取材・構成/濱口英樹(音楽ライター)
【プロフィール】
谷田郷士(やつだ・さとし)
音楽プロデューサー。
1939年生まれ。62年、日本ビクターに入社し、チェリッシュ、アルフィー、桜田淳子、石野真子、橋幸夫、スペクトラムなど多くのアーティストを担当。96年、吉田事務所設立。吉田正門下生である吉永小百合の原爆詩朗読アルバム「第二楽章」「第二楽章長崎から」をプロデュース。現在も吉田正作品のプロモーションに当たっている。
――まずはデビュー曲の「狼なんか怖くない」から4曲目の「日曜日はストレンジャー」までをハイレゾ音源で聴いていただきました。率直な感想はいかがですか?
谷田 非常に奥行きがありますね。真子ちゃんのボーカルも「こんなに上手かったっけ?」と思うくらいクリアに響いてきて(笑)。音にものすごく臨場感があるので、当時のレコーディング風景が甦ってきます。「狼なんか怖くない」の時は(吉田)拓郎さんが一緒にディレクションをやってくれてね。それから(筒美)京平先生の曲(「日曜日はストレンジャー」で作曲・編曲を担当)ではサウンドの巧みさがよりくっきりと伝わってきて、改めて「さすがだなぁ」と思いました。16ビートの刻みが抜群ですよね。
――デビュー曲がいきなり阿久悠さんの詞と吉田拓郎さんの曲で、その後も穂口雄右さん、筒美京平さん、馬飼野康二さん・・・と名だたるヒットメーカーの起用が相次いだ点を見ても、石野真子という歌手がいかに期待されていたかということが分かります。谷田さんはどういう経緯で担当されることになったのでしょう。
谷田 僕はそれまで桜田淳子さんの担当をしていましてね。でも77年の夏だったかなぁ? 『スター誕生!』で合格した真子ちゃんも担当してくれと言われて。ところがその直後に新設されたニューミュージック担当の制作課長に任命されたものですから、僕の下に若いディレクターをつけて、プロジェクトが軌道に乗るまで1年ほど、プロデューサー兼ディレクターという立場で関わることになったわけです。
――初対面のときの印象をお聞かせください。
谷田 彼女は芦屋育ちのお嬢さんでね。初めて会ったときは高校2年生でしたけど「将来、何になりたいの?」と訊いたら「お嫁さんになりたい」と言われてびっくりした記憶があります。とにかく育ちがよくて、控えめで、明るくて。そばにいるだけで周りを幸せな気持ちにしてくれる子でしたから、そのキャラクターをそのまま出してあげれば、絶対に売れるだろうなと思いましたね。
――真子さんは『スタ誕』では一般審査員の得票だけで合格したほどの逸材でした。その大型新人を売り出すにあたってはかなり大規模なプロジェクトが組まれたのではないですか?
谷田 ビクターは僕と、上司だった小澤(栄三)部長、それに宣伝担当者。所属事務所のバーニングからはマネージャーの小口(健二)さん。日本テレビは『スタ誕』のプロデューサーだったイケブン(池田文雄)さん、金谷(勲夫)さん、宮嶋(章)さん。日本テレビ音楽からは砂土居(政和)さん。そういったメンバーが集まって、どうやって他のアイドルと差別化するか、イメージを統一するためにミーティングを行ないました。何と言っても育ちのいい子ですから、気取っていてもしょうがない。そこで「山の手にいる上流家庭の少女が、下町で微笑みながら遊んでいるようなイメージで行こう」と。そのためには衣装も大切だということで、人気漫画家の里中満智子さんにデザインをお願いしたわけです。ビジュアル的なイメージは1stアルバム『微笑』(78年7月)のジャケット写真に集約されますね。ちなみに振り付けは土居甫さんです。
――錚々たるメンバーですね。ではイメージ戦略が決まったのち、作品づくりはどのように進められたのでしょう。
谷田 『スタ誕』出身のアイドルで、事務所が大手のバーニングさんですから、大々的にプロモーションが行なわれることは分かっていました。でもバーニングの周防(郁雄)社長が「石野真子の声は寒声(かんせい)だから、あまり売れないんじゃないか」と。その前にビクターからデビューさせた歌手が今ひとつ伸びなかったこともあって、すごく心配していたんですよ。だから僕としてはその不安を打破するには、作品として尖ったものを作るしかない、それにはあの独特の拓郎節が必要だと考えたんですね。
