カッツ…。
(2人)アイ!
(拍手)ええ〜!?あの人ですよね?うわっうれしい!闘莉王さんですよね?誰が闘莉王や!民放の人気番組では世界の祭りに挑戦。
ギュリギュリ!言うてスー逃げたみたいな。
そんな大輔に一つの転機があった。
1年半前結婚13年目にして待望の我が子を授かった。
今年で40歳。
芸人として一人の親としてどう生きるべきか考えるようになった。
番組では大輔に代わり大輔の知らない家族の歴史を取材した。
浮かび上がったのは…たくましく生き抜いた姿だった。
かつて宮川家は従業員を大勢抱える…おとうさん火事やで!しかし次々と…抱え込んだ…私の人生の上で。
更に東京・神田明神で先祖ゆかりの意外なものが新たに見つかった。
そして50年前のボクシングの試合に驚きの事実が隠されていた。
取材の結果を伝える日大輔が両親と共にやって来た。
ちょっと緊張するな。
ドキドキするな。
ドキドキする。
初めてやからな。
お願いいたします。
この日自らのルーツを初めて知る事になる。
変な感じなんですよね。
こんなん初めてなんで。
ちょっと緊張しますわ。
アハハハ。
ええ服着てきたな。
出してきたなこれ。
結婚式の時しか見た事ないやつ出してきたな今日な。
一張羅…。
なんかすごくドキドキしてますね。
ありがたく思ってますほんまに。
あすんません。
お迎えに来ました。
はいご苦労さんです。
大輔さんの父雅次さんは個人タクシーの運転手をしています。
その誠実な仕事ぶりで常連客が数多くいます。
実は雅次さんがこの道に入ったのは50歳をこえてから。
それまでの歳月は波乱に富んでいました。
これは60年前の写真。
幼い頃の雅次さんは大輔さんとうり二つです。
雅次さんの父芳太郎さんは一代で京都でも有数の小間物問屋を立ち上げました。
宮川家にはどのような歴史があったのか。
物語はまず大輔さんの祖父芳太郎さんの時代に遡ります。
時は今から90年前の…ごめん下さい。
芳太郎は当時16歳。
ふるさと金沢を離れ京都に丁稚奉公に出ました。
店は小間物婦人雑貨の問屋でした。
櫛や簪などを仕入れ小売店に卸す商いをしていました。
店に住み込み朝から晩まで雑用に明け暮れる丁稚奉公。
給料もなくほとんど休みなしで働き続けました。
芳太郎にはふるさと金沢に残した母と姉がいました。
いつか独立して楽をさせると誓ったのです。
芳太郎は毎日叱られながらも必死に仕事を覚えました。
そして11年後。
小間物問屋宮川芳商店を開きます。
一国一城の主になったのです。
老舗ひしめく京都の小間物業界。
芳太郎のような新興の問屋が仕事をもらうのは至難の業でした。
しかも…戦争は長期化し金や銀などぜいたく品の取り引きは禁止されました。
小間物問屋にとっては致命的でした。
そんな試練の真っただ中。
翌年日本は終戦を迎えました。
覚えてる?
(雅次)覚えてるよ。
復興が始まると芳太郎は確信します。
そして京都の一等地烏丸通りに思い切って店を移しました。
当時の写真はありませんが長男の雅次さんが覚えていました。
電気があって入り口で…。
もともと旅館だった大きな建物を買い取り自宅兼店舗にしたのです。
中には30畳近い作業場があり当時では珍しい3階建ての豪邸でした。
芳太郎はナイロンなどの新素材でバッグや風呂敷などを売り出しました。
読みは当たります。
その後女性たちのファッションへの関心が高まり手がけた商品は大ヒットします。
大勢の従業員を抱え有力問屋として確固たる地位を築いたのです。
すごいな。
従業員…。
(雅次)そうそう。
そんな中芳太郎が気がかりだったのは「店の後継ぎに」と考えていた長男雅次の事でした。
雅次は恵まれた環境で苦労も知らずに育っていました。
高校時代からの雅次の親友がいます。
「征平の、井戸端ニュース本日も反省の色なし!」。
元関西テレビのアナウンサー…雅次の家を初めて訪ねた時その裕福な暮らしぶりに驚きました。
雅次にはお人よしな一面がありました。
家から持ってきた豪華な弁当。
(クラスメートたち)おお〜!俺にも頂戴よこれ。
うめぇ〜。
友達に好きなおかずをあげてしまう事もよくありました。
そんな雅次に父芳太郎は店の後継ぎとしてたくましくなってほしいと願っていました。
そしてよくこう言いました。
そんな芳太郎には当時熱心に応援するスポーツがありました。
