東山の南禅寺に近いホテルの屋上から京都の町を見ると、視界の左隅に平安神宮の丹塗りの鳥居が見えて正面には、吉田って言うんだっけ?、きみが一年だけ働いていた大学が遠くに見えている。
その大学には、他にもゆかりがある友達が何人かいて、いまもまだそこで仕事をしているひとたちもいるのだけど、なぜか浮かぶのはきみの顔で、
あのひとは、あそこで働いていたんだなあー、と考えました。
日本に出かけてみた理由のひとつは、また日本に出かけられるようにするためだった。
「そんなヘンなこと言わなくたって、誰だって飛行機に飛び乗れば行けるじゃないか」という人もいるのは知っているが、きみは、そんなことを言わないのを知っている。
たった三日立ち寄るために、おおげさに「先遣隊」を派遣して、調べて、料亭の厨房にまで立ち入って、まるで南西アフリカの小国の独裁者大統領が旅行するみたいだ、と自分で冗談を述べて、まわりの人に顰蹙を買ったりした。
しかも移動は新幹線(N700A、チョーかっこよかった!)の他は、ヘリコプターとストレッチリムジンで、きみがいちばん嫌いなタイプの旅行だったんだよ。
普通の世の中の基準ではオオガネモチの義理叔父は、最近おれは初心に返るのだとかで、エコノミーシートで日本に来たのが大層自慢で、おい、甥っ子、きみも贅沢ばかりしていると大庭亀夫みたいになってしまうぞ、と訳がよく判らない説教をぼくにしていたが、こっちは、ウォーレン・バフェットが、プライベートジェットを買うまではエコノミーでしか旅行しなかったのに感動して、カッコイイと思って、単純にマネをしてみたかっただけみたいだったけど。
ひさしぶりにモニと歩く京都の町は楽しくて、仕事の用事があった寺町の静まりかえった室内よりも、河原町の雑踏や、高島屋デパートのデパ地下、大丸のワイン売り場を見ているのが楽しくて、なんだか時間があっというまに過ぎてしまった。
もんのすごい人の数で、よく話題になっているらしい中国からの観光客に較べて、フランス人がどこに行っても眼について、いつからあの国は、景気が良くなったんだろう、と考えたけど、さっき考えていたら、もしかすると、フランスのガイドブックを片手にあちこちへ出かけたからかも知れません。
ずいぶん汚らしい町だなあー、という感想しかなかった前回に比べて、今回は、ただもう楽しくて、きみがtwitterで見せびらかして得意になっていた「551蓬莱」の肉まんやギョウザ、大焼売に「甘酢肉団子」まで食べてしまった。
ひとつだけ当てが外れたのは、たこ焼きで、大阪と京都は、ぼくの杜撰な頭のなかでは、ひとつの町の北と南みたいなものなのに、大阪とは異なって酷い不作で、見るからに不味そうな錦市場のたこ焼きや、焼いたのか揚げたのか不分明な、どどめ色の、不気味なたこ焼きが並んでいて、結局、食べないで終わってしまった。
清水へ行って、なんだか人間の大群を見に行ったようなもので、お目当ての清水焼は、とうとう見に行く気力が起きなくて終わってしまったけど、ライトアップしたりして、ロンドンに似て、京都も夜にも(観光客が)散歩できる町になったんだなーと考えたりした。
もっとも、前から、そうで、万事にうかつなぼくが知らなかっただけなのかも知れないけど。
京都の人は、なんだかもう、ものすごく親切で、イスタンブルの人たちを思い出すほどだった。
なにか、ちょっと、例えば日本画の絵の具のことを聞くでしょう?
そうすると、すごい勢いで、二時間も機関銃のような速さで説明してくれて、
「九号と十号!いいですか?九号と十号が、ちょうどまんなかくらいのツブツブ。おおきいほう?ああ、おおきいほうは、仕上げにパッパッとまぶしたりするときに使いますのや。パッパッパッ!
