誰が言い出したのか知らないが、右翼・保守界隈でかなり多いようである。
主張例
どうウソか
野村修也、櫻井よしこ氏と同種・類似の主張
主張例
野村修也 @NomuraShuya
池上彰さんも、私と同様の認識です。「現在の中国の公認の歴史では、この国共合作で共産党は日本軍と激しく戦ったということになっていますが、実際に日本軍と真正面から戦ったのは、国民党の軍隊でした。」(池上彰『そうだったのか!中国』(集英社文庫、2010年)
右の主張における歴史修正の筆頭は中国共産党が日本軍と戦ったという点であろう。日本軍と戦ったのは国民党軍で、彼らは日本軍に対しては連戦連敗だった。共産党軍は日本軍とは戦っていない。なぜなら彼らはひたすら逃げたからだ。従って中国共産党軍の働きが日本軍を敗北させたという王氏の主張は、国民党だけでなく連合国側のひんしゅくをも買うであろう。
http://yoshiko-sakurai.jp/2015/09/12/6125
どうウソか
極秘 方軍特報第三五号 杉山部隊参謀部 二月十六日
北支に於ける共産軍の兵力及装備
一、第八路軍の一月現在人員(遊撃隊及傷病者を除く)及兵器弾薬、馬匹、現在数左の如し
1、人員
将官 三五
長上官 一二八九
尉官 五八二四
下士官、兵 一一二五三〇
計 一一九六七八
2、兵器
小銃(歩兵銃及騎兵銃) 六二八四七
重機関銃 一四一
軽機関銃 九〇八
自動小銃 一三二
手機関銃(原文) 一五
花機○銃(原文) 四五
○○銃 三四六〇
拳銃 七四五
迫撃砲 八二
平射砲 六
信号銃 一五三
擲弾筒 二〇
3、弾薬
小銃弾 二〇八七九八一
重機関銃弾 三六二五七
軽機関銃弾 一五一六〇〇
自動小銃弾 二六四〇〇
手機関銃弾 一二四五〇
花機○銃弾 二二五〇
○○弾 五一九一五
拳銃弾 七四五
迫撃砲弾 二〇〇〇
山砲弾 三〇〇
平射砲弾 一〇〇
信号弾 五六一
擲弾筒弾 一〇〇
手榴弾 一二四五七
4、器具
剣 二三〇七九
刀 (乗馬本分者用) 四一五二
工作器具 五七四五
防毒面具 五八四九
5、馬匹
乗馬 三四二一
駄馬 三〇五四
騾馬 一八二一
二、討伐の結果観察し得たる二、三、の経験
1経験
1、川村兵団の二月上旬に於ける和順、遼県方面討伐に際し一二九師及一一五師の三四三旅と戦闘せる結果に依れば敵の装備は優秀にして弾薬豊富なるのみならず其の戦意比較的旺盛なり
2、篠塚兵団の二月二日広宗に於て一二九師の一部と戦闘せる結果に依れば敵は装備優秀にして頑強に抵抗せり
3、一月末本間兵団永見部隊の河間付近に於ける討伐に際し共産軍の行動に関し得たる感想左の如し(薄井大尉報告)
河間付近に於ける共産軍(遊撃隊)は従来の支那軍に比し稍々異色ありて団結訓練の強化を察知し得べき点左の如し
イ、勇敢にして自軍の死体を乗越へて前進し果敢なる突撃を実施す
ロ、遺棄死体(山口隊と交戦せる)の大部(一二〇)は日本軍服を着し背嚢又同じ 残置せる小銃は大部分菊の御紋章入なり
ハ、日本語を解し「日本軍の馬鹿」「下れ下れ」「大砲を置いて下れ」等を巧に使ひ分く
二、日本軍前進する時は付近の部落に隠れ深く前進せしめて一斉に逆襲に転ぜしむ
ホ、装備優秀にして山砲、迫撃砲、自動火器等優良なるもの多し
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方参特報綴 昭和14年1月
第一四、対八路軍戦闘に於て我が警備隊(今次作戦警備を交代せる坂井大隊)の得たる参考資料一、南関鎮に於て交戦せる敵は第一二九師第三八五旅第七六九団独立第一団及独立第二団にして南関鎮警備隊の「トーチカ」の数米前迄近接し来り「馬鹿野郎」と呼び手榴弾を投擲し其の位置を動かざりしが如き勇敢なる敵兵多数を見たり(坂)二、南関鎮警備隊に於ては風向を利用し「あか筒」を使用せしに其の風下に在る敵部隊は終日近接せざりし事実より見て瓦斯に対する装備訓練は充分ならざるものと察せらる(坂)
三、夏店鎮地区に於て今富隊と交戦せる敵は第一二九師に属する新編第三八団(青年抗敵決死隊)にして一ヶ排に「チェッコ」軽機若くは自動小銃一、一連に重機一、小銃は各人一、手榴弾は各人二―三個を携帯しあり弾薬は比較的豊富なりしも捕虜の言に依れば編入後間もなき兵員及年少者多数を含みありと云ふ(坂)
四、我が鉄道道路通信線を破壊するに当りては穏〔ママ〕密と強行との二方法を採用しあり
即ち兵力大なるときは破壊点の両側にある我が警備隊を攻撃し其の出撃を阻止したる後予め連行せる多数の苦力を使用し破壊を強行す
穏密破壊は夜間暗黒の夜を利用し我が警備隊より遠く離隔せる個所を選定す
而して月明時は之を避け暗黒の夜を選定し其の実施時刻は前半夜二十三時前後、後半夜一―二時頃及夜明ヶ二時間位前の三時機最も多し
五、敵の夜間行動は迅速静粛にして引上時の如きは照明弾又は喇叭の吹奏等に依り一斉に行ふを常とす
六、敵の退却時の戦法は数組の「チェッコ」軽機自動小銃等を有する収用部隊をして交互に要点を占領せしめ主力の退却を掩護するを其の慣用戦法とす
而して主力と常に四、五百米の距離を有し其の距離を保持する為には我が猛攻撃に対しても容易に退かず
七、 兵力の偽〔ママ〕瞞と我に目標を捕捉せしめざる為絶へず移動し射撃し居りたるを随所に於て目撃せり
八、警備に当るべき部隊特に小分駐隊の如きに対しては努めて重火器(押収迫撃砲重機の如き)を配当することの緊要性を痛感す之小分駐隊に於ては兵力小なるを以て出撃人員を出来得る限り多からしむる為には残置すべき火器を必要ろするを以てなり(坂)
九、警備に当るべき部隊は敵の潜行諸工作に対抗し之を撃破する機関を必要とす
近来共産軍は軍隊を以て直接工作を避け政治的手段に依り其の勢力圏の拡大を図らんとしつつあり故に警備隊は単に支那側の機関を利用するのみならず自ら敵の諸工作に対抗し之を撃破する如き機関を持つこと必要なり特に諜報網宣伝謀略網方面に於て然り(坂)
一〇、我が部隊が笠原及青砥部隊より其の警備を申受け極めて広大なる地域の警備を担任するに当り各警備隊の兵力に適応する如く急速に変更せしむると共に諸工事を一層増強せしめたり 今回有〔ママ〕勢なる敵との交戦に際し勇敢に戦闘し得たる一因なり(坂)
一一、特務兵を多数有する部隊等に於ては動もすれば弾薬の乱射に陥り威嚇の為盲射を為す悪習あり
一二、常に兵器を整備し完全なる兵器を以て戦闘し得る如く点検し置くこと肝要なり
重擲弾筒に付一例を述ぶれば外鏍の緊定不充分なりし為戦闘中外鏍外れ射撃不能に陥りたるものあり幸に紛失することなく柄棹内にありたるを以て直に結合し射撃を継続するを得たるも好機を逸したることあり
(以下略)
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春季晋南作戦の教訓 昭和15年6月
つよさ戦詳第十号
自昭和十三年九月九日
至昭和十三年九月十日
小石庄付近に於ける戦闘詳報
独立混成第二旅団
独立歩兵第四大隊柴本小隊
(五)行動並戦斗経過
7、小隊主力として馬匹掩護を命ぜられたる橋本上等兵以下二〇名(内一名衛生兵)は五時半過三世斥候及小隊長方面に銃声を聞くや続いて南方より一〇〇余名の第八路軍進出し包囲攻撃し来る橋本上等兵は直ちに馬匹を高粱畑の中に入れ小溝を利用し円形陣を作り西正面(一二名)を自ら指揮し東正面(八名)を川津上等兵に指揮せしめ之が撃退に努む敵は次第に増加し来り西南方高地より機関銃射撃を行ひ猛烈に攻撃し来る漸くにして日没に至り敵を撃退し得たり恰も十六日の明月東天に昇り視野を大ならしむ二十時頃一〇〇余名の敵喇叭を鳴らし四周より夜襲し来る敵は極めて勇敢に陣地前十数米の地点迄近迫し来るも橋本上等兵以下克く奮斗し遂に之を撃退せり
二十二時過敵約一五〇再び陣地を包囲夜襲し来るも之を撃退し得たり
(七)参考となるべき所見
1、第八路軍勢力下の地方に於ては住民威を怖れ或は買収せられ之が言を信ずれば大なる失敗を生ずるに至る充分注意するを要す
2、第八路軍は相当勇敢なり特に我が劣勢なりと見極めたる場合に於て益々然り
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独立混成第2旅団独立歩兵第4大隊関係戦闘詳報 昭和13年9月9日~昭和14年5月17日
第四節 交戦せる敵の兵力、団体号、将帥の氏名編成装備素質戦法
其一、敵兵力団体号
一、大道付近の戦闘
約三百名 八路軍〔細部不明〕
二、双峯鎮付近の戦闘
三、〇〇〇余名(遺棄屍体及戦闘正面等より推算するときは尚多数なりしと判定するも第一線各隊の目撃せ●兵力を基礎として算定す)
八路軍一二九師三八六旅
八路軍新編第二師?
