韓流研究室

日本の韓流を研究し、その裏に潜む闇を検証するサイトです。

細川護熙、(戦争責任も取らず自殺した)祖父、近衛文麿の“遺書”が裏付けた侵略戦争 

★細川護熙元首相
 「祖父、近衛文麿の“遺書”が
  裏付けた侵略戦争」

 週刊朝日 2015/8/14
 
http://dot.asahi.com/wa/2015081200063.html
元熊本県知事、第79代首相の
細川護熙(もりひろ)氏は、
戦後70年の談話(安倍談話)について
持論をこう語る。

*  *  *

 私の祖父の近衛文麿は、
亡くなる前の晩に次男の通隆に宛てて
遺書のようなものを残していますが、
その中で、日支事変の拡大、仏印進駐は
自分の政治的誤りであった
ということを
言っています。
先の大戦は侵略戦争であったということを
裏付けるような発言です。
当時その責にあった人がそう言っているわけで、
その言葉は重く受け止めざるをえない。

 だから首相に就任した1993年8月の最初の
記者会見で記者の質問に答え、
先の大戦について侵略戦争だったと、
間違った戦争だったと認識していると、
首相として初めて明言しました。
私が言わなかったら村山談話も小泉談話も
あそこまで踏み込んだものにならなかった
かもしれません。
それまで歴代の総理は、戦争を通じて多大な
損害を与えたことに対する真摯な反省の気持ちを
述べられていましたが、
「侵略」に関しては政権の内外とも奥歯にものが
挟まったような発言が繰り返されていました。
しかし、私には明確な歴史認識を示すことで、
近隣諸国の対日不信感を払しょくする
一助になるのではないかという信念がありました。

 私の発言は、
中国と韓国はもちろん欧米の首脳にも
広く歓迎されました。
ロシアのエリツィンさんは、首脳会談で
来日されたとき、私のあの発言がなかったら、
自分はここにいなかったとはっきりと言われました。

 おそらくあのときが一番、
日本とほかの国との関係が
外交的にはうまくいっていたときだと思います。

でも自民党からは、もう総攻撃でした。
石原慎太郎さんや橋本龍太郎さんらから
予算委員会でも徹底的に追及されました。
当時の与党のみなさんもびっくりされたと
思います。与党の人たちからは特になにも
言われなかったんですが
「よく言った、そのとおりだ」と真っ先に
言ってくれたのは小泉(純一郎)さんだった
というのも意外でしたね。

 安倍さんが戦後70年談話を出される
ということですが、私の考えは極めて簡単で、
村山、小泉談話をそのまま継承すればいい
ということです。
いささかでも私の発言や村山談話から外れて
その精神を損なうものであれば、
それは有害なものになるでしょう。
「侵略」とか「植民地」とかいくつかのキーワードを
継承していかないと、「未来志向」と言っても
意味がない。

 そもそも10年ごとに談話を出す必要もないと
思っています。過去に対して向き合うのが
10年ごとに変わるのでは困ります。
そして日本と中国、韓国との関係においては、
平和友好以外の選択肢はありえません。

(構成 本誌・長倉克枝)

※週刊朝日 2015年8月21日号



近衛文麿と言えば・・・彼のブレーン

★尾崎秀実
  ozaki1126a.jpg
  尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E7%A7%80%E5%AE%9F
1901年(明治34年)4月29日 - 1944年(昭和19年)11月7日)
日本の評論家・ジャーナリスト・共産主義者。
朝日新聞社記者
内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。

近衛文麿政権のブレーンとして、
政界・言論界に重要な地位を占め、
軍部とも独自の関係を持ち、
日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)
開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し
国政に影響を与えた。


共産主義者、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導する
ソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加し、
スパイとして活動したが、最終的にゾルゲ事件として
1941年発覚し、首謀者の1人として裁判を経て
死刑に処された。

・共産主義のシンパ

報知新聞記者の父・秀真(ほつま)の子として
東京芝伊皿子町で生まれる。5ヵ月後、父が台湾総督府の
後藤新平の招きを受け、台湾日日新聞社漢文部主筆として
赴任したことから、台湾で育つ。
台北中学、一高を経て、東京帝国大学法学部を卒業、
大学院で1年学んだ。
(中略)
大正15年5月、東京の朝日新聞社に入社、社会部に籍を置く。
この頃は「草野源吉」の偽名で社会主義の研究会や
関東出版組合などに所属する。
(中略)
『改造』臨時増刊号でも、局地的解決も不拡大方針も
まったく意味をなさないとして講和・不拡大方針に反対
日中戦争拡大方針を主張した
11月号では「敗北支那の進路」を発表、
「支那に於ける統一は
 非資本主義的な発展の方向と結びつく」
として中国の共産化を予見した。