――無難にまとめるのではなく、あえて冒険を選んだということですね。
谷田 そうです。僕はもともと拓郎さんの曲が大好きだったし、あの起伏のあるメロディだったら、ちゃんと歌えばそれなりに個性が出る。そう思って、阿久悠さんに相談したら「面白いね」と。僕は桜田淳子のプロジェクトで阿久さんとはずっと一緒に仕事をしていましたし、阿久さんも『スタ誕』の審査員として彼女を選んだわけですから、大切にしようという気持ちがあってね。まだ拓郎さんが受けるかどうかも分からない段階で「とにかく僕が先に詞を書くよ」と言って、3篇の詞を書いてくれたんです。
――それがデビュー曲の「狼なんか怖くない」と2ndシングルの「わたしの首領」、そして2ndアルバムに収録された「ぽろぽろと」だったと聞いています。
谷田 歌謡界の大御所と、フォーク界の大御所をドッキングさせるわけですから「これは大変な仕事になるな」と思いましたけど、僕はかつてフォークも担当していましたから、まず拓郎さんが当時所属していたユイ音楽工房という事務所に行きました。ユイには陣山(俊一)さんという親しいプロデューサーがいたので、彼に打診をしたら「拓郎はアイドルが好きだから、きっと引き受けますよ」と言うわけ(笑)。それで彼に連れられて拓郎さんの行きつけのバーに行ったんですが、なかなか首を縦に振ってくれなくて。
――当時の拓郎さんは、キャンディーズや浅田美代子さん、木之内みどりさんといったアイドルに楽曲を提供されていました。
谷田 残念ながら1回目の話し合いは決裂したんですけど、ユイの方に相談したら「本人を見せれば、絶対に『やる』と言いますよ」と。それで2回目にお会いするときに真子ちゃんを連れていったら、すごく気に入ってくれてね。「僕がファンクラブの第1号になります」と言って引き受けてくれたんです(笑)。
――だから歌入れのレコーディングにも立ち会ってくれたんですね。
谷田 阿久さんが書いた詞をお渡ししたら、すぐに曲をつけてくれてね。「僕がディレクターをやるから」と言って、ビクタースタジオの一番大きなスタジオで3曲同時にレコーディングをして。そこには「狼なんか怖くない」をアレンジしてくれた鈴木茂さんはもちろん、周防社長も立ち会って、夜10時から朝の3時くらいまで、付きっ切りでレコーディングしました。
――めちゃめちゃ豪華な顔ぶれですね! それにしても鈴木茂さんがアイドルポップスの編曲を手がけるのも当時としては珍しいことでした。
谷田 彼は僕が担当した大竹しのぶさんの「みかん」(76年)という作品で、細野晴臣さんと一緒にリズム隊のアレンジをしてくれて、その後も何度か仕事をしていましたからね。
――「狼なんか怖くない」の間奏のギターソロは鈴木さん自身だと思いますが、他にどんなスタジオミュージシャンを起用されていたのでしょう?
谷田 当時、僕が担当していた作品は、ドラムは田中清司さん、ギターは水谷公生さん、ピアノはハネケン(羽田健太郎)さんにお願いすることが多かった。インペク屋さんが僕の好みを知っているので、ほとんどがその編成だったと思います。みんな一流のミュージシャンですから、オケ録りは2時間もあれば終わりましたね。
――「狼なんか怖くない」のクレジットを見ると、エンジニアには今やハイレゾの伝道師として知られる高田英男さんのお名前が入っています。本当に一流のスタッフが集結したプロジェクトだったんですね。
谷田 僕はアイドルの曲をディレクションするときはだいたい高田さんにお願いしていました。彼はしっかりした構成ができるし、音も華やかですから。あとは梅津(達男)さん。彼はフォークギターの音をすごく綺麗に出す方なので、フォーク系の作品をお願いすることが多かったですね。
――ところで拓郎さんのディレクションはどんな感じだったのでしょう。
谷田 褒め上手でしたね。とにかくいいところをどんどん褒めるから、歌い手もノッてくる。このときの3曲はその勢いで録った感じがします。
――ちなみに「狼なんか怖くない」はデビュー曲として決め打ちだったのでしょうか?それとも完パケの出来栄えを見てから決められた?
