開発にも深く影響を与えたゲームである。

ギャラクシアンについては、下記の特集ページの1979年を参照してください。
ナムコ社より80年代のゲームの土台となったギャラクシアン登場! ≫

アーケードで大ヒットのパックマンが移植発売!

1984年11月2日にナムコからパックマンが発売される。

パックマンについては、下記の特集ページの1980年を参照してください。 北米で圧倒的に支持されたパックマン登場 ≫

隠しや裏ワザの火付け役「ゼビウス」登場!

1984年11月8日にナムコよりゼビウスが発売される。コナミのスクランブルを縦にしたゲームを作ろうと開発がスタートしたナムコの縦スクロールシューティングである。

原色を使ったキャラが多かったこの時期に、限られた7色と言う色制限の中、その色をすべてグラデーションに割り当てキャラクターに立体感を出し衝撃を与えた。

また、ただ敵を倒すだけの単調なゲームばかりのこの時期に、明確なストーリーや世界観を作りこみ、何故戦っているのかを明確にしたのもこのゲームの最大の特徴である。

そしてなんと言ってもゼビウスと言えば、後に発売されるすべてのゲームすべてに影響を与えたであろう「隠しキャラクター」である。隠しキャラクターは何の変哲もない地上にブラスターを落とすと突然出現し、さらにそれを破壊すると高得点が入るシステムである。開発中に上司から「シューティングゲームは、目標を撃つということに爽快感があるのだから、目標が見えないようでは爽快感が生まれない」と言われ削除するように言われ承諾するも、見えてないしいいかと直さなかった。だが結局デバックの人に見つかり、ここにあったぞ!ここにもあったぞ!と言われるのだが、デバックの人も、いつの間にか探すのに夢中になっており「バグにしちゃ面白い」と言う空気になり、上司にも隠しキャラクターの面白さが伝わり採用された。

さらにこだわり所としてAIが組み込まれており、プレイヤーが下手なら敵は弱くなり 上手ければ敵が強くなるよう自動で調整された。また敵も死にたくないので、突っ込んで来るだけではなく、攻撃しつつも逃げたりなど個性が出ているのは、このゲーム以前に見られなかった。

音にも非常にこだわりをもって作っており、元YMOの細野晴臣氏がゼビウスを気に入り、 1984年4月25日に「ビデオ・ゲーム・ミュージック」と言うゲームミュージックのサウンドトラックの1曲目にゼビウスを入れている。発売後は初週5700枚を売り上げる好セールスを記録し、オリコンチャート初登場19位に入る快挙を達成した。ゲームミュージックのサウンドトラックとしてはこれが初のレコードである。

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販売本数はファミコン版が約127万本でミリオンを達成している。

ファミコン版

アーケード版

エキサイトバイク発売

1984年11月30日に任天堂よりエキサイトバイクが発売される。

あまり知られていないが、価格は5500円で5000円台に突入した初のゲームソフトである(ファミリーベーシックを除く)

デザインモードと言う機能があり、自分で簡単にオリジナルのコースを作って遊べるの当時としては大変画期的で人気を呼んだ。

販売本数は約157万本でミリオンを達成している。


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