こうした主張は、翌1938年(昭和13年)1月16日の
第一次近衛声明に影響を与えた
同年『改造』5月号で
「長期抗戦の行方」を発表し、
日本国民が与えられている唯一の道は
戦いに勝つということだけ、
他の方法は絶対に考えられない、
日本が中国と始めたこの民族戦争の
結末をつけるためには、
軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を
殲滅するほかないと主張、

また『中央公論』6月号で発表した「長期戦下の諸問題」
でも中国との提携が絶対に必要だとの意見に反対し、
敵対勢力が存在する限り、
これを完全に打倒するしかない、
と主張して、講和条約の締結に反対、長期戦も
やむをえずとして徹底抗戦を説いた。

(中略)
ソ連のスパイとして働いた功績からソ連政府から
勲章と表彰状を受けた
とされていたが、
近年その存在が確認された。
それを受けて、ロシア政府は親族からの申し出が
あれば勲章と賞状を授与すると2010年1月発表している。

(引用ここまで)


★尾崎秀実の手記
 http://vaccine.sblo.jp/article/834188.html
コミンテルンは
世界革命を遂行して世界共産主義社会の
実現を目的とする共産主義者の国際的組織であります。
・・・略・・・
 現にその日本支部たる日本共産党に対しても
昭和二年のいわゆる二十七年「テーゼ」、昭和七年の
いわゆる三十二年「テーゼ」などその他をもって
日本に到来すべき革命の性質を規定し
日本に来るべき革命はブルジョア民主主義革命で
その革命は急速にプロレタリア革命に転化する
ものとしあるいは革命の性質は急速にプロレタリア
革命に成長するブルジョア民主主義革命なりとして、
天皇制の打倒をスローガンとすることを規定して
おります。


従ってコミンテルンは世界革命の一環として
我が国においても共産主義革命を遂行してわが国体を変革し、
私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立しこの過程を
通じて共産主義社会を実現せんとするものであることは
勿論であります。
・・・略・・・
 コミンテルンの政策はソ連政府の国際政策に強く支配
されているばかりでなく自主的にもその世界革命完成の
目的のためにその中心をなす唯一の現有勢力たる
ソ連国家を守りその存在を維持するための政策をとらざる
を得ないのであります。
・・・略・・・
 吾々のグループの目的任務は
特にゾルゲから聞いた訳ではありませぬが
私の理解する所では広義にコミンテルンの目指す
世界共産主義革命遂行のため
日本における革命情勢の進展と
これに対する反革命の勢力関係の現実を
正確に把握し得る種類の情報ならびに
これに関する正確なる意見を
モスコーに諜報することにあり
狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要にして
その支柱たるソ連を日本帝国主義より防衛するため
日本の国内情勢特に政治経済外交軍事等の
諸情勢を正確且つ迅速に報道し且つ意見を
申し送って、ソ連防衛の資料たらしめるにあるのであります。
従ってこの目的のためには
あらゆる国家の秘密をも探知しなければならない
のでありまして、政治外交等に関する
国家の重大な秘密を探り出すことは最も重要な任務として
課せられているのであります。


・元東京朝日新聞社会部長で尾崎が入社当時の
 上司でリーダーズ・ダイジェスト日本支社長 
 鈴木文史朗氏

 「三田村君が多年の研究により書いた
  『戦争と共産主義』は今この時期に、
  日本国民に示唆するところが非常に多い。
  この書の中に記録されている
  尾崎グループの中には、
  免れて恥無き何人かがいはしないか。
  彼らがいわゆる同伴者でなかったとしても、
  一尾崎に物の見事に駆使されていたわけである。
  現在の日本には、第二、第三の尾崎がうようよして
  いるように思われる。
  また、第二、第三の尾崎に駆使されている学者や
  新聞記者も少なくないようだ。


(全文はリンク先で)



★尾崎秀実の手記(その2)
 http://tao.matrix.jp/kaze/b/277.html
尾崎秀実はスパイ活動を行っていた頃の
信念を、こう述べている。

