また、城内〔康光〕元長官は
オウム真理教事件を追うジャーナリストの間では有名な存在であった。〔略〕
ある幹部警察官が、1983年に関東近県の本部長に単身赴任した際、婚約者のいる婦警をレイプするという事件を起こし、そのもみ消しを側近に命じる。側近たちは被害者の女性の説得に成功。女性はこの幹部警察官の愛人となり、彼女が口を噤んでくれたために彼は順調に出世し、団体(警察)のトップにまで上り詰めた。退官後は海外で別の仕事をしている……。
ここに出てくる幹部警察官の経歴が城内のそれとぴたりと当てはまるのだ。1983年当時、城内は
群馬県警本部長だった。だがこの頃、城内がレイプ事件を起こしたなどという話はないはずだ。筆者がみおとしているのだろうか……。
では、この一橋の紹介していた伝説は根も葉もないデタラメだったのだろうか。実はこれとは別のものだがよく似た話がある。それは、城内元長官が将来の総監、長官候補として期待していた若手官僚が女性問題を起こし、そのもみ消しを城内が側近に指示。ところが、このスキャンダルを
オウム真理教と関係が深いと噂されていた暴力団に気づかれてしまい、その連中との裏取引によってオウムに拉致殺害された
坂本弁護士一家殺害事件の捜査が中断したのではないか、との疑惑があるのだ。
この女性問題を起こしたキャリア官僚の名は渡邊秀男――昭和49年入庁組のホープで、城内元長官のお気に入りだった男だ。渡邊は1992年4月20日付けで病気の療養を理由に依頼退職。最終職は警察庁の地域課長(厳密には警務局付)で、階級は警視長だった。
ところが、警察関係のOB名簿には渡邊の名前は記載されていない。財団法人警察教会発行の職員録に主要旧幹部の名簿があり、
警視正以上の存命中のOBの名が載っているのだが、渡邊秀男の名はないのだ。他の幹部では、たとえば昭和27年に共産党に偽装入党し、自ら共産党の仕業に見せかけて駐在所を爆破、その後マスコミの目を避けて全国を逃亡した戸高公徳。警察の裏金疑惑を告発する『わが罪は、つねにわが前にあり』を著し、警察組織から
村八分になった(検察庁の
三井環大阪高検公安部長と同じだ)松橋忠光(1998年に死去)。彼らですら名前があるのに、である。その他では同じワタナベでも神奈川県警本部長の時に現職警官の
覚醒剤事件をもみ消して起訴された渡邊泉朗の名前はあっても、渡邊秀男の名は抹消されている(次頁資料参照)。
いったい渡邊秀男は何をやったのか?
覚醒剤事件もみ消しや駐在所の爆破、裏金疑惑の告発(これは警察組織以外では評価されるものだ)以上の悪事を働いたというのだろうか。
〔略〕
ところで、渡邊のスキャンダルが発覚した際、警察庁次長として長官のポストを目前にしていた城内が、自分が贔屓(ひいき)した彼の
醜聞が表沙汰にならないように側近たちに工作させた疑いがあるのだ。そして、その工作の情報が
オウム真理教と関わりの深い暴力団に流れたという噂もある。ちなみに裁判は渡邊側の主張が全面的に採用されて勝訴している。裁判記録の中でも、城内ファミリーの一員である杉田和博
内閣危機管理監や、寺尾正大元警視庁捜査一課長らが、動いていた形跡が見てとれるのだ。
一方、
坂本弁護士一家失踪事件は、暴カ団ルートから解明できそうになった時期があったという。ところが、城内長官の指示によって当時の神奈川県警本部長が前任地で起こしたセクハラを理由に解任され、新たに本部長に就任した杉田が捜査を中断させたのだという。
詳しい話は次の機会に譲るが、松本サリン事件が起きたときに神奈川県警のオウム班は、捜査が中断する少し前に
麻原彰晃が高知支部の説法会でサリンに言及していたのを警察庁に報告している。城内が警察庁
記者クラブに突然フラリと現われて、長官を辞任する意思を表明したのは、その直後のことだった。
あと、もう一つある。これって…
■[警察]城内康光 00:36
1
城内実さんは、「私の父は一度も神奈川県警に勤めたことはない」とブログで書いています。
というのがあるんだけど、
城内康光は、自分のレイプスキャンダルを山口組系後藤組に隠蔽してもらってなんかいない。
城内康光は神奈川県警本部長時代に後藤組の資金源だったオウムの犯罪を隠蔽なんかしていない。
城内康光の経歴の確認をしたいんだが、webだけだとイマイチよく分からない。
2
ところで城内康光をweb検索していたらこんなの見つけた。
出身者
国松孝次(元警察庁長官) 城内康光(元警察庁長官)
オウム狙撃事件で殺害未遂された人物と、殺害関与疑惑のある人物が同じ中学校出身者。
3
城内康光の絡んだ警察内抗争
辛光洙事件の場合、日韓で法制度が異なる上に
全斗煥大統領率いる軍事政権下で(拷問を含む取調べで)得られた「辛供述」の証拠採用に当時の日本検察首脳らが否定的だったことが立件を見送った理由のひとつであったが、最大の要因は捜査指揮に当たっていたリーダーの突然の交替だったという。
韓国の
辛光洙事件摘発の発表からわずか1ヶ月余の85年8月、警察庁警備局長・柴田善憲(1955年入庁)が近畿管区警察局長へ、柴田の後任と目されていた警視庁公安部長・福井與明(57年入庁)が埼玉県警本部長へと、揃って”放逐”された。
当時の警察庁内部では、政治家への接近を深めるいわゆる”政治派”と警察の政治からの独立を守ろうとする”独立派”の間で、警察庁始まって以来といわれるほどの熾烈な派閥抗争が展開されていた。
しかし、”独立派”のリーダー・三井脩警察庁長官(旧
内務省1946年入省)が退官すると、その三井人脈に連なる柴田や福井らが一転”政治派”から「報復人事」(警察庁OB)を受けることになった。
そして後任の警備局長には三島健二郎(56年採用)が、警視庁公安部長には
城内康光(58年採用、後に警察庁長官=落選した
城内実前議員の父上、らしいです)がそれぞれ就いたが、捜査指揮を執るにはいずれも「非力」(前出OB) であった。特に、三島新警備局長は外事課長時代に、外交問題にまで発展した「文世光事件」で「かなり痛い目にあっているので、このときも再び政治に巻き込まれるのを嫌った」(警視庁OBの言)という。
また城内はその後警備局長に昇進する。88年3月26日参院・
予算委員会で
日本共産党・橋本敦委員から
辛光洙事件の共犯として韓国当局に逮捕された安永奎(アンヨンギュ)の供述内容を問われ、「この北朝鮮工作員、安永奎が1978年に次のような指示を上部から受けておるということを承知しております。すなわち45歳から50歳の独身日本人男性と20歳代の日本人女性を北朝鮮に連れてくるようにという指示を受けていたということでございます」と、胸を張った。
<貼り付け終了>
シンガンスと言えば、カンナオト…
警察の名簿から名前が消えている渡邊秀男とは何者だ???
やっぱり工作員かな?
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