沁県遊撃決死隊三十六団
山西決死隊及其の他の雑軍
三、岳家庄付近配属輜重隊の戦闘
約三百名 八路軍〔細部不明〕
四、輝教付近
一一〇〇余名 八路軍十旅二十八団
五、中北嶺
一〇〇余名 所属不明
其二、編成装備
一、敵軍の編成装備付表第一の如し
其三、素質戦法
由来八路軍は中央直系軍に比し素質劣弱にして戦法も亦概して迫力に欠くるものありと判断せられありしも今次作戦必ずしも然らざるを知れり即ち
一、作戦開始の当初より有力なる敵は北峯上を中心とし其の北方広地域に陣地を占領し太谷おり范村鎮を経て儀城村に(?)通ずる我兵站線路襲撃の機会を窺ひありしものにして我鳴海永野両支隊が進攻作戦途中八月三十日、三十一日両日に亘り一撃を加へたる際は逐次抵抗の形式を以て決戦を避け其の主力を暴露することなく而も執拗に潜伏待機しありて九月四日糧秣補給の為め范村鎮より彭●庄に向ひ前進中なる山元輜重隊に対し奇襲し来たりしは其の遊撃戦の本旨を遺憾なく発揮せしものと謂ふべし
二、双峯鎮付近の戦闘の起因に就て考察するに前項の敵は(?)山元輜重隊襲撃後我反転作戦の重点が太谷、儀城村道以南地区に移行するのを推知し之を逃避すべく全力を挙げて南進中長野支隊主力と遭遇し退路打開の必要上並に支隊の兵力寡少なりし関係上茲に本格的戦闘を決意せしものと判断せらる。
三、双峯鎮付近に於て交戦せし敵は夜間多数の喇叭、呼笛等を用ひて前進後退突撃等を区所〔ママ〕し猛烈果敢に突撃を反覆せり。
四、敵は兵力の優勢に恃みて盛に包囲を実行するも其方法たるいや所謂「伸べ膏薬的にして迂回奇襲的に不意に現出するの着意に乏しきものゝ如し。
五、敵には督戦隊あるものゝ如し〔後方の銃声喊声喇叭小笛等に依りて判断す〕。
従って突撃部隊は所謂死物狂的に行動せるを見ることあり。
六、敵は突撃に当り手榴弾を投擲する者と銃剣を以て突撃する者と二ケ班に分け(?)あるものゝ如く投擲班は三四十米以内の近距離迄前進し携行せる手榴弾全部を連続的に投擲し突撃を支援し突撃班は手榴弾投擲を機として突撃を発起せり。
七、敵陣地に対しては白兵突撃にあらざれば成功困難なり。
我が突撃に対しては手榴弾を投擲して頑強に抵抗し該陣地奪取せられたる後と雖も手榴弾を投擲しつゝ執拗に逆襲を反覆せり
八、敵は退却に当り一部を残置して或は手榴弾を投じ或は盛に射撃を敢行して其の退却行動を偽騙すると共に之が収容に任ぜしむるを通常とす。
九、敵の戦死傷者兵器等は夜間或は我が射撃の間断等を利用し
努めて収容後送せり。
双峯鎮付近の戦闘に於て第一日たる九月六日非昼間我機関銃陣地の直前には無数の敵屍体ありしも翌朝に至り其大部は撤去しあるを見たり。
十、八路軍は目下弾薬相当欠乏しあるものゝ如く喧伝せられあるも依然火力戦を主体とし稍々濫射の傾向あるも一般に狙撃に長ず。
迫撃砲弾は補充豊富ならざるものゝ如く其の射撃熾盛ならず敵は特に夜間好んで小銃及機関銃射撃を実施す。
備考
捕虜の言に依れば新編第二師中には最近中央軍より改編せられたるもの多しと。
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歩兵第224連隊第2大隊 晋中第1期作戦戦闘詳報 昭和15年8月23日~昭和15年9月15日
将校研修資料第五六号
赤軍正規軍に関する見聞
三月末当地に新任当初対共匪注意事項を研修資料を以て教示せしが其の後浅川部隊に於ては暖泉鎮南村付近に於て其の正規軍第百二十師の一部と二、三度交戦し更に七月八日に於て北水泉に急襲を大王城に待伏せを喰ひたり・・・
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将校研修資料 昭和13年4月~11月
聞込みたる話
一、共産軍の情況
大同西南方面の共産軍に関し信拠すべき応戦将師の談によれば
1、共産軍の主体は青年兵にして二十歳未満多く極めて勇敢にして寧ろ決死的戦闘を為す
以上の如くなるを以て決して恐るゝの要なきも少しも侮るを許さず
我軍は市街に入りて内地式或は満州式生活訓練を行ふ 彼れは極めて分散して質実剛健決死の実戦的訓練生活を行ひ真に我が軍の裏を掻かんことに大なる智能を絞りて来れり。
我軍は単純なる典令戦闘を正直に秋季演習の如く行ふ 此の点が非常に注意すべき点なり
我隊は後備兵は上海方面にて凱旋せしが為に余程元気を失ふ、又少数兵力にて常に数倍以上の優勢なる敵と南進北転して戦ひつつあり、従って相当の疲労あり又損害あり、彼れは新手に新手を用ひ年少決死の兵を以て来る、此の点今日大いに我等が考ふべき事にして特に我が隊の如きは今日昿古の重責に直面しあることを思ひ一意聖勅を奉体して門出の決心を益〃強化し軍紀を振作し団結を強化し早く土地に慣れ幹部の能力を向上し真剣に実力を蓄へ必勝の戦力を発揮すべきことを忘るべからず。
2、敵の戦闘法
此件は聞き込める話第八号蒋介石の誘撃作戦要領の五項目に存し特に夜間攻撃を用ひ 手榴弾攻撃を加へ 指揮官(本部)を覘って来るが如く又待ち伏せ式奇襲多く 偵察に関しては極力密偵すぱい〔ママ〕の熟練せる手段によりて実行するものと覚悟すべきなり、と云ふ
此の夜間攻撃戦法に関しては先般石川大尉講和に示せる如くなるが尚若干耳新しき点を述ぶ
イ、城壁に登り攻め込み家根〔ママ〕伝ひに来る 城壁は高さ三丈位のものを敏活に登ると言ふ 器材は梯子を用ふ 実に我が決死隊と何等異らずと言ふ
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将校研修資料 昭和13年4月~11月
将校研修資料第五八号
盛に急襲奇襲すべし
先般蔚県地区に第八路軍の正規部隊が極めて上手に企画行動を秘匿して攻防の術を尽くしたるが又一方に於て目賀田部隊方面では至る所に或は払暁攻撃或は匍匐屈進近接或は雨天迂回前進等色々の手段を講じて敵を急襲しあることは又喜ぶ所なり。
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将校研修資料 昭和13年4月~11月
第一〇九師団電第一二七三号
一、金岡討伐隊は一月三十日奇村鎮平地(忻県西北方二〇粁)を討伐し合索村、西溝村、ワン付近に於て約七〇〇名の敵を撃破せり。
二、二月一日主力を以て陀羅村―三交鎮路ノ(ヲ?)一部を以て「ガセツソン」―楊家庄、三交鎮道を前進し一日正午ごろ主力を以て横●子、馬頭山付近に陣地を占領せる約三千の敵を攻撃激戦六時間にして之を撃破し一部は午前十一時ごろ楊家庄(忻県西方約十六粁)付近に陣地を占領せる約四〇〇の敵を撃破し次て馬家庄付近を占領する約二千の敵に対し頗る難戦後夕刻之を撃破し討伐隊主力を以て一日夜三交鎮を占領せり
三、敵の総兵力約五千にして軍服着せる共産軍第八路軍にして外国将校参加しあるものの如く三交鎮一体は悉く兵営に改築せられあり
四、敵遺棄屍体山地内にて詳細ならざるも目撃せるもののみにても約五〇〇名を下らず
五、三交鎮付近一帯兵営化せる村落は悉く之を焼却せり
六、討伐隊主力は三日午前忻県に帰還す
七、目下判明せる我損害は戦死下士官一、兵五、負傷将校一、下士官、兵七にして尚相当多数ある見込みなり
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第1軍機密作戦日誌 巻8 昭和13年2月1日~13年2月15日
北支方面占拠地域内敵兵力
年月 一五年一一月
共産軍
正規軍 一四〇
共産系遊撃隊及同色彩ある匪団 一六〇
小計 三〇〇
蒋系軍
