・マインド・コントロール
少数の人間が人類の大多数を支配したり、意のままに動かしたりしたいと考えるとき、どのような仕組みが必要になるだろうか。それは操作しようとする相手が個人であれ家族であれ、民族、町、国家、大陸、あるいは惑星全体であろうと同じ仕組みが必要となる。
まず必要なことは、正しいことと間違っていること、できることとできないこと、正常と異常、そして何が善で何が悪かを決める常識という「規範」を定めることである。ほとんどの人間は、少なくとも数千年来にわたり、人類に広く浸透した「大多数に従う」という群集心理のために、疑うことなく差し出されたものに従うだろう。
次に、与えられた「規範」に逆らう者に、罰として極めて惨めな生活状態に陥れる必要がある。そのためにもっとも効果的なのは、他人と異なることをすることを罪悪と感じさせることである。そのようにして、「与えられた真実」とは違うものの見方や考え方、生き方をする者を、白い羊の中の一頭の黒羊のように人々に目立たせる。
そして、すでにその「規範」を受け入れて条件付けされた無知で傲慢な群れは、異なる生き方をする者を笑いものにし非難する。このような群集からの圧力が、群れから離れようとするものへの警告として用いられる。日本のことわざに、「出る杭は打たれる」という言葉にある通りである。
こうした仕組みが、少数支配に必須の、一般大衆による管理のもとに必要な状況が整う。その他大勢の羊を管理するために選ばれた「黒い羊」は、群集にとって牧羊犬のような存在となる。それはまさに、逃亡しようとする囚人を周りの囚人が押し留めるのに似ている。なぜならほとんどの人間は、自分が何の疑いもなく従っている規範を、他のすべての人々にも従わせようとするからだ。
日々、これと同じことが互いの間で行なわれている。
これはほとんど心理的拘束であり、これがあらゆる家庭やあらゆる場所で行なわれることで、まさに思想警察の工作員が送り込まれているようなものだ。しかし彼ら工作員はすでによく条件付けされていることから、自分たちのしていることがマインドコントロールであるという意識はない。
「我が子にとって正しいことをやっているだけだ」と彼らは言う。
しかし事実はそうではなく、彼らは与えられて受け入れた「規範」が正しいと信じ、自分は物事をよくわかっていると思い込むよう”プログラム”されているだけなのだ。
誰もが、ほかの誰かの精神的、感情的、あるいは肉体的な監禁のために一役買っている。支配者たちはしかるべき時に糸を引くだけで、そのために使える人間を踊らせることができる。そのために利用されているのが、私たちが「教育」と呼んでいるものや、彼らが所有するメディアから発信される「ニュース」である。
こうして彼らは、考えることも疑問を持つこともなく、見たり聞いたりするものを大人しく信じる大衆に、人生や歴史について、時事問題について、信じるべき事柄を与え、規定する。このようにして一度社会の規範、常識というものが形成されてしまうと、ジャーナリストや、メディアのレポーター、政府の役人などをいちいち操作する必要はない。
いまやメディアなどさまざまな組織が、同じ規範に基づいて「真実」というものを規定し、それとは別の視点を持つ人間を非難し、排除する。このように何を「正常」とし、起こり得る範囲を調節するだけで、彼らのシステム全体が事実上、自然に動いていくのだ。
やらせの爆弾テロや集団殺戮を引き起こし、解決と称して軍事力を強化する
何か良くないことが起きると、我々は常に他の誰かのせいだと考えてしまう。世界で何かの問題が発生すると、我々はいつも条件反射的にこう言っている。「いったい彼らはどう対処するつもりだろう」と。ところが実はこの「彼ら」というのが、ほとんどの場合、意図的にその問題を作り出した張本人なのだ。
そして彼らは、何とかせよと言う大衆の「反応」に応じて、前もって準備しておいた「解決」策を実施するのだ。このようにして人々の自由はより侵食され、権力の強化と集中がさらに推進する。
