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だったらどうするかというと、理性を働かせて賢明さを発動しなければいけない。そのことをさきほど私は納得解の導き方、あるいは「情報編集力」と言いました。この情報編集力を磨くための授業が必要で、それが〔よのなか〕科なわけです。たとえば、自殺ということをどう考えさせるかというと、隣の人と二人で組んでもらって、片方がもうビルのフェンスの向こう側に立ってしまっている自殺志願者を、もう片方がそれを発見して屋上に駆け上がってきて、止めようとする自殺抑止者を、それぞれ教室で演じる。そして、自殺志願者と抑止者がどのような会話をやれるかということを、授業でやりながら賢明さを磨いていく。そういう授業でもしないと、思考回路が廻らない。
宮台 僕は〔よのなか〕科の初期のプログラムに参加させて頂いて、自殺のロールプレイについて生徒たちに再確認してもらうためのスピーチをしました。自殺のロールプレイで非常に重要なことは、自殺を止める際に何が有効なメッセージになるのかを、実体験できることです。
藤原さんがおっしゃったように「道徳的に許されていない」という説明は、誰よりも道徳的な人間が自殺に追い込まれる例で容易に粉砕できます。「人のいのちは大切だ」という説明も、大量破壊兵器保有のでっち上げによるアメリカのイラク攻撃を、日本が全面支持していることなど、社会が人の生命を大切にしていない実例を10個あげれば粉砕できます。
「生きていればいいことがある」という説得もダメ。「俺よりもはるかに恵まれた境遇にいるお前にそんなことがなぜ分かる?」と反発されて逆効果です。「死ねば家族や友達が悲しむ」という説得もダメ。「俺がどんなに苦しくても今まで誰も助けてくれなかったぞ」と反発をかって終わり。
実際に自殺を止められる言葉は「自殺しないでくれ。自殺したら俺が悲しい」だけです。でも条件がある。この言葉を信じられるような日常的なコミュニケーションの積み重ねがあるかどうかです。それがあれば止められます。要は互いに自分の行為や体験にとって相手の存在が前提であるような関係性を日常的に作れているかどうか。逆にこのことから昨今自殺が増えている原因を推察できます。要は、道徳でなく関係性の問題なのです。
同じことは他殺にも言えます。酒鬼薔薇事件の直後、14歳の子どもたちに「人を殺してはいけない理由を説明してください」などという特集をした雑誌がありました。馬鹿げている。「人を殺しちゃいけない理由」はありません。なぜならどの社会にも「人を殺しちゃいけない」というルールは存在しないからです。
どの社会にも「仲間を殺すな」というルールと「仲間のために人を殺せ」というルールしかありません。アメリカも日本も含めてすべての国の戦争はこのルールに基づいています。日本には先進国では珍しく、国家レベルで死刑制度があります。死刑もこのルールに基づいています。死刑制度がない国はあっても、武力攻撃されて反撃しない国はありません。
じゃあ、我々が人を殺さないのは、「仲間を殺すな」というルールがあるからか。これも違う。我々が殺さないのは「殺せない」からです。「殺せない」のは「殺せないように育っているから」です。「人を殺せ」と言われても多くの人は殺せません。大喧嘩をしている場合にも、多くの人は「殺す」という選択肢を思いつけません。
「殺せないように育つ」とはどう育つことか。道徳を教えられることか。全く違います。自分の尊厳――自己価値――にとって、他人が存在して自分を承認してくれることが自明の前提であるような育ち方をしているかどうかです。少年による殺人が社会問題化する昨今、道徳を教えろという道徳主義者は単なる馬鹿でしょう。他者の存在を前提とした尊厳以外のものがあり得ないような成育環境の整備こそが重要だと考えるのが、賢明さです。
鈴木 ここで、藤原さんが実践している〔よのなか〕科を紹介してもらいましょう。私も和田中で、よのなか科の1パーツを授業させていただいております。
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