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【KOSHIEN新世紀】高校野球事件簿 消えた大優勝旗2015年11月10日 100年の歴史の中には、大優勝旗が消えた大事件がある。61年前の中京商(愛知・現中京大中京)だ。世間を騒がせた84日間の結末は…。また、当コーナーの取材で今回明らかになったのが「呉港中2枚の銅板の謎」。甲子園事件簿に迫った。 (文中敬称略)
54年夏・中京商84日間にわたって優勝旗が消えたことがある。1954(昭和29)年夏の第36回大会を制したのは、名門・中京商だった。エース中山俊丈を擁して、5度目の全国制覇。盗難事件が発覚したのは、決勝戦から3カ月がたった11月23日だった。 卒業の記念写真を撮ろうとあらゆる競技の優勝旗を保管していた校長室に、軟式野球部員が入ったところ、あるはずの優勝旗が消えていた。 野球部員だけでなく、職員、一般生徒も動員して、校内はもちろん、近隣の山まで捜したが見つからない。警察にも被害届を出し、昭和署が中心となって殺人事件並みの態勢を敷いたが、手掛かりもない。ついには同校後援会が10万円の懸賞金を出す事態にまで発展した。 発覚を遅らせようと思ったのか、盗まれたのは旗だけで、残ったサオには別の旗がつけられていた。そんな手口から「野球部に恨みを持つ者」だとか「内部の仕業では」という推理が出回った。 「あの人じゃないか、この人が怪しいんじゃないか…。そんな話はあちこちで聞きました。僕たちも疑われましたよ。警察の人から『おまえたちが持って行ったんだろ?』とか『隠したんじゃないのか?』と言われました。悲しかったですよ。僕たちが死に物狂いで取りにいった旗なのに、盗んだりするわけがない」 61年がたった今も、中山は苦しい表情になる。関係者にはすべて事情を聴いたのだろうが、少年にはそんな理屈がわかるはずもない。 84日目の発見
迷宮入りかといわれた事件が、急転したのが翌55年の2月14日。同校から約500メートル離れた名古屋市立川名中で発見された。校舎床板の修繕に来ていた家具商の近藤明(当時30歳)が第一発見者。紺の風呂敷に包まれ、床下で見つかった。近藤は「フニャフニャして赤いものが見えるので、はじめは子どもの死体かと思った」と話している。川名中職員が立ち会って、確かめたところ優勝旗だと判明した。 犯人分からず連絡を受けた滝正男野球部長と野球部員は猛ダッシュで駆けつけ、旗にすがりついて涙を流したという。ドラゴンズの入団が決まっていた中山も、キャンプ地で朗報を受けた。ただし、犯人は分からずじまい。この事件のミステリアスな部分は、翌15日付の中部日本新聞が伝えている。 『川島広之主将が盗難以来“1日も早く出るように”と日参していた某教の神官4人が(14日に)同校を訪れ“きょう中にきっと発見してみせる”と滝部長らに語っていた』、『13日に某所へ“うらないによるとあす優勝旗が出る”と投書がきていた』…。 大らかな時代ではあった。「当時は許可さえあれば、旗を持って出てもよかったんです。出身の中学に『あいさつしてこい』とか。つぎはぎだらけだったのは覚えています」。中山はこう話したあと、ある“告白”をした。 「旗の房をね、僕も1本抜き取ったんです」 当時の球児は「房がお守りになる」と信じていた。こちらは優勝のご褒美と言っていいだろう。 (渋谷真) ◆優勝旗 その色からセンバツは「紫紺」、夏は「深紅」といわれる。「深紅」は西陣織で作製費は1500円。「家が1軒建つ」といわれた。房が抜き取られ、傷みが目立ってきたことから第40回大会に新調。「初代」は大阪市の中沢佐伯記念野球会館に保存されており、大会期間中は甲子園歴史館で見学できる。なお、優勝校は翌年の大会で返還し、レプリカを受け取る。中京商の盗難事件以降は管理を厳しくする学校が増え、現在はほとんどの優勝校が銀行の金庫などで保管しているようだ。 あるはずのないレリーフ製造は1枚なのに…学校正門脇と甲子園歴史館に存在