谷田 決め打ちではなかったですね。でもタイトルのインパクトや詞の内容も抜群だったし、一番ヒット性が高いということでデビュー曲に選びました。同時に「わたしの首領」を2ndシングルにすることも決めたんです。というのも、タイトルは強烈だけど、お嬢さん育ちの真子ちゃんだから、下品にならない。いい意味で違和感があるし、彼女の個性を伸ばすにはこういう曲がいいだろうと考えたからです。
――最初、心配していた周防社長は完パケを聴かれてどういう反応でしたか?
谷田 阿久さんと拓郎さんに組んでいただいて、それが発売できないというわけにはいきませんから、いろいろと根回しをして(笑)。でも最終的には「谷田くん、いいね」と言ってくれましたよ。当時はニューミュージックが強くて、アイドルはなかなか上位に行けない時代でしたけど、そこそこ数字も出ましたからホッとしましたね。
――「狼なんか怖くない」はオリコンで最高17位。10万枚を超えて、新人アイドルとしては図抜けたヒットになりました。
谷田 新人賞もたくさんもらいましたよね。日本歌謡大賞で放送音楽新人賞を受賞したときは、僕も日本武道館にいたんですけど、いろんなことが思い出されて、見ているうちに涙が出てきました。実績から大体いけるだろうとは思っていましたけど、大勢のスタッフが頑張った結果ですから、じーんと感動してしまって。
――当時のアイドルにとって、音楽祭の新人賞を獲得することは知名度を上げるまたとない機会でしたし、翌年以降、生き残るための重要な条件でもありました。その新人賞レースで歌われていた3rdシングルの「失恋記念日」はキャンディーズのメインコンポーザーとして知られる穂口雄右氏を起用されています。
谷田 穂口さんには桜田淳子の曲も書いてもらっていますし、僕は親しい仲だったので、3作目は彼にお願いしたんですが、非常にしっとりとしたいい曲になりましたよね。当時は将来的な方向性を探りながら、インテリジェンスのあるアイドルにしていきたいと思っていたので、作家についてもそういう方針でキャスティングをして。1stアルバムでは谷山浩子さんにも3曲書いていただきましたが、真子ちゃんの歌声がすごく自然で、ニューミュージック系の作品が合うのではないかと思ったからです。
――谷田さんはその後、真子さんの担当を離れたということですが、アイドルポップスのサウンドプロダクションで留意した点があればお聞かせください。
谷田 特に意識したのはオブリガードですね。たとえばボーカルのロングトーンのバックで、ギターの「チャカチャーン」というようなオブリガードを入れる。そうするとファンが「真子ちゃーん!」というコールがかけられる。アイドルの場合、ノリが重要ですから、コンサートとかでファンと掛け合いを楽しめるような仕掛けが必要なわけです。それは洋楽とかも研究して、かなり採り入れましたね。
――なるほど。確かにコール&レスポンスができる曲が多いですね。真子さんのコンサートは今でも親衛隊の方たちがコールをかけて盛り上がっています。ところで、レコーディングで苦労された点はありますか?
谷田 当時のアイドルは3ヶ月ごとにシングルを出さなくてはなからなかったし、オリジナルアルバムも年に2作はリリースしていましたから、制作スケジュールを確保するのがとにかく大変でした。昼間は歌番組への出演や取材が入っていますから、レコーディングは大抵、深夜。夜10時くらいから始まって、夜中の2時までやって、そこから編集することもザラでしたね。特に困ったのはコンサートのあと。ノドがガラガラになって、とてもレコーディングできる状態じゃなかったりして。そんなときは別の日に改めてレコーディングするんですが、真子ちゃんの場合は、ノドが強かったのか、そういう心配をしたことはなかったですね。
――貴重なお話をありがとうございました!
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