まず女子高生の大多数はNintendo64を知らない。
なぜNintendo64を知らない女子高生が多いのかという証明は、Nintendo64が店頭(レトロショップを除く)で売られていないことから自明である。
しかし、もし知っている女子高生が自分の身の回りにたくさんいれば、「最近の女子高生でもNintendo64を知っているのだ」と錯覚してしまうのである。
このように世の中の大多数の知識と、自分周辺の人々の知識というのは、たとえ両者が同じカテゴリに属していても大幅に乖離していることが多い。
これは何が問題なのかというと、少数のサンプル数から全体を断定してしまうことが問題なのである。
さて、話がNintendo64だったから大した乖離にはならなかったのだが、もし「Nintendo64はまだいけるぞ」と考えて、
Nintendo64のゲームを作ってしまった場合、最悪のコケ方をする可能性が高い。
このように、誤謬から導き出された結論は、間違った結論を生み出す。
そんなことはとても当たり前のことなのだが、わたしは、これに気付くのにかなりの時間を要した。
わたしの身の回りに起こったことを、『世の中は』と考えたり、
わたしの身の回りの女性の特徴から『女は』と断定するのは、まだ早計だということだ。
ただし、測定値が小刻みであれば、人間がこれを計算するのはおおよそ不可能になる。
なぜなら毎回そんな計算をしていたら、普通に生きることもままならないからだ。
したがって信頼度のレベルは[信頼できる, 信頼できない, どちらとも言えない]の3つにわけることにして、ざっくり概算することにした。
しかし本来は、「信頼できる」の内部にも幅があり、「すぐにでも揺らぐ信頼」「盲目的信頼」「疑惑を持ちながらの信頼」のようにさらに多段になっていることを忘れてはいけない。
信頼度は、命題の重要性、母数と標本数との乖離、情報の発信者、論理整合性、経験によって大きく変化する。
つまり同じ内容の話でも、違う人間が言えば信頼度は違ってくるし、同じ人間が言っても、「日本は明日滅びる」と言うのと「日本は明日雨だ」と言うのでは信頼度が違うということだ。
たとえばわたしが増田でこんなことを言っているのは、ずいぶん信頼度が低いということだ。
これは人間なら誰しもやっていることだと思うのだが、わたしは人によってその信頼度を評価する関数(評価関数とでも言おう)の係数が異なると考えている。
わたしは論理整合性がもっとも正確な信頼度測定の道具だと考えているが、論理の下に別の誤った論理が眠っていることも少なくない。
そしてわたしは、人間は愚かなことに「経験」による信頼度測定をもっとも多く用いていると思っている。
『たとえばわたしが増田でこんなことを言っているのは、ずいぶん信頼度が低いということだ。』
もし、あなたが増田を読んで、利益ばかりを享受していたのであれば、この記事の情報の信頼度はさらに低いままだろう。
この経験というバイアスは、論理整合性やその他の事情を覆い隠す。
また、人間は経験からしか物事を判別できないのではないかとも、わたしは思っている。
評価関数の係数のうち、唯一自分が操作できるものが経験だからだ。
あとの係数は、ぶっちゃけていえば、すべて経験からもたらされたものに過ぎない。
論理整合性、母数標本数なども、わたしが論理学や統計学という経験を得ていなければ、そもそも見えることのなかった係数である。
さて、だいじなことを話していなかったが、では信頼度を測定するようになると何が起こるだろうか。
まずあなたは街をふつうに歩くことができなくなるかもしれない。
「走っている車が突然こちらに向かって事故ってくる可能性」
「考えても詮なきこと」と脳が判定していたできごとである。
しかし眠れる獅子が目覚めたいま、たちまち、人間というものが信頼できなくなるだろう。悲劇の始まりというやつだ。
わたしは、この時点で「いままでわたしは人を信じていないと思っていたけれど、実は結構信用していたのだ」と気づいた。
わたしはこのフレーム問題となんとか折り合いをつけなければならなかった。
どうしたか。有り体に言えば無視である。信頼度が著しく低い情報には 0.000001などではなく、0を掛けるようにした。
ただし実際には「起こるかもしれない」と考えているので、起こってもそれに冷静に対処する必要がある。
「何が起こっても不思議ではない」と常日頃考えることで、不幸は解決できるだろう。
わたしは、人間とは、絶えず信頼性の低い情報を通信しあっている存在だと確信している。
人を信頼しなければ、コミュニケーションが不可と判断されて、あなたは著しいデメリットを与えられることになるだろう。
したがって、瑣末な問題、いわゆる重要性の低い問題ならば、信頼度の低い問題でも受け入れるまではいかずとも、否定する必要はない。
冒頭の「最近の女子高生でもNintendo64を知っているのだ」というようなものは、たしかに信頼度の低い問題なのだが、わざわざ否定する必要もない。
これはなぜか。
誤謬に陥っている人間に対して「あなたの結論は違う」と裁定することは、
多くの場合「結論を出すための評価方法が間違っていたのだ。評価方法が間違っているということは、そんな評価になるように経験してきたおまえの人生、ひいてはおまえの存在が間違っていたのだ」
と伝えることになる。
したがって、人の話を否定するのは、『良くないこと』と言われているのであると、わたしは思っている。
ついでに言うと、自分すら信用できなくなるので、いったい何を信用していいのかわからなくなるかもしれない。