それは…苦しくても戦い続ける若者の姿に胸を熱くしていたのです。
昭和37年の大晦日。
芳太郎は京都で行われた試合を観戦しました。
「東洋フライ級タイトルマッチ」。
当時人気絶頂の海老原とタイからやって来た二十歳のチャチャイの試合でした。
(ゴング)これはその時の映像です。
今回の取材で観客の中に真剣な表情で応援する芳太郎の姿を見つけました。
(雅次)うわよう分かったな。
ほんまやな。
すごいな。
この日両者は一歩も引かず死闘が続きました。
会場の応援は日本人の海老原一色に染まります。
勢いに乗る海老原。
チャチャイはその強力なパンチを必死にこらえます。
そして結果は海老原の判定勝ちでした。
(拍手)興奮冷めやらぬ観客は海老原の控え室に押しかけました。
そのころ静まり返ったチャチャイの控え室。
そこに芳太郎が現れたのです。
肩を優しくたたいて言いました。
あんさん…この日会場で観戦した桑原さんが偶然その様子を目撃していました。
それから2年後。
一人の女性が芳太郎の店に入社します。
この女性こそ後に宮川大輔の母となる…この後運命のドラマが待っていたのです。
いやなんか…。
偶然ボクシングのおじいちゃんの映像がまさかあると思ってなかったんでびっくりしましたね。
ようあんなもん…。
見つかるんやなぁ。
動いてるおじいちゃんなんかもう…生きてはりますもんね。
おじいちゃん。
よう気付かはりましたね。
おじいちゃん?これおじいちゃん?この時代の人結構みんな眼鏡かけてこんな感じやで?おじいちゃん?あれ。
おじいちゃん。
若いなおじいちゃん。
若い。
ヒゲ生やして…?生やしてはる。
(子)チョビヒゲな。
何かあるんですかねこれ。
俺もうちょっと将来チョビヒゲ生やすんですかね?いやなんかすごいな。
おじいちゃんがよう言うてはった事はとりあえずどんなあれでも勝ち負けは関係ないしなとりあえず一生懸命やれいう事はよう言うてはったな。
なんかお父さんによう言うてたおじいちゃんの言葉あるやん。
それの時に自分に言われてるような気がして…。
「負けるな」みたいなのとかね。
あとは学校にお重を持っていってたんやお父さん…とか。
まあ…。
そこでちょっとなんか正直なんか分からないけど一瞬イラッとしましたね。
大輔さんにとってもう一つの大切なルーツ。
それは母子さんの家族の歴史です。
大輔さんが出演する番組は欠かさず見ていると言います。
(取材者)勘違いさせちゃったんですね。
いつも笑顔を絶やさない子さん。
その子さんの明るさを育んだのは…晩年大輔さんたちと同居し大輔さんにも大きな影響を与えました。
そのユリ子さんの人生をたどります。
ユリ子は大正8年生まれ。
京都で育ちました。
幼い頃から利発な少女でした。
地元の名門…この学校は…ユリ子はクラスの中でも明るいムードメーカーでした。
当時同級生だった…ある日親に叱られて落ち込んでいたマチさんをユリ子が励ましたといいます。
そんなユリ子の…当時珍しかった外国人講師に物怖じせずどんどん質問しました。
ユリ子の成績表が今も学校に残されていました。
特別に許可を頂き見せてもらいました。
昭和11年3月の卒業ですね。
長岡ユリ子さんこの方ですね。
英語の成績がすごくいい方ですね。
満点に近い成績ですね。
(雅次)うわ〜すごいな。
賢いな。
当時親戚の間で優秀なユリ子の事がいつも話題になっていました。
優秀な成績で学校を卒業したユリ子。
目指したのは…戦争の時代病院や戦地で活躍した看護婦は国に貢献できる職業として女学生たちの憧れでした。
その後結婚。
28歳で元気な女の子を授かります。
後の宮川大輔の母子です。
しかしその後ユリ子は夫と性格が合わず離婚。
看護婦として働きながら娘の子を育てる事になります。
ユリ子は英語力を生かしアメリカ人医師が開設した病院で働き始めます。
ハイ!エリック。
外国人の患者にも気さくに話しかけるユリ子は人気者でした。
当時後輩だった吹上廣子さん。
ユリ子が巧みに患者の心をつかむ姿に憧れたと言います。
ユリ子は娘子の前でもユーモアを忘れませんでした。
ある日2人で出かけた時の事。
子がおもちゃをねだるとユリ子はこう言いました。
苦しい懐事情も笑いに変えてしまうのがユリ子でした。
子は母の教えを守り…その明るさが大輔さんに受け継がれたのかもしれません。
大輔さんといえばお祭り。
実は今回の取材で驚きのご先祖を発見しました。