我々左翼主義者は・・・・・
 コミンテルンの指導下に世界的ソビエット連邦の
 完成を目指すことを以て理想となしたのであります


尾崎は、
世界各国が国家的エゴイズムによる戦争で
共倒れになった後に、
初めて世界連邦が実現すると考えていた。

(中略)
尾崎は
資本主義国家が互いにつぶし合いを始めてくれれば、
「世界的ソビエット連邦」の実現が早まると考えていた。
とすれば、日本が簡単に負けてしまっては困るのである。
アメリカと死闘を演じ、共倒れになってくれるなら、
願ってもない展開になる。

(全文はリンク先で)



★近衛文麿の戦争責任#1
 http://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/38776375.html
   bookimg_0.jpg
(引用開始)
日中戦争も太平洋戦争も、
日本の防衛戦略から外れた戦いであった
ことになる。満州事変、日中戦争、太平洋戦争を、
「十五年戦争」などと同一線上に論じようとする
裏を考えなければならない。

結論を言うなら、三つの戦いを
「日本の侵略戦争である」という
共産主義者の思想が裏にあるということだ。


戦争のための戦争、日本が絶対起こしては
いけない戦争を遂行した張本人が近衛文麿であり、
ゾルゲの下でロシアのためのスパイ活動をした
尾崎秀実(ほつみ)であった。
この二人の研究が現代史の謎を解く
一番のポイントになる。

(中略)

近衛が昭和天皇に一番近い存在で、
天皇の前で胡坐をかいて話ができた
唯一の人であるとか、
誇り高き貴族である近衛が東京裁判で
被告席に立つのを嫌がり、毒殺自殺した

などというような、表面的な近衛の人間を
論及しているだけで、近衛の本質的な思想を
追求する論者があまりいない。
今のところ
中川一人が近衛を共産主義者と断定し、
また近衛が総理大臣として行った事実のみに
焦点にあて、
近衛こそ、ゾルゲ、尾崎の画策に従った、
日中戦争、太平洋戦争
(木庵注:この二つの戦争を大東亜戦争と
 呼ぶようにしたのも近衛であると思うのだが)
に向かわせた大罪者であると糾弾している。

尾崎は朝日新聞社出身で、
近衛文麿総理のブレーンであるとともに、
共産ロシアの「ゾルゲ機関(細胞)」の
最高メンバーとして、
日中戦争の拡大(講和阻止)、関東軍の対露開戦
(シベリア侵攻)阻止、日本軍の「南進」誘導・・・など
「八年戦争」(日中戦争、太平洋戦争には継続性があり、
まさに「八年戦争」と呼ぶにふさわしい)を
デザインした日本隋一の「戦争脚本家」であった。
また、天才的な煽動家でもあったのだ。


(全文はリンク先で)

★近衛文麿の戦争責任
 (尾崎と近衛はシャム双生児)#2

 http://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/38780976.html
(引用開始)
日中戦争をなぜ日本はしたのか、
日独伊三国同をなぜ日本は締結したのか、
「南進」という対英米戦争の道を
なぜ日本はしたのか。

これらの謎を解く鍵のすべてにおいて、
近衛文麿が関わっている。
なぜなら、日本の破局を運命づけた
これらすべての決定は、
近衛文麿が総理大臣であったときに
なされたからである。

近衛は終戦の年、1945年12月16日未明、
青酸カリ服毒自殺により、あの世に行ってしまった。
この自殺によって、
すべての謎を葬り去ってしまったのである。
そして、「貴族としての誇りを死をもって守ろうとした」
というような近衛を美化する風潮さえ現れた。


それに、
戦後日本の多くの赤い学者やジャーナリストたちは、
謎を覆い隠そうとした。


(続きはリンク先で)


★近衛文麿の戦争責任
 (日中戦争による経済破綻、
 尾崎秀実の策謀)#3

 http://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/38784917.html


★尾崎秀実の手記を読めば
 共産主義者が軍部や右翼を
 自家薬篭中のものにした事がわかる

 http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/192/




ゾルゲと共にソ連に我国の最高機密を流し続けていた
朝日新聞の記者・尾崎秀美。
共産主義シンパの近衛文麿首相のブレーンとなり、
日本を戦争へ導く工作を行った。
彼のねらいは、日本を共産主義国にすべく、
レーニンの言う「敗戦革命」を起こすことにあった。
朝日新聞からは尾崎のほか、佐々弘雄、笠信太郎なども
近衛に近づき、影響を与えた。
ちなみに同じく近衛のブレーンだった西園寺公一
(きんかず・西園寺公望の孫)は
戦後、日本共産党に入党したが、除名され、
家族と共に中国に行き、中国共産党の党員となった。