34年夏・呉港中戦後ずっと眠っていたままで、関係者も知らなかった「甲子園ミステリー」が、今回の取材で掘り起こされた。舞台は呉港中(現呉港高)。のちのミスタータイガースとなる藤村富美男を擁して、1934(昭和9)年夏の第20回大会を制した。 野球塔があったこと。そこには優勝した20校の銅板があり、現存するのは3校であること。ここまでは以前から関係者には知られていたが、今回判明したのは「3枚」ではなく「4枚」だったという新事実だ。1枚は広島県呉市の同校正門脇に、記念碑として飾られてある。ところが甲子園歴史館にも保存、展示されているのだ。 関係者も仰天作製は各校1枚ずつ。当然ながらどちらの関係者も自分たちのが本物だと信じており、この事実に驚愕した。78年に入学し、野球部OBで現在は教諭の寺田保浩が、当時の監督・宇都宮哲朗、部長・松田稔彦らに確認したところ、75年前後には校内の展示室にあり、校舎を建て替えた81年に、記念碑として整備されたという。ただ、持ち込まれた時期や経緯は不明。藤村が持ち込んだのではないかという説があったが、定かではない。 一方の甲子園歴史館のものは、日本高野連理事の田名部和裕によると、68年ころに大阪府箕面市の開業医が古物商で見つけて買い取り、高野連に寄贈したという。ただ、同一校の銅板が2枚現存するのも不思議だが、それ以前の経緯もミステリアスだ。戦後20年以上たって、何と甲子園浜でうち捨てられていた数枚の銅板が発見された。そのうちの1枚が、古物商に流れた呉港中のもののようなのだ。 20年もの空白空白の20年。「銅製でもあり、劣化も少ないことから、ずっと浜にあったとは考えづらい。誰かが保管していたのでは」というのが甲子園歴史館の推論だ。そもそも軍部に供出されたはずの銅板が、なぜ一部だけ残っていたのか。少なくともどちらかが複製されたことになるが、誰が、何のために。甲子園浜に破棄した理由は…。 呉港中の2枚の真贋(しんがん)論争をすることに意味はないだろう。どこかの野球ファンが、栄冠の証しを惜しみ、数枚だけは守り通せた。そんな話の方が、ロマンを感じるではないか。 (西下純) 【へぇ〜】応援バスで到着の人たちが最初に目にする「甲子園」第3代「野球塔」
1934(昭和9)年に夏の選手権が20回を迎えたのを記念して、甲子園に「野球塔」が建てられた。球場北東の松林内で、現在の甲子園警察署付近にあたる。高さ30メートル、2500人が収容できる円形の劇場になっていた。 開幕前日には、全出場校の選手と大会役員が出席して「茶話会」が開かれていた。最上段にある20基の柱には、第1回から20回までの歴代優勝校と選手名を刻んだ銅板がはめ込まれていた。ところが戦時色が強まり、付近に飛行場ができたことから「高い建物は飛行の邪魔になる」と塔は撤去。空襲により列柱も崩壊した。銅板は軍部に供出され、現存する銅板は3校分。野球体育博物館で展示されている第2回の慶応普通部、13回の高松商、そして呉港中だ。 センバツが第30回を迎えたことを記念した第2代の「選抜高校野球塔」が完成したのが58年。平成のリニューアル工事により2006年に撤去された。現在ある第3代が完成したのは10年。左翼スタンド後方「甲子園歴史館」入り口にあり、高さは15メートル。応援バスで到着した人たちにとっては、駐車場から歩いて最初に目にする「甲子園」である。 ◆お知らせ KOSHIEN新世紀では、高校野球ファンの皆さまにアンケートを行っています。項目は(1)過去最強チームはどこか(2)歴史に残る名勝負は?(3)好きな高校球児の3点です。結果を集計、分析して24日付紙面で記事化します。はがきに〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号とアンケートのそれぞれの答えを明記し、〒460 8511 中日スポーツ「KOSHIEN新世紀アンケート」係まで。メール(nsupo@chunichi.co.jp)でも受け付けます。ご協力よろしくお願いします。 (次回は11月24日掲載) PR情報
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