正規軍 二五五
蒋系遊撃隊及同色彩ある匪団 五〇
小計 三〇五
単なる土匪 四
総計 六〇九
註
一、多田部隊参謀部第二課「北支那方面敵情及治安回復状況要図」より
二、単位 千
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北支那方面軍昭和16年度 粛正建設計画 昭和16年2月26日~16年4月10日
三、彼我の兵力並に交戦せし敵の隊号装備素質戦法及び特発の効果
1、敵 第八路軍独立第一師約二千(第二十五団 第二団 第二十六団)
我 編成表別紙付表其の一其の二其の三の如し
2、敵の装備は相当優秀にして第一線に進出せる敵兵には鉄帽を使用しあるものを相当数確認せり又極めて幼稚なるも防毒面様のものを所有しあり(遺棄死体より発見)
迫撃砲三 重機一 チェッコ十五、六を確認せり
手榴弾は極めて豊富に所有しあるも粗製乱造品多く約1/3は不発なり又炸薬極めて劣等にして破裂するもマッチ箱乃至一銭銅貨大に破裂し破片のため服破れ或は打撲を感じたる程度にして負傷せざりし兵多し 従来支那軍の使用しありし手榴弾より稍小型なり
3、素質又相当良好にして夜間は我が陣地に肉迫し手榴弾を投擲す昼間に於ける射撃の精度亦良好なり
4、戦法従来当警備隊を襲撃せる戦法を一変し暗夜を利用し各陣地に肉迫して手榴弾を投擲し一挙に陣地を奪取するの戦法を用ひたり又之に失敗するも執拗に肉迫攻撃を反復せり
昼間は我陣地周囲の高地に陣地を構築し狙撃し来れり又我占領せる以外の望楼は殆んど敵の陣地として使用せり
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独立混成第2旅団独歩第4大隊 第2中隊戦闘詳報 其の1 昭和15年9月22日~15年9月29日
独三旅電第一六六六号
一、外立支隊は昨二十五日新河南端に於て約五百名の八路軍を撃破し十二時架橋に着手せり
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第1軍機密作戦日誌 巻26 昭和13年11月1~13年11月30日
支那方面作戦記録 第一巻
昭和二十一年十二月
第一復員局
本記録は参謀本部戦史編纂部職員元陸軍中佐石割平造の編纂なり。而して戦史資料の大部は同中佐の記憶及び備忘録に拠り其の他各作戦に参加せし参謀等の手記及記憶を併用せり。
支那方面作戦記録第一巻目次
第一章 支那事変推移の梗概
第二章 太平洋戦争前に於ける支那事変経過の概要
第一節 事変勃発より武漢付近作戦迄
第二節 武漢作戦後より太平洋戦争勃発迄
第一款 武漢攻略後の作戦指導
第二款 在支兵力の整備
第三款 主要なる作戦
第四款 占拠地域に於ける新政府の成立
第三款 主要なる作戦
其の一 概説
敵は其の優勢なる兵力を以て我が占拠地域に対し其の全域を包囲して我に対峙す。其の配置は北支に在りては山西省西部に第二戦区、同省南方及河南省を第一戦区、中支に在りては西北部に第五戦区、西南方に第九戦区、揚子江下流地域の同江右岸地帯に第三戦区、南支に在りては第四戦区の諸軍を配置す。其の他共産第八路軍は陜西省延安付近に蟠踞す。
我が占拠地を包囲する敵は我軍と近く対峙して数線の陣地を設備し我が占拠地に通ずる主要なる交通線は悉く徹底的に破壊してわが軍の進攻阻止に努む。別に大規模にして組織ある遊撃部隊を我が占拠地域に進入せしめて後方攪乱を図れり。又尨大なる募兵及之が整訓を実施して大兵力を以て日本軍に対し大反攻を実施すべく其の機を窺ひつつあり。
右敵の行ふ我に対する対策中遊撃戦は兵力寡少の我軍の最も苦手とする所なり。殊に共産軍は其の行動巧妙にして山西省及び北平西北部等の山岳地帯に根拠を推進して我が治安を攪乱しありしが三六(?)我が占領全地域に亘り策動するに至れり。敵の行ふ攪乱工作の主なるものは我が分散配置せる警備隊に対する奇襲、交通線たる鉄道道路通信線の破壊、共産工作を推進、住民を我より離間せんとする宣伝等とす。
敵の遊撃戦に対し我が兵力配備の要領は敵有力部隊の攻撃を受けざる後方地区に於ては兵力を分散配置して民匪を分離し治安の確立に努めたるも有力なる敵と対峙する方面即ち山西省、武漢地区等に於ては各兵団は其の第一線を確保すると共に背後連絡線たる道路水路等を確保するため其の兵力の大部を使用し之を大観して所謂点と線とを確保するの状態なりき。
我軍は武漢作戦以後大なる進攻作戦を行はず結局に於て持久態勢のまま敵を屈せしめんとする作戦に終始せり。其の作戦を分類せば左の如く区分し得べし。
一、北支及揚子江下流地域にては我が治安を攪乱する敵を掃討する作戦行はる。特に山西省に於ては共産軍、中央軍等の数箇師又は数軍山岳地帯に割拠し之が討伐は屡々大規模にして実施せられたり。
二、武漢地区に在りては敵の戦力撃摧を主なる任務とせるを以て敵の戦力充実に先だち敵を攻撃して原駐地に帰還する作戦最も多し。
三、南支及中支沿岸に於ては主として敵の海外補給路遮断の為の作戦行はれ遂に仏領印度支那に迄進駐するに至れり。
四、敵総反攻に対する作戦。
其の二 治安確保すべき地域内の掃討作戦
治安粛清を確保すべき北支及び中支揚子江下流地域内にては敵は我が兵力の配置しあらざる地域に蟠踞して之を根拠として我が占拠地内の攪乱を図れり。之が討伐は師団以下の兵力を以て実施せるもの其の数枚挙に遑あらず。故に此の種作戦中最も顕著なるもの若干を掲ぐるに止む。
一、山西省内の掃討作戦
一九三七年十月山西省北部を翌一九三八年二月及三月に亘り其の南部地域の作戦を実施し主要なる鉄道沿線及潞安付近の敵は之を駆逐せしも其の際敵の大部省内山地に遁入し此等の敵は各所に割拠して其の得意とする遊撃戦を展開せり。殊に徐州会戦の際山西省方面より我兵力を抽出せるが為我が第一軍は各所に於て敵に圧迫包囲せられて苦境に陥りたるも徐州会戦後兵力増加に伴ひ主要幹線付近は我が領有する所となりしも五台山及潞安付近は共産軍等の巣窟となり依然治安を攪乱しつつあり。
一、五台作戦(挿図第三参照)
山西省を防衛せる我が第一群は先づ五台山付近の共産軍を撃滅せんとし一九三九年五月五台山の敵を四周より攻撃して之を駆逐し次で五台山の西方東方及南方に対し前後四次に亘り敵を攻撃せるも敵は巧に姿を匿して之に何等の打撃を与ふること能はず。即ち討伐は単に地点を攻略するのみでは効果を挙ぐるに足らず一家屋一谷地をも虱つぶしに抉出するにあらざれば討伐の目的を達し能はざるを常とす。軍は五台山に一部の兵力を駐屯せしむ。
(以下略)
(以上五台、潞安、晋南、晋中作戦の資料は戦時中参謀本部史実調査部付立花種勝大尉の「主要作戦の概要」なる手記より採る)
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支那方面作戦記録 第1巻 昭和21年12月調
「極秘」印
方軍参特方第一一号 昭和十四年一月十一日 杉山部隊本部
北支に於ける共産軍の現勢強化工作並民衆の抗日意識
第一 北支に於ける共産軍(党)勢力拡大の現況
一、最近方面軍作戦地域内に於ける共産軍の配置別紙要図の如し。其の中着目すべき現象左の如し。
1 正太線南方地域就中遼県、検社、
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方参特報綴 昭和14年1月
三、彼我の兵力敵組織名重要なる敵幹部の氏名敵の編成装備素質戦法(秘密戦法)等
(一)我軍の兵力
別紙第四編成表の如し
(二)敵の兵力組織名重要なる幹部の氏名