あー、今日はほんまに楽しいわ!!」
という調子で、このあいだ来たときもそうだったけど、少しおっちょこちょいで、底が抜けたように親切で、忙しい口調なのに、どこかがおっとりしている京都の人たちは、やっぱりモニやぼくと、とても相性がいいようでした。
京都駅に行って、地下にもぐって、ヨドバシカメラにも行ったの。
シグマのレンズを買った。
地下をずんずん歩いていったら、ものすごく照明の明るい地下商店街があって、おもいがけずアンティ・アンズがあって、おもわず買い食いをしそうになったが、たまたまついてきていた食料担当の人に「調べてないから」と引き止められて、くっそー、泣いてやる、と考えた。
放射性物質みたいなものは、ほっておくと、どのくらい体内から排出されるのか調べてみないとダメだな、と思いました。
とても楽しかった。
ぼくはそのまま東京に向かって、鎌倉の山を歩いて、念願だった「あんまり高級過ぎない焼き鳥」を食べて、つくねの生卵ソースにさえ怯まずに食べて、日本式のカレーと若鶏の唐揚げも、淡路島の鰺の刺身や、ミナミマグロの刺身をたらふく食べて、朝から日本酒を飲んで酔っ払って、ふらふらと銀座を歩いたりしていた。
東京はコーヒーがひどく不味いところだと偏見をもっていたが、エスプレッソバーに入ったら、とてもおいしいコーヒーで、しかも二杯目以降は百円で、ケチンボのぼくは大喜びで三杯飲んでしまった。
食料の人が、それだけは絶対にダメだと言っていたが、どうしてもやりたかったので、有楽町のガード下にモニとふたりで座って、ビールを飲んだ。
そしたらさ、急に胸がつまってきて、モニに「楽しいね」と述べようとしたら、言葉がうまく出なくて、涙がにじんできてしまうんだよ。
モニも、同じ気持ちで、やっぱり目尻に涙がにじんでいる。
きみなら聞いてくれそうな気がするから、言うが、ぼくは、そのとき、
「ぼくは日本が大好きなだけだったのに、どうして、こうなってしまうんだ!」と大声で叫びたかった。
日本語世界にいけば、いつまでもいつまでもしつこく群がるトロルたちや、福島事故でばらまかれた放射性物質は安全だと、いまになってさえ言い張る科学者のバッジをつけた政治屋たち、いまでは押しも押されもせぬ東アジア最大の危険因子となった国家主義者たちが取り仕切る政府、英語記事と並べてみれば、すぐに判る、日本語の壁を利用して、真実は決して伝えようとしない日本語のマスメディア、そうして最も怖ろしいのは、表現の自由は大切が、言論の自由は大事だ、われわれは自由社会の国民だと口々に言い合いながら、右から左まで、全体主義者の相貌を隠そうともしなくなった日本のひとたちの大群。
これが日本だろうか?
ぼくは、こんな国にこだわっていたのだろうか?
しかも、よく眼をこらしてみれば、ぼくがいままで、中国系人や韓国系人、UK人やNZ人に繰り返し説明してきた「日本」なんて、どこにもありゃしない。
そこにあるのは、子供のときから徹底的にまわりによって「おまえは、わがままだ、出来損ないだ、間違っているんだ」と痛めつけられて、自由への意志さえ持てなくなった「壊された魂」の国民の群で、無表情をつくり、恭しくお辞儀して、お互いを敬遠するだけのひとたちでしかない。若いウエイトレスたちも、よく見ると年長への顧客への敬意のかけらも持っていなくて、横柄な客達への軽蔑を押し隠した、儀礼的な恭謙をみせる若いひとたちであるにしかすぎない。
ぞっとするほど孤独な、疎外されて、てんでんばらばらな魂が、まるで、お互いを見ることを恐れるように、顔をそむけあって、今日という一日が、トラブルなく、頭の上を通り過ぎていくことを祈っている。
帰りの、空港に向かうストレッチリモのなかで、モニさんが、そっとわしの手の上に手のひらを重ねて、
「ガメ、そろそろ日本語をやめたらどうだ?」と言っていたけど、モニさんは、三日間の観察で、感じたことがあったのでしょう。
日本が嫌いになったわけじゃないんだよ。
なんといえばいいのだろう?
…憑きものが落ちたといえばいいのかな。
日本にやってくるのは、ものすごく楽しみで、実際に楽しくて、まるで大好きなおもちゃに囲まれてまる一日過ごしてもいいと言われた子供みたいにはしゃいで過ごしたのだけど、なんだか浅い、カンカン音がしそうな、表面的な興奮で、むかしは日本にたしかに感じたはずの、違う文明への敬意というか、感動と表現すればいいのか、ぼくの日本語をここまで持ってきた力のようなものの源泉が、もう感じられなくなってしまった。
せっかく準備が出来て、来ようと思えば何回でも来られるようになった途端に、いわば「飽きて」しまうのは、いかにもぼくで、またかよ、ときみに笑われそうだけど、自分の気持ちが自分でコントロールできるものならば、この世には悲劇というようなものは存在しないことになる。
でも、怖いので、また来るよ、と言っておきます。
そのときは、もしかしたら、会ってもらえますか?
大阪の勤め先の大学にでも、どこにでも行くよ。
リミュエラの家に帰って、海辺のイタリアンレストランに行った。
ピザがチョーおいしい店なんだよ。
グラスの、カベルネソーヴィニヨンを二杯飲んだ。
店の海に面したテラスの英語の「音」は、日本語の店内に響く「音」とは違って、柔らかくて、低いんだ。
モニさんに「ニュージーランドにもどって来ると『ガイジン』ばっかりだね」と、つまらない冗談を述べた。
考えてみると、日本では、ほんとうにびっくりするほど欧州系人が少なかった。
きみと絶交しているあいだ、ぼくは毎日、なんだか落ち着かなかった。
ほんとうに相性がよくて、敬意をもてる相手とは、どれほど意見が隔たっていても「絶交」なんて出来ないのだと、いいとしこいて学習してしまった。
今度、手紙を書きます。
英語になってしまうかも知れないけど