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「体感」する
現代社会では学ぶことに関して「体感する事」「体感を追試すること」が基本であることが失わ
れている。 体感無き知性、知識、人格がさすらい続けている迷宮という現象が現実なのだ。
創価の信心をしてもイマイチ信心に陥ってしまっている人が多い。体感無き世界に身を置くから
である。体感することが希薄であることは、自我と言う妄想で自己都合による世界を生きている
ことを意味している。
「励ましによる激励」が言葉として文字として表現されるが、「体感無き」人の言葉や文字は見
かけとなり、励ましや激励にならない現象がある。「体感者」が訪れてくれるだけで元気が出る
場合もある。
今、求められるのは体感者になることである。
体験は、時間経過した後での「思い起こし」であり対象化されたものである。体感ではない。体
感とは「今、ここにおきている」感覚反応である。つまり「反応している事実に気づく事」をい
う。(梅干しの例)
私は、仕事柄「言葉」を通して語られる内容について常に意識を向けてきた。例えば、心理療法
の技法を修得するために技法に忠実に則して自分自身で追試を行い、検討・吟味をしてきた。
追試とは、現代科学だけではなく人類の学びの基本である。試験・確認・確証・検証等は、自分
自身で実際に行い真偽を確かめる「智慧」に入るための入り口である。体験が希薄・内実性が損
なわれている等は体験することの追試をなおざりにしている自己都合(自我)が優先されている
現象なのだ。
競馬の予想の如くの次期会長予想⇒現象としての次元は同じレベル、この場合、自我は予測と言
う妄想を抱くことがエネルギーとなっているのだ。事実がそこには無いということ。
体感することを自分自身で排除している現象、姿がそこに在るだけ。
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