1、共産軍
晋察冀辺軍第十三軍分区第十一団
団長 不詳
兵力不詳
同 第十二団
団長 曽克林
兵力不詳
同 独立営
営長 楊思録
政治指導員 仲仁
兵力約四〇〇
同 第四区隊
区隊長 龍海航
政治委員 集(原文「隹」+「大」)樹平
兵力約三五〇
2、共産党機関
3、共産行政機関
(三)敵の編成
(四)敵の装備素質戦法(秘密戦)等
1、軍
第十一団、第十二団は冀東中共の基幹隊にして其の戦力認むべきものあり。各団は重機迫撃砲数門宛を具ふる直轄機砲連一ケ連あり機砲連の外各団独立営及第四区隊の各連は軽機及擲弾筒を有し小銃又は拳銃及手榴弾数発は全員に全備銃剣を有するものも多数あるものゝ如し。
兵員は強制徴募によらず遊撃地域内貧農階級の青年子弟が志願入隊せるもの多く概ね三ケ月間新兵訓練の課程を経戦闘員として各隊に属せしむ。排長班長級は軍分区教導隊の課程を経たるもの多し。幹部及隊内党組織の監察峻厳にして下級者は抗日宣伝及政治教育盲従し隊内秩律相当高度のものあり。各団及独立営は山地帯村落を根拠とし数ケ連毎に分散常時遊動し平地帯にては所在部落は交通遮断して情報封鎖を行ひつゝ機敏に移動しあり。敵の攻撃目標は中国側武装団体にあるものゝ如く綏靖軍、保安隊に対し各種大量の反正宣伝文の撒布送越部内に連絡する内応工作等表裏よりする反正政治工作及之と連繋する謀略的武力攻撃を執拗に行ひあり。又劣勢なる中国側部隊日軍小部隊に対しては埋伏掩撃等謀略的奇襲を加へんとするも有力部隊に対しては専ら交戦を避け我屡次の討伐作戦にもその大なる機動力を以て巧妙に包囲圏内より逸脱しあり。
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レファレンスコードC13032077300(1~8枚目)
北支那特別警備隊第3警備大隊 第4中隊戦闘詳報 昭和18年9月20日~19年6月9日
(四)共産軍の活動状況及び国共関係
(1)第八路軍及新編第四軍の活動
共産第八路軍及第八路軍系遊撃隊の活動は晋察冀を中心とせしが其の組織益々巧妙拡大し山東方面は共産軍の進入なかりし所十三年秋季以来逐次頭角を顕し最近第八路軍系の遊撃支隊の活動及政治工作は諸所に現出し又中支方面にある共産新編第四軍は河南、安徽、江蘇方面へ逐次その勢力を北上せしめつゝありて治安の天癌を成形しあり。
アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC11111669400(11・12枚目)
方参特報綴 昭和14年1月
極秘〔参考〕民心の把握と我等の反省北支極第二九〇〇部隊乙第三五〇〇部隊複写本資料は昭和十八年一月十六日実施したる連、大隊長教育の際に於ける「聖戦目的の体得具現」及「軍紀の確立」と同一趣旨なるも一般的兵に対する敷衍教育資料として配布す昭和十八年二月第一軍参謀長 花谷正民心の把握と我等の反省第五、民心把握上皇軍の著意すべき事項
七、民心把握と対敵行動との関係に就て
・・・然し直ちに勇敢にと謂ふことは、敵の兵力や状態の如何に拘らず、捜索も警戒もしないで猪突猛進せよといふことを意味することではない。特に八路軍の如き抗日意識極めて旺盛にして政治的思想的戦術に特技を有するのみならず、武力戦法に於ても相当見るべきものを持つ敵に対して然りと考ふるものである。八路軍の戦法を改めて詳しく申述べる必要はないが、要するに其の特徴とする所は、地上に於ける僅少なる武力の行使と、地下民衆工作とを併用し、同民族たる有利なる地位を利用し、巧妙なる宣伝、教化、懐柔と厳罰の威嚇とを以て地下に於ける民衆の獲得圏を逐次拡大し日本側の弱点を求めては獲得したる民衆と、地上武力とを集結使用して、日本軍又は華側の抗戦力を破碎することを努めて居る。要するに彼等の目標は抗日民心の把握であり、抗日人的資源の獲得に在る。武力戦の部面に於ても山岳其他不毛に近い地に根拠を持ち、困苦欠乏に堪へ、極めて困難なる環境に追ひ込まれても、反覆執拗に反抗し或は巧みに他の地域を開拓し止むを得ざるも耐忍持久戦機の到来を待つ、又よく創意工夫して相手の意表に出づること、機動力に富み命令一下よく集散離合すること、相手の弱点を看破して巧に之を突くこと、相手を誘致して之を包囲殲滅に導くこと、一兵に至るまで生命にかけても軍の秘密を厳守し口外せざること、厳重処断の励行によるとは言えへ軍律が厳守せられて居ること等は我等の大に参考とするに足るものがある。アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jpレファレンスコードC13032273700(12・13枚目)民心の把握と我等の反省
日本軍に対し、山西省では中国共産党の軍隊・八路軍が山などの地形を巧みに利用したゲリラ戦を展開。宣伝工作によって住民を次々と味方につけていた。日本軍が確保できたのは、資源を運ぶ鉄道と拠点となる町や村だけだった。限られた兵力で広大な地域を支配するため、日本軍は部隊を少人数に分散させ「分遣隊」として配置した。こうした分遣隊は、わずか十数人で8キロ四方を受け持つ場合もあった。
大同の石仏で名高い山西省の山の中で、日本軍は八路軍(注1)と対峙していた。長期持久戦であるから、食糧も衣料も自給自足しなければならない。日本軍はともかく戦線の背後に鉄道を持っていたが、相手方の背後には、陜西省の山岳地帯と万里の長城がひかえているだけである。そんなところで持久戦を遂行することは日本軍としては、ひじょうに困難で、もし敵味方ところを変えてみたらどういうことになったか分からないような情況であった。というのは、八路軍の陣地線はえんえんとつらなる、まったくの岩山であったからだ。そこに、かれらは土を運んできては盛った。そして種をまいた。この変化の模様は空中写真でよく分かった。わたくしがその戦線をおとずれたとき、第一線の司令官もこれには舌を巻いてその写真を見せてくれた。
また、かれらの対民衆、ことに対婦人軍紀はおどろくほど厳粛であった。ある北支軍の参謀は「八路軍の兵士は男性としての機能が日本人とすこしちがうのではなかろうか。」とさえ語った。読者はこれを笑い話とお考えになるかもしれないが、当時としては、けっして笑い話どころのさわぎではないのであって、これを裏がえせば、とりもなおさずわれわれの軍自体に対する痛烈な批判にほかならなかったのである。これはたんに精力とかイデオロギーの問題だけでなく、罰則の軽重ということに重要な原因があったとわたくしは思う。しかしいろいろの例から見て、たんに罰則だけで人間の集団の行動を律することは一時的にはできるが、長つづきはしない。長つづきさせるためには、なんとしても心理的なエネルギーを燃え立たせなければならない。日本軍の非聖戦的行動が中国人の敵愾心を高めたことは疑う余地もない。しかし、わたくしにはそれだけですべての問題を解くことはできなかった。そこにのこったのは、八路軍独特の情熱の根源の問題であった。こうした大きな疑問をもったままで、わたくしは終戦を迎えたのである。
(三笠宮崇仁「帝王と墓と民衆 オリエントのあけぼの 付わが思い出の記」p183,184)
次の山にも八路軍は陣地構築をしていたが、この山を占領したので我々の任務は完了したわけであります。占領しても、占領しても敵は次の陣地を構築してあるので、共産八路軍との戦闘は止まることのない戦闘でありました。・・・対手は蒋介石軍は少なく、ほとんどが毛沢東の共産八路軍でした。八路軍は手強く、また戦闘馴れして上手だった。(p299・300)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_298_1.pdf
