スレッド一覧

  1. 正義のあかし(44)
  2. 虚構の大石寺疑惑(1)
  3. アラシ行為記録(17)
スレッド一覧(全3)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成

新着順:4/32533 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

永遠の希望様

 投稿者:多様性万歳  投稿日:2015年11月13日(金)10時46分6秒
  通報 編集済
  最近、この板に限らず、学会員の間で「教条主義」という言葉をよく聞きます。
この「教条主義」という言葉は、自分の主張を正当化するために、
都合の悪い相手側に対して用いられることも多く、
そうした場合、互いに「教条主義」のレッテルを貼り付けるため、
確かにどちらが「教条主義」なのか分からなくなる場合があります。

「教条主義」の定義については、辞書やネットで調べても、様々ありますが、
その中で、私たち学会員が使用している意味に一番近いのは、
「権威者が述べた事を、その精神を深くも理解せず、杓子定規に振りまわす態度」
という定義ではないでしょうか。

さて、永遠の希望様の投稿に
「先生が教えて下さったことを実践することを教条主義と言う人がいます」
というのがありました。
これについては、誰がそのように述べているのか知りませんが、
永遠の希望様の言う通り「それはおかしな批判だと思います」に同意します。
先生が教えて下さったことを実践することは、弟子として当然のことであり、
それ自体は、「教条主義」か、そうでないかの判断基準にはなりません。

次に、永遠の希望様は以下のように述べられています。
「先生が教えて下さったことを、先ず全てその通りですと受け止めて実践する
その上で機根、時に合わない、修正した方がいいことは修正していく
この姿勢が大事だと思います」

この意見については、読み手に以下の2つの異なった受け止め方を与える気がします。

① <師敵対>パターン
「先生が教えて下さったことを、先ず全てその通りですと受け止めて実践する」
→ 師の言葉を、自身の「外側」に聞いてしまう(「如是我聞」ではない)。
つまり師の「真意」と、自身が理解した「真意」の間で不一致がある。
→ この状態で師の言葉を実践するのが「師弟の道」であり「教条主義」である。

「その上で機根、時に合わない、修正した方がいいことは修正していく」
→ 師の境涯を自身の境涯で推し量るため、師の言葉を杓子定規に受け止めてしまい、
新しい事態に対応できず、その結果、師の言葉を「悪しく用い」てしまう。
→その結果「師敵対」 となる。
(師の言葉を、自身の境涯で「機根に合わない」「時に合わない」と判断すること自体、
師の「真意」を理解していない証拠であり、ましてや、それを「修正していく」のは、
師の「真意」に反してしまうため、結果的に師敵対に陥ってしまう)


② <師弟不二>パターン
「先生が教えて下さったことを、先ず全てその通りですと受け止めて実践する」
→ 師が教えて下さった言葉を、自身の「内側」に聞くこと(「如是我聞」)。
つまり師の「真意」と、自身が理解した「真意」が一致すること。
→ この状態で師の言葉を自発能動的に実践するのが「師弟不二の道」であり、
単に師の表面の言葉のみを受け身で実践する「師弟の道」や「教条主義」とは一線を画す。

「その上で機根、時に合わない、修正した方がいいことは修正していく」
→ 師の境涯に迫り、師の言葉の真意を理解することで、新しい事態にも臨機応変に対応していける。
→つまり「随縁真如の智」

永遠の希望様の伝えたかったことは、上記の<師弟不二>パターンの捉え方だと理解しています。

また同じ投稿の中に、「如是我聞」という言葉が出てきましたので、
最後に、まなこ様が当板に毎日、アップして下さっている『法華経の智慧』から、
「如是我聞」についての池田先生の言葉を抜粋し紹介します。
お互いに、池田先生の言葉から、その真意に迫り(如是我聞)、
「先生の御指導通り」に実践していきましょう。

「大聖人は「文・義・意」という原理を示されている。
文とは経文の文面のことであり、義とは文が指し示す教義・法理に当たる。
経文の文面を見ているだけでは、この「義」までしかとらえられません。
しかし、いかに法華経の「文」と「義」を論じても、その「心(意)」に触れなければ意味はない。
大聖人は、結論的に「法体とは南無妙法蓮華経なり」(御書 p709)と仰せである。
「法体」「諸法の心」とは、二十八品全体に脈打つ「仏の智慧」そのものです。
その智慧が「南無妙法蓮華経」です。
それを「その通りに聞く(如是我聞)」とは、「信心」です。「師弟」です。
師匠に対する弟子の「信」によってのみ、仏の智慧の世界に入ることができる。
「仏法は海の如し唯信のみ能く入る」と、竜樹(大智度論)や天台(摩訶止観)が言っている通りです。
この観点から言えば、法華経の「如是我聞」とは、全生命を傾けて仏の生命の響きを受け止め、
仏の生命に触れていくことです。
「如是」は、「その通りだ」と聞き、生命に刻んでいく信心、領解を表している。
また、それが全人格的な営みだからこそ「我聞」とあるのです。
全人格としての「我」が聞くのであって、単に「耳」が聞くのではない。
また、この「我」とは、普通は、経典結集の中心者とされる阿難等です。
しかし、その「心」は、末法の今、この自分自身が「我」である。
自分が、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の説法を、
全生命で聞き、信受していくのが「如是我聞」の本義なのです。
大聖人は「廿八品の文文句句の義理我が身の上の法門と聞くを如是我聞とは云うなり、
其の聞物は南無妙法蓮華経なりされば皆成仏道と云うなり」(御書 p794)と仰せです。
自分の外に置いて読むのではない。
すべて「我が身の上の法門」であり、「我が生命の法」であると聞くべきなのです。」

<上記、池田先生の言葉は(http://sgi-shiteifuni.com/?p=6469)より抜粋>
まなこ様、いつもありがとうございます。

以上
 
》記事一覧表示

新着順:4/32533 《前のページ | 次のページ》
/32533