大輔さんの母方のルーツをたどり江戸時代まで明らかにしたところ大輔さんから5代前の先祖永瀬源七という人物に行き当たりました。
暮らしていたのは今の…江戸時代京都の朝廷が認めた鋳物職人の控帳が今も残されています。
ここに永瀬源七の名がありました。
優秀な技術を認められた証しです。
その源七に深い関わりがあるのが東京・千代田区にある…江戸三大祭の一つ神田祭で知られる祭りの聖地です。
本殿の脇には150年前に作られた鋳物の桶があります。
火事が多かった江戸の町で防火水槽として使われました。
実はこの桶を制作した職人こそ宮川大輔さんの先祖永瀬源七だったのです。
(雅次)すごいな。
当時鋳物の桶といえば円柱型が一般的。
その中で源七は高度な技術を必要とする角型に挑戦しました。
この桶は今…宮川大輔さんとお祭りは深い縁で結ばれていたのです。
すごいな。
お祭りに…ねえ。
すごいですね。
5代前ですか。
へぇ〜。
知ってた?鋳物屋さんまでは知ってたけどそんな立派な仕事してはるとは知りませんでした。
こうして見せて頂いてああそうだったんやなと思って。
うれしいです。
知らんとそのまま終わるよりもやっぱりここであっそうやったんやと思ってね。
そうやって一生懸命作ったもんっていうのはこうやって残るんやなと思って。
すごいなと思いましたね。
(取材者)職場でも話題の人だったらしいです。
なんかハイカラやな。
すごいな。
女手一つで育てたっていう事はやっぱりな今やったらシングルマザーみたいな。
だけど昔って結構それにも何かあったやろしな。
言いにくい部分も多分あったんやろうなと思うな。
苦労した部分も大きかったんやなと思って。
でもそれでもなんかこうね…。
笑いに変えてたんやなと思うとね。
芳太郎がボクシングの試合を観戦してから2年後。
芳太郎は59歳で突然…右半身が不自由になり入院を余儀なくされます。
それでも芳太郎は無理を言って仕事に戻りました。
「何としても店を守りたい」。
その一心でした。
その姿に息子雅次は父の覚悟を感じます。
長岡子が芳太郎の店に入社したのはこのころでした。
体がまだ不自由な芳太郎を見るとすぐに駆け寄って支えたのは子でした。
芳太郎を優しくいたわる子の姿に雅次はひかれていきます。
その事に芳太郎は気付いていました。
ある日の事です。
雅次。
うん?え…?芳太郎は体調が悪いにもかかわらず「3人で一緒に行きたい」と言いだしたのです。
すみません急に呼び出して。
いえ。
社長ありがとうございます。
雅次は子を誘った事を不思議に思いながらドライブに出かけました。
最初はてれていた雅次と子でしたが次第に打ち解けていきました。
そんな2人を芳太郎はうれしそうに見つめていました。
そして帰り際。
すると芳太郎はほほ笑みながらゆっくり手を差し伸べました。
その晩芳太郎は急に容体が悪化します。
そして翌日静かに息を引き取りました。
ドライブをきっかけに交際を深めた2人は2年後に結婚しました。
間もなく長女が誕生。
そして昭和47年長男が生まれます。
それが宮川大輔です。
これからは…雅次はそう誓いました。
しかし大輔の誕生から僅か4か月後。
おとうさん火事やで!倉庫から火の手が上がり一気に店や家を焼き尽くしたのです。
出火の原因は従業員のたき火。
隣近所にまで延焼する深刻な事態でした。
多額の賠償金。
失った信用。
幼い子供たちを抱えどうすればいいのか。
雅次に重圧がのしかかります。
そんな時思い浮かんだのは父芳太郎が病を押して仕事に向かった姿でした。
雅次は自分を奮い立たせます。
マフラーにスカーフなどはいかがですか?店舗も従業員も失った中焼け残った商品を縁日で売り続けました。
少しでも売り上げを伸ばすため新商品を作っては打開策を考えました。
朝から晩まで必死の営業。
やがて商品は少しずつ売れるようになります。
しかし軌道に乗ったのもつかの間。
外国製の商品に押され売り上げは急激に落ち込みます。
雅次は少しでも収入を得るため他に喫茶店も始めます。
しばらく店は順調でした。
ところが数年たつと客足が遠のき借金だけが膨れ上がりました。
これ以上家族に迷惑をかけられない。
一家は自宅を引き払い郊外の小さなアパートに引っ越します。
この時雅次52歳。
「少しでも借金を返したい」と選んだ仕事はタクシーの運転手でした。
接客の三原則!