当時、北支には、蒋介石政府の正規軍、毛沢東の率いる八路軍(中共軍)、山西省の軍閥・閻錫山の兵が蟠踞して、日本軍と戦闘を交えていた。その中でも八路軍がいちばん強かったものだ。
大阪毎日新聞 1942.7.4-1942.7.9(昭和17)
大東亜戦争下の支那 現地報告 (1~6)
大本営陸軍報道部派遣(東日政治部) 栗原広美
治安の癌は赤匪
北支軍が一大造攻作戦を敢行せんとした場合、その直接前面に配備された蒋系軍の総兵力(占領地内をも含めて)は百二十ケ師、約七十万である、この数字は全大陸における重慶軍の三百万に比し相当な大兵力であるが、何等積極的な意図を持たず皇軍の造攻作戦に戦々兢々として一応わが前面に対峙しているに過ぎない、従って北支における蒋系軍は当面さして問題とするに当らない、然るに共産党軍に眼を転ずれば事態は一変する
全支の共産軍は正規軍二十五万と称され、その八、九割が北支に蠢動している、ここで注意すべきは正規軍の一人は大体において単なる一人であるが、共産軍は全然ちがう、彼等は巧妙に民衆武装組織を確立しているためその戦力は正規軍数の二倍、三倍となって発揮されて来るのである
しかしながら共産軍の遊撃戦、特務戦は民衆の全面的な協力を前提条件とするためにその対民衆工作は□□□□□□□□□□□□□すれば民衆の婦女子の一人に至るまで戦争遂行の一単位だともいえるであろう、従って北支における対共産党・軍戦争は一種の民族戦争的色彩を帯び現代の最も高度化せる戦争形態を備えている点、わが作戦軍のなみなみならぬ苦心が費されねばならぬのである、現在この共産党・軍を相手に第一線部隊長として活躍している大平秀雄氏(前大本営陸軍報道部長)はわれわれですら東京に在った当時を省みれば、共産軍の実体について認識の欠けていたことを痛感する、現地に来て遊撃戦なるものの正体に接しその始末の悪さにびっくりしている有様だ と述懐しているほどである
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00479702&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
大阪朝日新聞 1941.1.14-1941.1.16(昭和16)最近の北支中国共産軍 (上・中・下)(上) 目指すは支那赤化 今や重慶を脅かす大勢力北支における抗日勢力は中国共産軍および共産軍に独占され、陝、甘、寧西北辺地から戦区一帯にかけて支那北半はほとんど重慶の求心力から離れてしまった、隴海線以北は蒋軍の影寥々、しかも日一日と衰退の運命をたどっている、中共がいわゆる「二万五千里大長征」ののち陝北地区に根をすえたのは一九三五年でこの時からわずかの間になんという大飛躍であろう[写真(周恩来)あり 省略][写真(朱徳)あり 省略]西安事変につぐ支那事変を機として抗日戦線統一、国共合作を口実にまんまと蒋政権を出し抜いて、多年垂涎の平地進出に成功してしまったのであった、今まで山地辺境のみをさまよい歩いた中共は、も早や単なる辺境の田舎武士ではなく、今や重慶を脅かす大勢力となり、北支西北支那にまたがる一大勢力圏を確立してしまった、殊に北支においては中央軍を根こそぎして隴海線以南に追っ払い、中支の新四軍と連絡をとり今となっては重慶政権の力ではどうすることもできない、かつて蒋介石が再三討伐軍を起し、陝西省地区に大軍を進めたが、当時はまだ陝北、ソウェート区と自称して細細と建設途上にあった程度だったに拘らず遂に打倒し尽せず、西安事件であべこべに屈服させられてしまった、いまや中共勢力はその当時の何百倍にも拡大強化されてしまった、しかも蒋政権の力はかつての「中央政府」の力に対して今日においては没落に瀕する敗戦地方政権に転落してしまい、も早や西北、北支の赤化は蒋にとってただ手を拱いて眺めているより仕方がない、いやそれどころか将来自らの位置を土台からひっくりかえされることを警戒しなくてはならない時になってしまったのだ国共合作は自己の勢力を増大してゆくためだけの方便で、あわよくば政権とり戦術の前提ともなる、分裂しても現在獲得している勢力をいささかも失うことなく、時来れば蒋軍との一戦をも辞さない自信を持ち得る域に達している「抗日」は今日の中共の表面の指導原理となっているが、目指すところはあくまで支那赤化であり、政権獲得であって「抗日」はその方便に過ぎない、その証拠にあれほど声を大にして「到底抗戦」を叫びつつも、中共自身の今までの動きはあくまで兵力消耗を逃れる工夫に終始して皇軍との衝突を巧みに避け、皇軍来れば山奥にかくれるという戦法をとって来たことに見ても明瞭である本年七月四川奥地で開かれた重慶側七中全会において周恩来など中共側代表は重慶政権側に猛烈に食い下り、ついに北支における中共の自由な活動権を認めさせたが、これは今さら業々しい国共問題調整弁法などと掲げるまでもなくすでに動かすことのできぬ現実の事実に即して今まで北支全部を第一戦区と指定して蒋直系の衛立煌を総司令に任命していたのを正式に取消したというにとどまる、同調整弁法は左の如く九ヶ条から成っている一、重慶側は北支における中共の党、政、軍の三部機構の自由活動権を容認する二、黄河以南においては共産軍の自由活動を許さず三、共産軍に対し山西省、察哈爾、山東、陝西方面の独立駐屯権を認める四、中共領導下の新四軍を黄河以北に移駐五、陝西省西安以北における中央の軍政機構は西安以南に撤退する六、共産軍は中央軍に対しての武器、弾薬、糧食の補給を途中において絶対に抑留または押収せず七、中共は北支各地において銀行を設立することを得八、中共は中央の軍政、経済、外交に意見を開陳し得るも干渉を行わず九、中共は中央部内において赤化工作をなすことを得ず以上いずれも中共の大進出を意味しているが、それは要するに現実の事態の前に蒋政権側が押し詰められた結果である、中共としていまさらありがたがって狂喜しているのではない北支における共産党は山西省東南部の山中に潜む朱徳を総司令として全北支に網をひろげているがその勢力はつぎのごとくである[図表あり 省略]その総兵力は基本部隊となっている共産正規軍が約三十万、その他の共産系自衛軍を合すると百万を突破すると称せられている、もともと紅軍(第八路軍の前身)が支那事変を契機として蒋介石から第八路軍の名称を授けられた際、一一五師、一二〇師、一二九師も同時に師の名称を与えられて中央軍とともに抗日正規軍に編入された、その後中共軍はぐんぐん増大していったが、蒋介石は最初抗日軍の拡大をよろこびつつも、中共軍の勢力増大は結局中央軍の悩みの種になることを恐れて、右の三師以上には新しく中共軍に師を増すことを避け、中共軍側も初めのうちはこの点に対して不満を抱いていたが、名よりも実をとれという方針に進んで、右の三師を基準としてどんどん新しい部隊を整備していた第一一五師からは冀中地区に進出した呂正操、山東挺進隊の徐向前が分れ、第一二〇師からは晋察冀辺区の聶栄臻、熱河挺進隊の宋士倫が分れ、第一二九師から冀南の宋仁窮が分れ、それそれゆくさきさきで自衛共産軍を編成訓練して地盤を作り上げるとまた分れて新しい地盤開拓の挺進隊が出発し、東へ東へ…中央軍を追い払いつつついに黄海海岸に到達してしまった北支に残存する中央軍はこれら中共軍に押されてわずかに隅っこでうごめいているに過ぎない、山東の于学忠軍、隴海線北方省境にあった石友三軍、山西省西南隅の閻錫山軍、山西省東南部に頭だけ出した第一戦区司令衛立煌軍、蒙彊五原地区の傅作義軍、その他オルドス地帯の馬鴻逵、馬鴻賓の回教軍程度に過ぎない、しかも閻錫山軍からは中央軍に寝返り打つもの続出し回教軍も中堅軍を中共系に食いつぶされ、衛立煌、傅作義の両軍を除けば中共軍に乗っとられるのは時期の問題となってしまった、山西の国共相剋戦も最近やや下火にはなったが、この間閻錫山の失った兵力は非常なものであった灰色の木綿服、真紅の旗、白地に藍色で「民族英雄」と染めた腕章を巻いて山猿のような眼を尖らした野性の一群が、革命歌を高唱しつつ長城線を東へ進んでゆく、支那事変勃発とともに蒋介石から第八路軍の名称を与えられ、きのうまでの蒋の敵は、すでに抗日英雄軍となって、防戦の第一線に勇奮して進軍した山西北部から察恰爾へ、わが蒙彊作戦軍および太原攻略軍の進路を阻もうとその意気は凄かった、中共軍がはじめて皇軍の強さを知ったのは山西北方長城線勾注山の戦だった、中共軍の戦意も皇軍の前には敵ではなかった、敗退につぐ敗退、しかし中共軍の名は全支那に英雄として讚えられはじめた、エドガー・スノー、アグネス・メドレーらが従軍してその戦闘記録を紹介し、中共は俄然事変とともに抗日英雄的仔在として頭を擡げた、皇軍に蹴散らされてもかれらは南に下ろうとせず、附近の山奥に潜んで野性の動物の如く執拗な遊撃戦に入った
(中) 巧妙な地盤獲得策 恐るべき民衆への浸透力第二期は山西省内の地盤確立工作時代である、朱徳は初め山西省東南部●安地区に根拠を置いて着々と山西省内地盤の確立に当った、閻錫山は太原を逃れて西南方に去ったが戦意はぐんぐん衰え、さらに中共軍に食われてゆく、中共は陝西省の本拠と巧に連絡をとり、じわじわ皇軍の目をかすめては険岨な山奥伝いに山西省内に入りこみ、特に西北部奇風、静楽附近、東北部五台山附近、さらに東に進んで河北、山西、察哈爾三省境にまたがる晋察冀地区には辺区政府を樹立した(一九三八年一月)かくて山西省の共産軍は次のごとき配置を布くに至った一、山西北部および西部、五台山東北部、河北西部省境附近から陝西北部綏徳にいたる山西北部には賀竜の一二〇師―三九八、三五九両旅(約二万五千)冀西区から忻県西北まで移動し晋察冀辺区軍の一部一一五師、一二九師の一部を加えている二、山西省東部および東南部、九竜関以南の山西、河北、河南三省境から武郷、楡社附近にわたる晋東地区には朱徳直轄部隊の劉伯誠の一二五師―三八五、三八六両旅、その南方には林彪の一一五師、三四四旅など(総兵力約三万)三、陝西省方面、北部陝西省内には蕭勁光の二万と綏遠方面には一二〇師、三五九旅のうち王震を主とする一部第三期は北支平原進出時代である、山西省内の地盤を確保し、晋察冀辺区政府を樹立した中共は雪崩の如く平原に流れ出て来た、大体武漢戦後のことである当時河北にぐずついていた中央系軍は京漢線を中心に石友三軍鹿鍾麟軍、津浦線附近は于学忠軍その他沈鴻烈軍などがうろついていた、すべて皇軍に叩かれつくして疲労困憊、すでに中共軍の敵ではなかった、中共は最初山西における戦闘以来、自らの力を養うためにできる限り皇軍との衝突を避け、ひたすら兵員と武器弾薬の増大拡充につとめ、皇軍の影を見てさえ直に山奥深くかくれてしまうのを事としていた、疲れ切った北支中央軍と力を貯えた中共軍の勝敗の数はすでに明らかである晋察冀辺区からは冀中地区および察哈爾南方へ、山西省東南部からは冀南地区(隴海線北部)からさらに山東へ瞬く間に中央系残敵を追っ払ってしまった、中共の戦術はまんまと功を奏したのだ、中央軍の自滅を待ち、自ちの力をあまり多くは犠牲にせずに大きな獲物をわがものとしたのである第四期は全北支中共勢力統一時代というべきであろう、ひたすら力の増大拡充を計り、地盤を獲得した中共は今年の夏を期してついに長らく垂涎せる豊かな平地を獲てどっかと不動の位置におさまった抗日を叫びつつも皇軍との衝突を避けていた共産軍は今や時来れりとばかりに雀躍していよいよその本領を発揮しようと意気込み始めた、これが今日の状況である昨年八月太原、石門を結ぶ正太線全線にわたって大規模な鉄道破壊を行い、鉄橋を壊し、線路をはずし、井●炭砿を襲撃し、一夜のうちに太原、石門間の連絡を絶ってしまった、中共の八月攻勢である、朱徳はさらに蒋介石に対して「中共軍の果敢な攻勢を見よ、蒋盛介石は直に全軍に命じてこの第八路軍の英雄的抗日戦に応じて全面的攻勢に出づべし、特に北支の全戦線を進めて中共軍の攻勢に援助すべし」と要求し、大目得を切った、この正太線破壊は明らかに朱徳の命令によったもので、今までのような蒋介石の命令が軍に最前線の一部の部隊のみの見せかけ攻勢に終ってしまったのと全然性質が違い、中共軍自力による攻勢として注目すべき事件であった、この事件は直に皇軍の果敢な討伐によって多数の損害を中共に与え、破壊箇所の修築も間もなく完了したことはいうまでもないが、この事件は中共の実力がある程度の高さに達した証拠として北支治安上大きな問題を提起したわけである昨年十一月十日を期して開始された北部大行山脈作戦はいうまでもなく晋察冀辺区軍討伐戦であり、北支中共統一戦線を覆す中央突破作戦であった、峨々重畳の山地の奥深く阜平を中心に聶栄臻を総司令とする第一分区司令揚成武、第三区司令康英勝、第四分区司令能伯濤の指揮する約二万は地方農民青年子女を赤化して辺区銀行出張所、辺区貿易総局、兵器製造所合作社などを設け、自給自足の一区域を建設し、晋冀辺区政府、冀察予辺区党委員会、冀魯辺区党委員会などの各辺区政府とともに北中支共産軍勢力拡大の大きな地盤である、これらの各地中共根拠地がどう拡大するか晋察冀辺区と同じ運命に遭って潰滅してゆくか、北支の治安は一にかかってこれらの今後の動きにかかっているというべきである辺区政府は一挙にソウェートを建設するよりも中国民族の伝統と習慣を重んじて中国人の親しみを求める方向を採用している二ヶ月に一回辺区全軍代表者および地方民衆代表の辺区会議を開いて最高審議案を審議し、各村に救亡室(民族革命室)を設けて民衆政治の実現を計り、財政経済、文化、娯楽、訴訟、識字(教育)壁報(新聞)などの各組に分れ民衆文化の啓発、参政能力を高めている、完全な航日第一主義で政府収入はほとんどを遊撃戦費に充てて、官吏の俸給は最高一ヶ月十八元しか支給しない一九三八年二月から七月までの支出は四百万円、これに対して収入は八十万円で三百二十万円の赤字は救国公債によって賄った、辺区銀行は資本金二百万円(一九三八年三月二日設立)鈔票(紙幣)を発行して法幣、連銀券は「外貨」として中央軍地盤はむろんのことわが戦領地域内にも巧に潜入して物資買付けをやっている、時にはその当時のその他の物価の二倍、三倍を出して買うこともあり経済攪乱工作に使用している、しかも連銀券対法幣のバランス(皇軍非占領地区における)によって鈔票で法幣を回収して外貨を集める方法なども講じている、無論民衆には法幣、連銀券の使用を厳禁していることはいうまでもない、農村対策としては一、墾荒条例を発布して自由開墾の許可、戦時中の地租納入の撤廃、不労地主の発言不許可二、失業者、難民に土地を与える三、農具、種子を分け、前線兵の家族は農家指導者の代耕隊によって食ってゆける四、小作領、金利を減らして融資を行い、小作料は二割五分、利息は年利一分以下とする五、商品農産物を減少して食用農産物を奨励六、各種の施設を増す以上のような対策を基本としたが中共戦術として決して共産主義という言葉を表面に出さず、ただ制度を実施して、民衆の歓迎を受けつつ、遊撃戦力を蓄えて自由を達しているのである(つづく)
