大阪は晴れ
発達心理をやめたら、急に読者が減った。なんでだろう。私の記す哲学と発達心理は内容はほとんど同じなのに。人はタイトルで興味をもつ度合いが違うらしい。
大阪府知事選 私は大阪府民で選挙期間中なので、省く。
共産党と野合してはならない
憲法改正のために、自民と与党は2/3を確保しなくてはならない。自民はもう少し議席を積まなくてはいけない。
一、私の予測では、共産党は来年、それまで積み上げた悪事が発覚して、解散に等しいダメージを受けるだろう。それは、来年の選挙前に発覚する。この時、共産の連携した政党も同じく、共産パッシングの巻き添えを食らう。政党のイメージダウンは必至だ。
ニ、これが現実に起きないと考えてる政党が、いくつかある。社民党や小沢の党である。民主党も岡田氏はその余波は小さいと予想しているのだろうか。それよりも、共産党の組織票で、来年の選挙が有利になると目がくらむ。
共産党の犯罪が発覚しても、あそこは戦中にリンチ殺人をした宮本顕治が党首となったくらいの政党。戦後、暴力革命路線を進み、党員のテロもあった政党。そういう危険さが半ば国民の了解事項となったところから、今更1つや2つボロが出ても、大勢に影響しない。もし共産党に何かあっても、つぶれるまでは時間がかかる。それまでは、党員は共産党に残り、選挙協力は残るだろう。共産党に何かあっても、それは共産の問題であって、私ども政党がとやかく言われる筋合いはない、と言い訳できる。共産の組織票は確実に手に入る。そう予想するのが、共産党との野合に賭ける者である。
逆に、共産党にスキャンダルなど暴露され、政治生命を失いかけた。どこからそんな秘密を仕入れてくるのか。あそこは、スパイ組織のようなものを隠しもつ。あんなに怖いところはない。恨みつらみも千倍である。近づくだけでも、悪寒が走る。犯罪者を党首にもった政党には、一瞬たりとも気を抜かない。けっして握手などするものか。と拒絶するのが、民主党の保守派である。
スキャンダルを流されたか、それら情報で政権運営を妨害されたのか。私事で共産党に対する憤りを隠さないことが、私は時の正義だと信じる。共産党とは、あくまでも水面下で敵対しつつ、路上ではにこやかに挨拶するような、戦略的互恵関係ししか築いてはいけないのである。
共産党と野合を模索する者達に問う。共産党が本当に民主党の候補者に投票する、と思っているのだろうか? 共産党はトップの命令は絶対で党員は必ず守らなくてはならない。だからそう考えるのか? 過去にそんなことは稀にあったはずだ。それで票が上積みされ、選挙で勝てたことがあるのだろうか? 次の選挙は、それが成功するといえる根拠はあるのだろうか?
それらは妄想である。悪人と手を組んで、もし議員になれたとしても、沖縄のように共産の意向を無視できなくて、反政府の手先として利用されるだけだ。共産党と手を組んで何もいいことはない。やめておけ。
哲学の話 -- 理性とは
いきなり難しい話をする。『理性』とはカントが探求した純粋理性のこと。『理性的』という意味の良識的で高度な判断、客観的で科学的な判断ではない。それら『理性的な判断』を人間はどこでするのか、という話である。
デカルトは理性をよくとらえている。理性は、数学の思考だ。感覚や感情ではなく、経験的なものでもないものだ。それは木、森、大地、空、宇宙といった自然世界、物理世界にあるものとは異なるものだ。法則的なものを理解する力なのだ。彼はそんなことを考えた。
カントは理性は誰もがもつものと考えた。彼は理性を純粋につきとめようとした。感覚を理解するのが、『悟性』である。見たものを認識して『それは猫、犬』と区別するのが悟性である。『悟性』で得られた認識を取り扱うのが、理性である。『犬は時速5kmで2時間歩くと10km遠くにゆく。』と。
ヘーゲルは『人生哲学』(岩波文庫)で理性の成長を説いた。それは学問の発展のように理論体系が拡大してゆくことだ。理性とは科学的な思考といえる。最終的には、あらゆる理論は統合され、科学の大統一理論になるのだろう。人間の理性も。ただこの場合は、理性(論理的な部分)と理性が認識するもの(学問や科学法則)とを混同させている。
人間は精神が成長する時、自分の信条を発展させる。学問のように発展する。理性もそのように発展する。ヘーゲルはそれを人生哲学で説いた。
そして、ヘーゲルは最後に、理性の発展をコンパクトにまとめて、小論理学を作った。論理学とは、1+1=2というものや論理演算である。三段論法やそういうものである。
ヘーゲルの結論では、理性とはつまり、論理演算なのである。これは正しい。コンピューターも人間同様の理性があるとされる。PCの知性がいまだ未熟なのはさしおいて。コンピューターは電子回路をもっていて、論理回路をもつ。現代風にいうと、理性は、電子回路=論理回路なのである。
デカルトは『我あるゆえに我有り』と考えた。それには『自己は自然から切り離された存在である。』という前提がある。それを感じた時、デカルトは、自分は自然物とは異なる存在だ、自己は電子の作用だとぼんやり感じたのである。当時、電子などは理解されてはいなかったが。
それはさほど間違ってはいない。が、正確には、理性は、論理回路の機能、論理演算なのである。それができることをもってして、自分が理性だと自覚する。理性が自分の中で働いている時も、それは完全に自然から切り離されて存在でもないのである。電子回路は脳の中・PCの中という物理世界にあるのだから。
要は、ヘーゲルの論文から得られる結論の一つは、純粋な理性が強い人は、計算のしっかりできる人なのである。なお脳が論理回路をもつことは、脳科学で証明されている。それが自己の構成要素の一つであることは疑いの余地がない。理性とは論理演算のできる回路なのである。
さて、ここの読者に『自分は理性だ。』と悟った人はいるだろうか?
おそらくいないだろう。デカルトの時代で、人類が何億人いたか知らないが、気づいて言葉にした人はデカルトのみだった。例えば、ある人はこう言う。『人間には主観と客観があり、主観に惑わされている。客観などもてる人間はいない。』とこれは理性を自己から区別しえていない人である。デカルトやカントの哲学ですら理解していないといえる。
『人間は理性である。法則的なものを理解して、世の中を再構築して、その科学的な視点を心に持ち、それで世界を眺めている。』こう思った人は、デカルトと同じ世界がみえている人だ。理性に依って立つ人間である。ここまで精神が発達した人は現代でもそう多くいない。
あまりに理性的でない人は、少しは理性を自覚して生活したらよい。するとこの世は少しでも、合理的になるだろう。
本日の被害
テレビを見ていると眠らされる。それから朝は顔に刺された感じがある。また頭がやや痛むから頭部を注射されたようだ。
以上