差別の存在を認めない傾向とは

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 なんだか、前回のネタははてなブックマークで賛否両面から大人気でした。でも、いくつか前提となる知識がないとピンとこない応用的な内容でしたので、趣旨をきちんと理解できた人はそう多くなかったかもしれませんね。今回は、前回のエントリーの統計学的な根拠を少し紹介しましょう。

 かつて敬愛する先輩が差別論の授業資料をウェブで公開していて、その中に興味深い調査のアイディアが記載されていました。具体的な場面をあげながら、「次のいろいろなことがらを差別だと思うかどうか、1から3のうちでもっともよくあてはまる番号をそれぞれ選んでください」と尋ねます。それによって、「差別の存在を認めない/認めやすい傾向」を測定しようというわけです。

 先輩には無断でしたが、即、非常勤先の「社会学入門」を受講している学生を対象に調査をしてみました。(結果は翌々週の授業のネタに使いました。じつは、前回のエントリーは、その「翌々週の授業」の資料の一部です。) 

記述統計量

度数 平均値 S.D.
被差別部落出身者であることを理由に婚約を解消すること 143 1.16 .39
同性愛者が周囲から忌避されること 143 1.20 .47
男性の政治家が「女性は家庭で子育てに専念すべきだ」と言うこと 144 1.25 .59
HIVに感染していることを理由に解雇されること 144 1.26 .53
在日韓国朝鮮人が被選挙権を持たないこと 142 1.37 .61
重度の身体障害があることを理由にアパートの家主が賃貸契約を断ること 144 1.44 .61
特定の政治団体に所属しているために企業に採用されないこと 144 1.58 .69
結婚前に相手の家柄を調査すること 144 1.82 .76
テレビドラマで「めくら」「つんぼ」などの言葉を使うこと 144 1.82 .75
出身大学によって企業の採用や待遇が異なること 144 1.85 .78
公共の建物にエレベータなどが設置されていなくて、車いすの障害者が上の階に上がれないこと 143 1.96 .78
男女がともに働く職場で女性のヌードのポスターを壁に貼ること 143 2.01 .82
企業に一定数の障害者を雇用するように強制すること 144 2.08 .76
女性の国会議員が男性に比べて著しく少ないこと 144 2.12 .71
先天性の障害があると診断された胎児を中絶すること 143 2.13 .66
職場の上司の私的な依頼(引っ越しの手伝い等)を強制されること 144 2.19 .79
オウム真理教の信者が地域社会から排斥されること 143 2.20 .72
女性がデートの経費を男性に支払わせること 144 2.21 .77
レイプを題材にしたポルノビデオを販売すること 144 2.22 .80
企業が「美人」を受付などに配置すること 144 2.24 .75
企業が採用の際に30歳未満という条件を加えること 144 2.26 .70
親のコネで一流企業に入社すること 143 2.27 .81
60歳で定年退職しなければならないこと 144 2.47 .69
女性が結婚相手に「三高」を選ぶこと 144 2.56 .58
職場で「性格が悪い」と感じる同僚との接触を避けること 143 2.59 .64
学生には馬券を買うことが認められないこと 144 2.69 .65
職場で将来の活躍を期待されていた女性が自ら結婚退職をすること 143 2.83 .39
20歳未満の者に選挙権が与えられていないこと 143 2.86 .40

 上の表が、質問項目と調査結果(平均値と標準偏差)です。回答は1「差別だと思う」、2「場合による」、3「差別と思わない」の3点尺度なので、平均値が2を下回ると、「差別だと認定した回答者が多い事象」ということになります(赤字)。また、平均値の順番に並べてありますので、上に行くほど「差別だと認定されやすい事象」、下に行くほど「差別だと認められにくい事象」ということになります。

 社会科学として差別研究に取り組んだことのない方は、こういう表を見ると、どの事象が差別であり、どの事象が差別ではないか、と判定したがる傾向があります。まあ、差別かどうかがハッキリすれば、「差別」と認定されたことをやらなければ加害者扱いされるリスクがぐっと減りますからね。前回述べたように「悪人呼ばわりされたくない人」であれば、白黒付けたくなる気持ちはわかります。ちょうど、前回のエントリーに付いたコメント3件がすべてそういうものでしたね。

 でも、一番上の項目でも「差別と思わない」と答える人はいますし、逆に一番下の項目でも「差別だと思う」と回答する人はいます。一番上から一番下までのどこかに恣意的に線を引いて、「ここから上は差別です」などと決め付けるのはナンセンスです。

 そもそも、この調査の目的においては、どの事象が差別(だと認められやすい)か、ということはほとんど重要ではありません。調べているのは、回答者の心理的要素(差別の存在を認めない/認めやすい傾向)なのですから。

 上記の回答の素点を全部加算すると、最小値40、最大値73、平均値56.7、標準偏差6.4、という変数ができあがります。この得点が高ければ、上記の設問で「差別と思わない」と回答することが多かったということですし、逆に得点が低ければ、「差別だと思う」と回答した項目が多かったということになります。これは、「差別の存在を認めない/認めやすい傾向」の尺度だと解釈できます。

 かなりラフではありますが、こうやって作成した尺度と、別途作成した「マイノリティへの冷淡な態度」との相関係数を求めたところ、0.49という値になりました。つまり、差別の存在を認めない傾向のある人ほど、被差別集団に冷淡な態度を持っている傾向がある、ということです。

 となると、「差別の存在を認めない傾向」というのは、やや文学的なレトリックを使うなら、「人権問題への鈍感さ」と言い換えられる、ということですかね。ちなみに、0.49という値は、この種のデータにおいては、強い相関関係をあらわしています。