(下) 皇軍を真似て訓練 何時まで続く英雄主義の夢最近見知らぬ男が部落に入りこんで来たぞ、何だろうと部落民の間で問題になるころはすでに中共党員の地下工作が進められている時であるどこから潜り込んでくるのか、放浪の農村青年姿で次から次へと中共未開拓の土地にもいりこんでゆく、その部落の貧農青年と時局を語り、蒋を罵り抗日に激してようやく青年たちから信望を集め出した時はすでにこの青年の工作はほぼ完成した時であろう報告によって中共軍が乗りこんで来て、直に青年たちが論じた結論通りの政策を強制的にクーデターで断行してしまう、貧農青年を中心とした極貧農民たちは中共軍を救世主のようにあがめ感謝する、若い連中にとって煙ったい穏健派や、中共のやり口を看破して疑いの目を向ける連中は地下工作員のブラックリストによって何時しか犠牲に供され、かくて中共は恐怖政治による荒療治の政策を徹底すると同時に、一瞬にして新しい時代を作り上げてしまう、しかもその政策はあくまで大多数の極貧階級を基礎とするものであるから、たちまち大多数民家の歓呼に包まれ、さらに党員が指導して新しい県政府、部落役所を作り上げてしまう、最近北支における中共の進出政策はほとんど全部この手を用いている指導者党員はどこから送られてくるのか、中枢分子は全部延安からはるばる山西山岳部の間道を縫ってもぐりこんでくる、延安の陝北大学はこれら政府樹立工作員養成所となり、二ヶ月修業で共産教育を施した青年をどんどん北支にばらまいているのだ延安にある抗日軍政大学が中共軍幹部養成所であるのと並立して、陝北大学は政治方面を主とし、校長は成●吾、前上海事変後設立されて全支およびフィリッピン、安南、ハワイ方面からも入校するもの多く、一回毎に五百名乃至八百名を入校させ社会科学を主として理科、医学、工芸、建築その他の学課の基本的なものを課目として軍事集団化による教育方針をとっている教授はこんどの事変で逃げた北京燕京大学、清華大学、天津南開大学などの教授を中心にして第八路軍将校も教鞭をとり学生のうち女性が約五%入っている陝北大学とともに中共大学(校長毛沢東)も中共政治指導員の培養所である、この方は陝北大学よりも高級であり党最高幹部の養成に当って世界政治、レーニン主義、時事、中国革命、自衛軍組織、政治経済、軍事訓練などについて専攻的に高度の研究が行われている、これらの学校を出た若い連中が次から次へと潮の如く北支へ雪崩れこんで来るのであるソ連にならって軍隊および部落民の党員化工作は徹底している「われわれのやり方が気に入ったか」「気に入りました」「よし、では党に加入しろ」共産主義の講義をするでもなくソ連讚美をするのでもない、ただその政策の実際を見せて気に入ったものは党員とし、反対するものは射殺する…余りにも簡単な方法であるが、そこに中共政策徹底化の要諦があり、短期間内に広い範囲に拡がっていった秘密を解く鍵がある[写真(延安大学生の野外教授)あり 省略]中央軍を追っ払い、皇軍警備の網をくぐったと大袈裟にいいふらす中共軍、党の幹部の姿は英雄と仰がれ、若い心には必然的に英雄の仲間に入りたいという盲目的本能が燃え上る、とにかくも中共の指導によって極貧階級の生活は向上した、それが将来大きな禍痕をのこすか、目先だけのことか―そんなことを考える頭も暇もない、青年たもは半ば自発的にこの偽られた楽土擁護という英雄的興奮によって自衛軍組織に参加し、中共自衛部隊は鼠算式に増してゆくまず精神をつかみ、つぎにその団結による武装化―厄介なことはこれら屯田兵となった中共区域はすべて便衣姿であって日ごろは武器をかくして野艮に働きいわゆる良民と中共党員との見分けがつき難いのである、しかも中共系自衛軍は戦力を蓄えるや遊撃隊となり、北支治安の攪乱を企てる、ソ連をまねて軍事行動の前後には各部隊が集ってそれそれ検討を行い、家の行動の参考とするという方法で団結心と感激をあうっている、しかし命令は絶対である、政治に関しても幹部の発言は一切であり、「違反は死刑」の鉄則はいささかの温かさもなく峻厳そのものである鎌とハンマーの交叉したソウェート旗を掲げ十四歳の少年が銃を担って前線に行く、中共遊撃隊は少年兵をも駆り出して純な魂を魅する英雄崇拝と抗日という悲壮感によって闘わせている、嘘をつかぬこと、絶対服従、規律を重んずること、質素を尚べなどわが皇軍精神をそのまま取ったような軍人精神を鼓吹し、最近目立ってその成果が現れて来た、この点についていかに努力しているかということは中共軍根拠地襲撃の跡に残された多くの文献によってもうかがえるが、こうした一人一人の兵については立派な戦闘精神を持ったものが多くなって来た、然し悲しいかな武器は貧弱であり、軍としての歴史が浅いため幹部の人材が欠乏していることはいうまでもない遊撃は現在における北支中共軍の全戦略である、積極攻撃に出る力が出来たと思い上っているけれどもその攻勢も遊撃攻勢の域を一歩も越してはいない第八路軍(第十八集団軍)の指導のもとに、少年兵を混えた自衛軍がその先鋒隊となって、支隊を単位としている、支隊の人員は大体九百から千程度でたとえば平津支隊、黄河支隊、隴海支隊と称え、騎兵が配属されている、中共遊撃隊の狙う地点は冀察辺区周辺、北京近郊(特に北京南面)津浦線と京漢線の中間地区、天津附近、冀東地区などであり、東亜新秩序破壊が抗日戦略の主眼とされている、鉄道破壊、工場破壊、思想攪乱、経済(金融)攪乱などのいわゆる第五列も特設されて暗躍し、さらに熱河を経て満洲にも魔手を伸ばそうと企てている、互にこと言葉を通じ、威しによる民衆操縦も行い、さらに決死の挺進隊も良民に化け、たくみに治安地区内に潜入してすべてはスパイの役割を果している、スパイの通報によってすぐ遊撃隊は匿した武器をとり出して暗夜に乗じて警備手薄の地区を襲わんとする…北支治安は一刻の油断も出来ないしかし中共必ずしも恐るるに足りず、武器劣り、各地の中共軍需工場能力もいまだ活溌ならず、歴史浅く指導者も充実せず、民衆もまたいつまで中共の欺瞞の自由になりつづけるか疑問である、中共はいずこへゆくか、長らく山奥生活をつづけていたものが豊沃な平野にきたため起る急激な変化も起るであろう、ただ問題はたとい重慶政権倒れたとしても東亜新秩序の建設、東亜共栄圏の確立のためにはこの中共が重慶と絶縁して抗日を叫びつづける限り、長きにわたる戦いを覚悟せねばならないことである(完)データ作成:2015.4 神戸大学附属図書館
大阪毎日新聞 1943.4.7(昭和18)我が温き新政策の下北支"中央化"へ進展特殊的役割は依然厳存事変以来五ヶ年間北支は政治、経済、軍事、文化のあらゆる部面で中国内における一大特殊地域を構成し、その特殊性を強調して来た、これは支那事変の発展過程と臨時政府より華北政務委員会へと北支政権の発育を振返えるとき容易にうなづけるが、これにもまして北支の特殊性を裏附けたものは実に、鉄、石炭、棉花、塩などの世界に誇る国防資源の対日供与と、北支周辺を囲繞して執拗な策動を続ける五十余万の中国共産軍の存在であった、このため北支の特殊性は自他ともにこれを認め、あらゆる施策は戦争資源の開発増産と剿共に重点が傾注されたのである、