1950年、GHQのレッドパージにより、
朝日社内から約二百人もの共産分子が追放された。



細川護熙さん、
あなたのお祖父さんである近衛文麿が
朝日新聞記者で共産スパイの尾崎秀美や
佐々弘雄、笠信太郎をブレーンに招き入れ
先の戦争を始めた張本人の大罪者でしょう?
しかも、東京裁判を逃れるために服毒自殺・・・
ヒトラーと同じく、責任逃れの自殺ですよ!

近衛文麿が登場するたびに
日本は戦争へと衝き動かされたのですから。

・第一次近衛内閣 
 (1937年6月~1939年1月)
  盧溝橋事件 支那事変勃発
  国家総動員法成立

・第二次近衛内閣 
 (1940年7月~1941年7月)
  北部仏印進駐 
  日独伊三国軍事同盟締結
  日ソ中立条約 
  関東軍特種演習

・第三次近衛内閣 
 (1941年7月~1941年10月)
  南部仏印進駐
  ハルノート提示(日米交渉決裂)
  帝国国策遂行要領

・戦中・戦後   
 近衛上奏文(共産革命脅威論)
 ソ連による和平仲介を展開
 1945年11月
  米揚陸指揮艦アンコンで謎の尋問を受ける
 1945年12月
  GHQの出頭要請で服毒自殺



昭和天皇の戦争責任を追及する共産主義者達よ。
昭和天皇の前で胡坐を掛けるほどの
共産シンパの近衛文麿が、昭和天皇に
ソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加した
尾崎秀美の画策した
日中戦争の拡大(講和阻止)、関東軍の対露開戦
(シベリア侵攻)阻止、日本軍の「南進」誘導・・・などを
吹き込んでいたのならば
まず戦争責任を取るべきは、朝日新聞ですよ!
子々孫々土下座して謝罪しろというならば

細川護熙さんこそ、
日本国民に対して土下座するべき子孫でしょ。





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★日本の戦争責任を追及する
 「朝日新聞」の戦争責任

 http://www.geocities.jp/pekin_chan/page034.html
(引用開始)
朝日新聞の戦争報道──
たしかにそれは、検証するに値するものである。

戦争を美化し、正当化し、国民の戦争熱を
極限まで煽り、そして、真実を知りながら、
自らの主張に沿って最期の最期まで
それを隠蔽し、嘘を書き続ける。

国民を死地に追いやったその見事なまでの紙面は、
やはり地を圧するものだった。
それは一体いかなるものだったのか。

■凄まじい戦争礼賛記事

朝日新聞が軍部礼賛の記事を掲載し始めるのは、
満州事変以後のことである。

「満州事変以前の日本というのは、
 ちょうど現在の日本のような長期的不況に
 陥っていました」
と、前出の稲垣氏がいう。

「当時は、日本人全体に軍部に対する
 反感があり、軍人が軍服のまま電車に乗ると
 うしろ指をさされるような雰囲気がありました。
 しかし、満州事変勃発以後、国民感情は転換する。
 満州国建国によって国内の閉塞感が一気に
 突き破られる感じを受けたからなんですが、
 朝日はそれでもなかなか軍部を持ち上げるような
 記事は書かなかった。
 しかし、
 そうした朝日の報道に九州の在郷軍人会が
 不買運動を始め、ライバルだった毎日新聞が、
 朝日は売国的だ、という内容のビラを撒くようになる。

 そこで朝日は役員会を開き、方針転換をはかるのです。
 朝日は以降、堰を切ったように戦争を肯定し、
 推進する論陣を張るようになりました。」

その変わり身の早さは、戦後遺憾なく発揮されるが、
とにかく実際に当時の新聞を見てみると
それは凄まじいの一語に尽きる。


<ヒトラー総統独裁>
と表現していた朝日が、
わずか2週間後の2月21日、
ヒトラーが満州国を承認する発言をするや、
その演説を、
<衝撃の大演説>
<獅子吼するヒ総統>