(一同)接客の三原則!新たに免許を取り慣れない接客について必死に学びました。
休みの日も京都の町を走り道を頭にたたき込みました。
ある日偶然客として乗せたのは小学校時代の同級生でした。
ああ…。
いやぁ…。
雅次は必死で悔しさをこらえました。
しかし仕事が終わったあと。
(嗚咽)涙が止まりませんでした。
そして明け方帰宅した時の事です。
おかえり。
妻子がいつものように寝ずに帰りを待っていました。
雅次は思わずその日の出来事を口にしました。
自分のふがいなさを責めました。
すると子は明るくこう言ったのです。
雅次は再び立ち上がります。
それから10年以上無事故を守り苦情が一切ない優良ドライバーとして実績を重ねました。
かつて父から言われた…その言葉を胸に前を向き続けました。
そして4年前。
雅次さんは念願だった個人タクシーを開業しました。
借金も無事返済し妻子さんと穏やかに暮らしています。
そんな2人の励みになっているのが息子大輔さんの活躍です。
18歳でお笑い芸人としてデビューして以来長い下積みを経て今ではテレビで引っ張りだこの人気者です。
そんな息子に雅次さんは今伝えたい事があります。
宮川大輔さんのルーツ。
そこには逆境を乗り越えたくましく生きた家族の歴史がありました。
いやぁ〜すごいななんかな。
おじいちゃんとかおばあちゃんとか先祖のルーツというかあれも全然知らん事やったんですけど。
まあやっぱこうやって普通のね京都でいるお父さんもお母さんもどんな感じかって夫婦が2人でどんな所に住んでるかとかそこでどんな会話してるのかとかなんかねえ…。
そこもあんまり知らんというか。
そうやってつらい時にお母さんに言うてお母さんがそれ励ましてとかそんな事やってなんかこう頑張ってくれてるというかね。
そんなんもちょっとこうやっぱり感じれてあれでしたね。
幸せな時もそやけど裕福な時もそやけどほんまにその時分からへんねんな何にも。
ほんでやっぱり一旦落ちてやったらいろんなこうやっぱり違う面が出てくるしな。
分かってくるしな。
やっぱりそういう事が大事やし。
僕ですか?ほんまにおじいちゃんとかおばあちゃんとかが言うてたようにやっぱり逃げたらあかんしつらい時は。
あとはつらい時でも笑いに変える力というか。
それでみんな家族力合わせてその壁というか乗り越えていくというか。
一生懸命生きようと思いましたね。
手を抜かんと。
収録のあと大輔さんたちは神田明神を訪ねました。
先祖の永瀬源七が作った桶と対面するためです。
これですか。
よう残ってんな。
(子)これ昔の鋳物で作らはってん。
だからすごいな。
これほら。
(子)あ…。
ここ。
(雅次)ほんまや。
(子)うわ〜すごいちょっと…。
すごいな。
それ僕聞いてびっくりしたんですけど。
ああそれでね。
テレビで盛んに頑張ってらっしゃいますもんね。
あれは何や言うたらおじいちゃんの血で。
(鳥居)DNAがね。
騒ぎまくってるんちゃうかって。
ほんまやな。
家のお風呂よりもでかいで。
おじいちゃんに会えるというか。
2015/11/13(金) 02:55〜03:45
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「宮川大輔(お笑い芸人)〜逆境も笑いに変えて〜」[字][再]
お笑い芸人・宮川大輔。今回の取材で宮川家の意外な先祖が明らかになる。京都出身の大輔が東京神田明神と不思議な縁でつながっていた。その事実に、大輔は驚きを隠せない。
詳細情報
番組内容
お笑い芸人・宮川大輔。実家はかつて、京都でも有数の小間物問屋を営んでいた。しかし、次々に試練に襲われ、店を閉じることになる。そんな中でも、大輔の父と母の頑張りで、一家が困難を乗りこえていく。また、今回の取材で宮川家の意外な先祖が明らかになる。「お祭り男」と呼ばれる大輔が、祭りの聖地である東京神田明神と不思議な縁でつながっていた。その事実に、大輔は驚きを隠せず、涙があふれる。宮川家3代の力強い物語。
出演者
【出演】宮川大輔,【語り】余貴美子,大江戸よし々
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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