大阪朝日新聞 1942.6.16(昭和17)重慶中枢の撃砕要望される新大攻勢冷静に認識せよ 雑草の如き敵抗戦力上海と南京の目の先まで根をおろそうとする太々しい戦区経済の生態には北支の共産軍とはちがった執拗さがある、、さる二月重慶が決定した一部軍費の現地調弁に全く賛成したのは陳誠と顧祝同であったといわれる、第三戦区の地域や第九戦区の長沙附近には現地調弁のため兵隊が鋤鍬を取って耕すという屯田兵制度が出来ている
大阪朝日新聞 1941.7.6(昭和16)交戦敵兵力八十一万 軍事、経済に重慶急追今年前半の大戦果大本営発表一、支那軍第一線総兵力 約二百九十個師、約百九十万、他に独立師、騎兵師あり一、各戦区兵力内訳【第一戦区】約三十五個師、約二十万【第二戦区】約二十五個師、約二十万【第三戦区】約三十個師、約二十万【第四戦区】約十二個師、約七万【第五戦区】約二十五個師約三十万【第六戦区】約三十五個師、約二十万【第七戦区】約十個師、約八万【第八戦区】約四十個師、約二十三万【第九戦区】約三十個師、約二十万一、占拠地区内の共産軍 北支方面約二十二万、中支方面約十万一、戦況図は主要なるもののみを示しこのほか多数の掃討粛清戦が全支各地で実施された=図中海岸線の矢印は封鎖および遮断作戦地点
野村修也、櫻井よしこ氏と同種・類似の主張
毛沢東は抗日戦勝記念を祝ったことがない
China
中国国内の対日抗戦を戦ったのは中共軍ではなく国民党軍だった
2015年8月26日(水)18時00分
遠藤誉(東京福祉大学国際交流センター長)
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/08/post-3859_1.php
中国で抗日戦争を戦ったのは国民党軍 共産党は成果を横取り
2015.08.19 07:00
今年の9月3日、中国共産党は北京で「戦争勝利70周年記念」の式典と軍事パレードを行う。しかし、そもそも中国共産党が日本に勝利したという話自体が嘘なのだ。1937年7月の盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争は、中国国内の内戦に日本が干渉する形で始まった。
当時、中国では、日本が支援していた汪兆銘の南京国民政府と、蒋介石の国民党、毛沢東の共産党が三つ巴の内戦を繰り広げたが、すでに共産党軍は内戦で疲弊し弱体化していた。
同年9月の国共合作で国民党と共産党は手を結んだが、毛沢東の戦略は「夷をもって夷を制す」。すなわち、敵同士につぶし合いをさせることだった。
日本軍と国民党軍が戦闘になるよう工作し、共産党は非戦闘地帯で勢力を拡大させた。ゆえに、日本軍と共産党軍が正面きって戦火を交えた記録は残っていない。
1945年8月に日本が降伏し、蒋介石の中華民国は戦勝国となった。だが、戦争で戦力を消耗した国民党と、勢力を復活させた共産党との間で内戦となり、蒋介石は台湾へ逃げ、共産党は中華人民共和国を樹立した。
つまり、抗日戦争を戦ったのは国民党軍であり、中国共産党は国民党の“成果”を横取りしたに過ぎない。
※SAPIO2015年9月号
http://www.news-postseven.com/archives/20150819_340495.html
共産党の抗日戦争勝利とは笑止千万平成26年9月4日(木)・・・つまり、中華人民共和国は、その時存在せず、中国共産党も日本と戦う主体ではなかった。中国共産党は、日本軍から見れば、暴行を繰り返して治安を不安定にするだけの、現在のイラク北部のイスラム過激派よりも存在感のない「共産匪」に過ぎなかった。では、中国共産党ではなく、国家の実態はあったのかどうか疑わしいのだが、ともかく「中国」と彼らが呼ぶ単位においては戦争の主体があったのか。それについては、私が言うより、しっかりした研究者の説明を紹介しておきたい(別宮暖朗著「第一次世界大戦はなぜ始まったのか」文春新書)。「現在の中国の指導者の習近平は、『第二次大戦』の枠組みと称して、自国が大国であると触れ回り、各国の失笑を買っている。中国は二回の世界戦争で大きな役割を果たさなかった。習近平の原動力は、日本への嫉妬である。中国は第一次大戦には事実上参戦できず、第二次大戦においては、蒋介石が中国本土のみで退嬰的な戦闘を間歇的に実施しただけである。」つまり、その時、中国大陸には、内戦で国民党に痛めつけられて戦闘単位にならない靴も履いていない「共産匪」と、各地の何処と敵対しているのか分からない軍閥(強盗団)と、反日の姿勢を示しておれば、米英から膨大な物資がただでもらえて女房(浙江財閥)も喜ぶという旨味が忘れられずに重慶に立て籠もっている蒋介石がいただけである(対日戦という商売をしていた)。
澁谷 司の「チャイナ・ウォッチ」 中国の「抗日勝利70周年」記念行事
政策提言委員・拓殖大学海外事情研究所教授 澁谷 司
以前から我々が指摘しているように、「抗日勝利70周年」自体が噴飯モノである。中国共産党は「抗日」とは名ばかりで、ほとんど日本軍とは戦っていない。
http://www.jfss.gr.jp/news/shibuya/20150831.htm
大東亜戦争で日本と対峙し闘ってきたのは蒋介石の国民党だった。当時、共産党はその背後で蠢いた武装ゲリラでしかなかった。・・・このように何重にも輻輳した要素が、実は自分たちは(本来はバカにすべき小さな国である)日本の軍隊に勝つどころか、戦ってもいないという劣等感を補い、「反日感情」に複雑に混在させていると見て良いだろう。
http://miyazaki.xii.jp/china/01/index2.html
浅野史郎氏が中国共産党の「抗日戦勝パレード」に対する違和感を指摘 2015年9月3日 21時16分 トピックニュース
3日放送の「ミヤネ屋」(日本テレビ系)で、神奈川大学特別招聘教授・浅野史郎が、中国共産党による「抗日戦勝パレード」に対する違和感を述べた。・・・
浅野氏はここで「ちょっと、茶々いれますけど」と前置きをして「(中国)共産党は後ろにいて、蒋介石の中国国民党に日本は負けたわけですよね」と説明をした。それだけに、中国共産党がパレードをすることに対して違和感がある、というのだ。宮根氏がここで、中国国民党が最前線で日本軍と戦った一方、中国共産党は後方におり、のちに両党が内戦となった歴史的な背景についてフォローを入れた。
http://news.livedoor.com/article/detail/10548389
米国人の1人としてPRCに戦勝国を自称されると腹が立つ K・ギルバート氏 (1/2ページ) 2015.02.12
米国人の1人として、PRCに戦勝国を自称されると腹が立つ。米英仏ソ4カ国は、日本やドイツと戦い、多大な犠牲を払って戦勝国になった。ところが、中国大陸の国民党軍は非武装の日本人居留民は殺しても、日本軍からは逃げ回った。同胞の中国人を殺し、日本軍の仕業にしたものも多いという。共産党軍は散発的なゲリラ戦だけだ。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150212/dms1502121550003-n1.htm
2015.11.14 17:05
【iRONNA発】
日韓和解は幻想だ 「強すぎる日本」を構築せよ 武貞秀士(拓殖大学大学院特任教授)
9月3日、国民党と戦った共産党が率いる中国が、なぜか日本との勝利を祝う抗日戦争勝利70年行事を挙行した。
http://www.sankei.com/column/news/151114/clm1511140007-n3.html