つまり、警察や保安局や軍隊の軍事力を強化したい時は、テロなどの暴力犯罪を頻発させ、人々の方から治安の強化を求めてくるように仕向ければよい。この方法を使って、彼らはこれまでにもさまざまな法案や目的を達成してきた。略奪や爆弾テロの恐怖に翻弄される人々は、自分の身の安全と引き換えならば、あっさり自由を明け渡してしまうだろう。
私はこのような彼らの手法を、「問題―反応―解決」戦略と呼んでいる。まず問題を作り出して、何とかしてくれという人々の「反応」を引き出す。そしてすでに考えてある「解決」策を提示し、それを実行するのである。これはフリーメイソンのモットーでもあるが、「混乱を通じての秩序」という一言に集約される。当然、その秩序とは、彼らにとっての望ましい秩序である。
大衆は、さまざまな形の感情的、精神的なコントロールを通じて、家畜の群れのように扇動される。彼らの立場になれば、確かに少人数で、膨大な数の群集を支配するには、マインド・コントロールしか方法がないはずだ。世界中の人々を物理的にコントロールすることはできなくても、しかし精神的、心理的にコントロールすることは可能だ。
もし世界中の人々の考え方に影響を与えることができるとすれば、人々にさせようと考えていることを、大衆自身が「決断」して行なわせることもできる。彼らが導入したい法案を、人々の方から要求して来るようにさせることも、当然可能である。
「人に何かをやらせたいならば、それが本人自身の考えだと思わせることだ」という古い格言がある。そして人類は、すでにマインド・コントロールの渦中にある。それはゾンビよりは、ややマシというレベルだ。「人々の思考を操作し、いかにも自分がそれを判断したかのように、操作する者の意図に応じた行動をとらせてしまう」、これがマインド・コントロールの定義だ。
こうした観点から見るとき、どれだけの人がマインド・コントロールされているかよりも、マインド・コントロールされていない奇特な人が、まだいるのだろうか、と考えるほうが当たっているだろう。つまり、程度の差こそあれ、ほとんどすべての人々がマインド・コントロールの中にいるということだ。
仕方がない、なんてことはあり得ない
彼らが支配する新聞やテレビのニュースを、疑うことなく受け入れているならば、あなたのマインド・コントロールは確実だ。軍隊の訓練は純粋なマインド・コントロールだ。軍隊に入ったその日から、「上官の命令には絶対服従」となる。もし上官が見ず知らずの人を「撃て」と命令したならば、あなたは一切口答えすることなく、その人を狙撃しなければならない。これを私は、「イエス・サー」メンタリティーと呼んでいる。
そしてこのような精神的、心理的傾向は、軍隊だけでなく外の世界にもすでに蔓延している。こんなセリフが飛び交っていはしないだろうか。「よくないことはわかってる。だがボスがやれと言うんだ。仕方ないよ」 仕方ないだって? 仕方がないなんてことは絶対にない!
我々は常に自分の意志によって、自分のすることを決められる存在だ。
選択の余地がないなんてことはあり得ない。仕方がないなんて、それは単なるいい訳に過ぎないのだ。
マインド・コントロールのテクニックは無数に存在している。
彼らは間違いなく、あなたの精神を狙っている。なぜならあなたの精神を手に入れることができるならば、それはあなたのすべてを手に入れたも同然だからだ。そしてすべては、我々が自らの精神を取り戻すことができるかどうかにかかっている。
自らの力で考え、また他人が独自の考え方をすることに寛容であることだ。
そして他人から、「みんなと違っている」と非難されたり、嘲笑されたりすることを怖れてはならない。また逆に他人に対しても、普通とは違った考えを持つ人を白い目で見たり、その人たちを萎縮させるようなことも決してしてはならない。
すべての問いは、自分は自由な「人間」になるのか、それとも「家畜人」のままでいたいのか? ということであり、それを決めるのは自分なのだ。
Children of the Matrix
『竜であり蛇であるわれらが神々 上』 デービッド・アイク著 徳間書店
THE BIGGEST SECRET 『大いなる秘密 爬虫類人 上』 デービッド・アイク著 三交社
抜粋