と絶賛し、一気に擦り寄っていく。

親独主義に転じた朝日は、
ヒトラー・ユーゲントの来日にまで、
<若き防共使節団帝都入り>
<海路をはるばる来朝したお友達
 ━━ヒトラー・ユーゲント代表>


と、歯の浮くような歓迎記事を
掲載するようになるのである。
そして、実際に戦争に突入して以降、
その軍国報道は驚くべきものとなる。

いくつか実例を紹介してみよう。

太平洋戦争勃発に対しては、
<ハワイ・比島に赫々の大戦果 米海軍に致命的大鉄槌>
<米太平洋艦隊は全滅せり>

と、他紙とそれほどの差はないが、
それ以降の工夫を凝らした戦争礼賛記事
やはり他紙の追随を許さない。

<我損害、率直に公表 米、苦しまぎれのデマ>
<”味方”に狼狽、同士討 
 無電むなし忽ち七十余機撃墜 笑止、ハワイの高射砲>


と、米軍をさかんに揶揄した記事が出たかと思えば、

<確保せよ”南の富” 洋々たり、我が資源作戦>

日本軍の南方進出を誉めたたえ
この戦争が”大東亜戦争”と名付けられれば、

<大理想、直截に表現 対米英戦の呼称決す>

と、これまた大礼賛を忘れない。
そして破竹の進撃を続ける日本軍に、

<初作戦の落下傘部隊 
 南海の大空に純白の戦列 着陸!
 忽ち敵陣地へ猛攻 
 壮絶、海軍のセレベス急襲>

<この万歳 全世界も聞け 
 一億の歓喜と感謝 けふぞ爆発>


とばかり、これでもかという称賛を送る。

やがて、朝日新聞は、
報道機関としての立場を完全に逸脱して、
戦争遂行のために国民を洗脳し、
扇動していく中心的役割を果たすようになるのである。


(全文はリンク先で)

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★紹介;安田将三、石橋孝太郎著
 太田出版『朝日新聞の戦争責任』

 http://www.geocities.jp/tamacamat/sonota09.html
  sekinin.jpg
■朝日新聞の圧力で一度は絶版

本書は1994年にリヨン社により発刊され、
著作権侵害を理由に朝日新聞が圧力をかけ
発売停止となった本の復刻版です。

戦時中の新聞は言論統制されていたから、
責任は問われないという見方がありますが、
現実にその紙面を見るとそれはウソであるとわかる。
統制は確かにあった。
しかし、勝利戦報道による売上大幅増加に味をしめ、
むしろ統制が求めた以上に率先して戦争を煽りまくり、
結果として軍部をして、負けを認めることが
不可能な地点まで追い詰めていったのが真実に近い。
(引用ここまで)



★【朝鮮日報】
 元朝日新聞記者の植村隆氏
 「慰安婦がねつ造だとする勢力と闘う。
  不当な攻撃には絶対に屈しない」」

 キムチ速報 2015年08月16日
 http://kimsoku.com/archives/8934241.html#more




 韓国紙によると植村氏の記者会見の時、
 産經ソウル支局の黒田氏が
 「場所の不適切さ」を指摘したらしい。
 韓国政府機関の東北アジア財団会議室
 行うのはいかがなものか、
 (韓国政府にやらされてると)誤解されると。
 すると植村氏は
 「俺は韓国政府の手先じゃない」と抗弁
 ➡日本に報じられてる?



マスゴミはいつも
報道しない自由を謳歌!


 

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細川がちやほやされてた時代が日本にとっては黒歴史のひとつです もうただの馬鹿殿でしかないです
[ 2015/08/17 09:00 ] トマト [ 編集 ]
無知でバカほど勉強不足な左翼ですね。
侵略と政治的失敗は違うと思います。それと小泉さんはキャラクターだけの自分本意の無知、政策や政治理念などないお馬鹿議員ですよ。それが証拠に飯島秘書官は小泉さんは官僚や大臣がこうしたいと申しだすとわかったの一言だけでほとんどが他人任せですから…この人でマシだったのは中国韓国に媚びなかったことだけです!
2人ともさっさといっちゃってくれ!
[ 2015/08/17 19:36 ] 七紙 [ 編集 ]
細川さんて孫だったのですね…。
歴史の年表見て、近衛内閣時の出来事が後悔しても始まらない悪い方向へばかり進んだ…と思っていました。昔。
ソ連の進行や捕虜のシベリア抑留とか、結局は裏切られたの?
何を感じていたか知りたい。
[ 2015/08/18 12:31 ] M [ 編集 ]
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