 学術的にどれだけ信頼できるか結果かというと、調査設計がラフですから、社会学分野では業績扱いはムリでしょう。でも、K西大学でも、K南大学でも、O教育大学でも、K女子大学でも、(上表の順位は変わっても)同様の相関関係が、ほぼ同じ値で出ています。まあ頑健な結果だろうとぼくは思っています。(むしろ、当たり前の結果すぎて、ちゃんと調査しようという気にもならないぐらいです)

 ようするに、人にはそれぞれ、人権問題への感受性というか、差別の存在をキャッチする敏感さの程度のようなものが違った強さで備わっているわけです。そして、この感受性が弱い人は、単に鈍感だというだけでなく、マイノリティに対して冷淡な傾向がある、という話でした。

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コメント(4)

私のコメントの趣旨を理解されていないようなのでもう一度コメントさせておきます。
私は前回の記事の、”差別をする傾向の人は存在を認めない傾向がある”という主張に反対しているわけではありません。むしろその傾向はとても顕著でしょう。
私のポイントは、”社会には許容される差別と許容されない差別がある”という点です。
あなたが例であげた朝鮮学校を応援してくれないというのは一種の差別と呼ぶこともできますが、それは社会において許容される範囲の差別であり、その差別を認めるとか認めないかというのは別問題なのです。極端に言ってしまえばそれが差別であろうが差別でなかろうが大きな意味を持たない。

私はあなたが社会で許容される差別を取り上げてそれを社会問題として提起しようとしていることに疑問を感じコメントをした次第です。もしあなたが世の中から全ての差別がなくなってしまえばいいと思っているなら、それはあなたの身勝手な理想論でありそれを他人に押し付けるのは失礼な話です。人によって価値観が違うということはあなたも十分ご存知ではないのですか?

それでは。

訂正。
>もう一度コメントさせておきます。
"もう一度コメントさせていただきます。”の間違いです。

>それは社会において許容される範囲の差別であり

許容される範囲の差別かどうかは誰が判断しているんですか?

>差別であろうが差別でなかろうが大きな意味を持たない

社会に於いて差別と考えられているかどうかは、差別を受けている(と感じている)側にとっては大きな意味を持ちません。かつて女性の社会的地位が低かったとき、多くの女性にとってそれは当たり前のことに過ぎなかったでしょうが、それは女性に対する差別がなかったことを意味するのではなく、差別を受けている当人さえそれを認識していなかったに過ぎません。

>もしあなたが世の中から全ての差別がなくなってしまえばいいと思っているなら、それはあなたの身勝手な理想論でありそれを他人に押し付けるのは失礼な話です。人によって価値観が違うということはあなたも十分ご存知ではないのですか?

何らかの形で「区別」を必要とする部分はあり、それと差別の明確な線引きが難しいという意味に於いてなら一定の理解を示しますが、

>社会で許容される差別を取り上げてそれを社会問題として提起しようとしていることに疑問を感じ

ですから、それが「社会で許容される差別」(=必要な区別として、区別する側・される側双方に受容されているもの、という意味ですよね?)だという判断はどこから?

Docseriさん。
鋭い点をご指摘いただきありがとうございます。

>許容される範囲の差別かどうかは誰が判断しているんですか?
これは私の日本語がいたらなかったのですが、正確には、
「社会で許容される差別」ではなく、「現在社会において許容されている差別」という意味です。
社会の価値観はダイナミックなものなので、許容される差別の範囲というのは変わりつづけますが、前回の記事ででてきた、「朝鮮学校だから応援しない」という差別は現在の社会の法体系では許容される差別あるという意味です。
また法律の範囲外の倫理の問題は、個人それぞれの倫理感に委ねられます。それが民主主義の原則です。

例えば国母選手の服装が批判された問題は完全に倫理感の問題ですが、私の意見としては国母選手のやったことは完全に個人の自由であり、日本オリンピック委員会がそれを気に入らないならば出場権を取り上げればいい話で、結局権力のある側が最終的に判断の決定権を持っているのです。この場合国母選手は服装の倫理において完全なマイノリティーです。

同じように朝鮮学校を応援するかどうかは違法でない以上倫理的には個人の自由であり、その行動を社会的に罰するかどうかは社会の中で権力のある側が決定します。この場合はマジョリティー側である日本人ですね。つまりはマイノリティーは民主主義では弱い立場にならざるを得ないという意味です。これは辛い現実です。

そこでマジョリティー側がマイノリティーの価値感を守ろうとするかどうかも、結局マジョリティー側の裁量次第になります。

女性の差別が現代なくなってきているのは、女性は元々比率的に社会の半数を占めており、それだけ社会的価値感の形成能力を持っているため女性の意思で社会を変えることができたからです。
在日の方たちにそれだけの権力、価値感形成能力があれば、マイノリティーがマジョリティーをひっくり返すことも可能です。

つまり法律の範囲外においてはマジョリティー側にマイノリティー側の倫理的価値感を守ってやる義務などないわけです。なぜならすべての人間は結局自分に都合のいいことを追い求めているからです。

そうなると法律的にも倫理的にも、朝鮮学校を応援しないことは社会において許容されているということになります。

私がコメントをしたのも結局日本人というマジョリティー側からの意見であり、マイノリティーの権力を強めようと擁護する気は一切ありません。なぜなら私にはそうする義務がないからです。私は民主主義の原理に則ってフェアな発言をしているだけです。
あなたは「人間のすべての発言は政治的である」という言葉をご存知でしょうか?

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このブログ記事について

このページは、mskimが2010年2月15日 01:11に書いたブログ記事です。

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