原爆投下時に母親の胎内で被爆した人たちでつくる「原爆胎内被爆者全国連絡会」(事務局・広島市)が8月に初めて発行する体験集に、兵庫県西宮市の大高敬雄(おおたかのりお)さん(69)が手記を寄せた。70年前、広島で祖父と叔父が犠牲となり、直後に駆け付けた両親も被爆。「私たちが伝えなければ」。直接の被爆者が次々に鬼籍に入る中、思いは強さを増している。(斉藤正志)
両親が被爆者と知ったのは小学4年の8月6日だった。山口県の自宅で、広島の方角を向いて手を合わせ、目をつむる母。「どうしたの?」。尋ねると家族が原爆被害に遭ったことを話してくれた。
広島市の銀行に勤めていた祖父は建物の下敷きになり即死。叔父は15日後、鼻と口から出血し、死んだ。神奈川県に住んでいた両親は直後に広島入りし、爆心地から約1・4キロの祖父母宅でがれきを片付けた際に被爆。祖母は2年半後、原爆症とみられる乳がんで亡くなった-。
それから毎年8月6日には、母と一緒に手を合わせるようになった。被爆についてほとんど語らなかった父は1990年に77歳で、母も95年に74歳でそれぞれ亡くなった。
大高さんは46年6月生まれのため、厳密には「胎内被爆者」ではない。しかし、母が被爆直後に大高さんを身ごもったことから、昨年8月に発足した全国連絡会への参加を申し出た。
手記の執筆に際し、母が生前に著した句集をあらためて読んだ。
「原爆忌のテレビ水仕の手は休めず」
8月6日が巡り来るたび、報じられる被爆地の祈り。台所仕事の手を止めずにテレビ画面を見つめる母の収まらない胸の内が伝わってくるようだった。
手記でも紹介した句集の後書きには「原爆死や餓死という非業の死をとげた、父母・兄弟のことを、子や孫に伝えてゆきたい」と書かれていた。
「直接の被爆者のように生々しくは伝えられない。でも、母が伝えたかった思いを少しでも知ってほしい」。大高さんはそう願う。
体験集は8月5日発行。500円。全国連絡会の三村さんTEL090・7375・1211
【胎内被爆者】 広島は1946年5月31日まで、長崎は同6月3日までに生まれた人が被爆者健康手帳の交付対象。厚生労働省によると、全国で被爆者全体の4%に当たる7292人いる。うち広島市は2574人、長崎市は1090人。兵庫県内にも158人いる。