シロクマ先生の承認欲求に関するエントリーを読んで。
id:naoyaさんのこのTweetを思い出した(元のツイートは削除されているけど)。
ほろ酔いの勢いで言いますが。昔近藤さんが、ふとしたときに、社会はたまたま対面でのコミュ力がある人間が有利になってる。でも、テキストでのほうが上手だって人間は世の中にはたくさんいる。そういう人のためのサービスをおれたちは作ってるんだって言った時があって、俺はそれに感動した — Naoya Ito (@naoya_ito) 2014, 7月 6
このツイートは多くの人に支持された。
シロクマ先生はインターネットの承認欲求は脅威であると考えている
シロクマ先生は、承認欲求には未熟な承認欲求と成熟した承認欲求があり、日常生活の中で地道にレベルアップしていくことが大事だと説かれている。インターネットは安易に承認欲求を得られた気持ちになってしまうので脅威ですらあると指摘している。
・face to face なコミュニケーションのほうが有利。オンラインのやりとりだけでどこまで上手くいくのかは不明。 ・目標設定の目安は「ハイレベルな承認欲求が思い通りに充たせるようになること」ではなく「よりバリエーションに富み、より日常的なコミュニケーションを介しても承認欲求が充たせるようになること」「自分自身の承認欲求に対する要求水準を下げ、大仰な評価でなくても承認欲求が充たされたと感じられるようになること」。
未熟な承認欲求、成熟した承認欲求 - シロクマの屑籠
承認欲求の執着無間地獄を脱出する鍵は、スポットライトの檀上で頬をテカテカさせながら演説している人のところには無いと私は思う。もっと地味で、もっと落ち着いたコミュニケーションを大切にすべきだ。
未熟な承認欲求、成熟した承認欲求 - シロクマの屑籠
なるほど、理想はその通りですね。リアルの人間関係が豊かであればそれに勝る幸福なんてない。地道に身近な人との間にface to faceのコミュニケーションの中で地に足のついたコミュニケーションを形成していくことは大事だ。
でも、みんなそんな地道な幸せを感じるライフコースを実現できるとは限らない。
インターネットは駆け込み寺としても機能している
家族や隣人でさえ時として憎しみ合い、暴力を振るうことがある。私も理不尽な理由で両親に殴られたり、母が包丁を持って「自殺してやる!」と叫ぶ家庭で育ってきた。父が怒って夕ご飯中にちゃぶ台を星一徹して、ご飯や割れた茶碗でグシャグシャになった床を母が泣きながら掃除していた。
(「巨人の星」)
学校ではイジメられていたので、中学校は耐えずビクビクしていた。高校の時は学校へ通うのが辛くて、学校へ行くフリをして仙台へ行ったり、市民図書館に籠もって本を読んだり、パソコン通信で草の根BBSのホストに接続して投稿したりしていた。仙台や図書館やパソコン通信は、家にも学校にも相馬にも居場所がなかった自分にとって、アジールであり駆け込み寺であった。そこには地道な身近な人とのコミュニケーションを形成する余地がない、断絶された世界だった。次の駆け込み寺は「東京」と「インターネット」だった。
社会に出ても基本的な構造は変わらなかった。Web企業の中でもあんまり仕事してなくても人当たりが良くて上司や社長に愛想が良くてチヤホヤされる人もいれば、私みたいに毎日誰とも会話せず黙々とモニタで黒い画面とにらめっこしている人もいた。
エンジニアの中でも大ヒットするサービスを開発して一躍有名になる人もいれば、私のようにマルコフ連鎖でワードサラダのSEOスパムサイトを量産してYSTで上位表示するようなドブ臭い仕事を依頼されてご飯を食べている無名の闇のエンジニアもいた。世の中、綺麗な仕事ばかりではない。クズを拾いながら、クズに寄生しておまんまを食べている人もいる。
光のあるところ、闇もまたある
光あるところ、闇もまたある。そして現実世界はおそらく解決困難な人間関係や職場関係や非モテの闇の方が圧倒的に多い。そうでなければ、うつ状態や不眠に悩まされる人はこんなに多くないだろうし、転職したりニートになる若者も少ないはず。シロクマ先生は生身の人間の持つディスコミュニケーションの不可避性について理想論や建前を唱えているに過ぎない。
確かにそういう承認を日常の中のコミュニケーションの中で地道に獲得していく人もいるが、それはコミュニケーション強者である。世の中には対面コミュニケーション強者と対面コミュニケーション弱者がいるのだ。それは本人性の問題だけではなく、不遇な境遇によってその袋小路に追い込まれる人もいる。
もちろん境遇は免罪符にはならないので絶えず立ち向かっていく必要があるが、シロクマ先生は弱者がインターネットを駆け込み寺にすることを脅威であると言う。それは「強者の論理」を振りかざしているのに他ならない。
ドヤ顔の中に人間がある
以前、シロクマ先生はカネ臭いエントリに対する嫌悪の記事を書かれていた。
もちろんこれは、美意識やデリカシーの問題ではある。だから「美意識やデリカシーの相違ですね」と切って捨てる人からみれば、くだらない問いかけとうつるだろう。しかし、まさにその美意識やデリカシーの問題として、私は錢勘定を隠そうともしないブログに、しんどいものを感じるのだ。「もっとエレガントに稼いでくださいよ。」
錢勘定を隠そうともしないブログ - シロクマの屑籠
私も金勘定を晒すブログは基本的に読まないが、だからといって彼らに対して否定的な立場で「エレガントに稼いでくださいよ」と価値観を押し付ける気持ちにはなれない。世の中には毎月○万円の収入があっただけで得意になってドヤ顔で記事を書く自由もあるのである。誰のためでもなく自分のためであっても。それもインターネットらしいところで好きだ。ドヤ顔の記事の中に人間がいるのだ。
生活の心配をしなくても安定して収入が入ってくるエスタブリッシュメント層やインテリ層は、自分達がお金を稼いでいることを話題にしないかオブラートに包んで話す。特に日本は成金を嫌う文化があるので、上層階層の人も中流階層の人と同じライフスタイルであることを演じようとする傾向がある。しかし、社会はそんなエスタブリッシュメントだけではない。資本主義社会には日々の銭を幾ら稼いだかで喜んでドヤ顔を隠しきれない経済的・文化的弱者がいるのだ。彼らのスタンスを私は否定しない。
はてブのエントリがそんなドヤ顔記事で席巻されると中身が無くて困るが、それはまたはてブがどういうサービスを目指しているかという別の問題だ。日々幾ら稼いだかを書きたい人はドヤ顔でブログに自由に書けば良い。そういう自由があるのがインターネットだ。
インターネット文化圏の可能性を潰してはならない
承認欲求の現代の駆け込み寺としてインターネットが機能していることが厳然たる事実で、そこに集まった承認によって希望を見出したり隠れていた才能を開花させた人もいる。インターネット文化圏はそうい社会的弱者の自己中心的なエゴにも支えられて、それは確かに多数のデメリットを生み出したがメリットも生み出していることは間違いない。比較衡量の視点が大事だと思う。
だから私は、インターネットの承認欲求を否定することは時期尚早だと書いたのだ。まだまだ花開くかもしれない才能や余地は沢山ある。インターネットの多様性を受け容れよう。
単著を出している古参だからといって、強者の論理を振りかざしても猛烈に空振りしているだけである。