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迹化の菩薩と地涌の菩薩
投稿者:多様性万歳 投稿日:2015年11月11日(水)22時48分22秒
「では、どうすれば、「地涌の菩薩」を自身の中に顕現できるか、言葉を換えれば、
どうすれば仏界を涌現できるか、それは、すでに師に教えて頂き、皆さん御存知であろうし、
日蓮大聖人の御金言によれば、「やすやすと」仏になれるのである。」
アルベア様の言葉を、自分なりに解釈すれば、
アルベア様の言う「自我」とは、「迹化の菩薩」としての自覚であり
(九識論で言えば、自我の広がりに応じて六識、七識、八識であり)、
「体感」とは、「地涌の菩薩」としての自覚(つまり九識)ではないでしょうか。
真摯な深い考察、有難うございます。私は、戸田先生の「獄中体験」の生命論を「教学用語」を
なるべく使用せずに、いわゆる「実践論」としての生命論、生命感覚の覚知への促しとして提示
させていただいているものです。
アルベアの一連の投稿からの解釈は、その通りです。
一般に言われている「自我」という言葉は、明治以降、特に昭和20年以降に急速に浸透した欧
米化された言葉として日本人に浸透してきた「概念」です。「私」という存在の在り様に意識を
向けた時に、「私には自我がある」という見方は実体が無いのです。それこそ仮説・解釈の類な
のです。
池田先生は「自我」を自分自身と言う全体としてとらえて使用しています。多様性万歳様の捉え
方と同様な見方です。
さて体感とは、自分自身の内から出ている身体的感覚です。「体感する」ことには実体がありま
す。この体感感覚により「縁」により「地涌の菩薩」の自覚、がもたらされる現象なのです。こ
のような現象を「地涌の菩薩感覚」と、より身近に促すために使用しています。「南無妙法蓮華
経」は「南無妙法蓮華経感覚」と使っています。
例:一流の職人が作品に「手で触れてわかる」という感覚と同じように、様々な大聖人の教学用
語は体感することが前提となっています。(言葉は体感することにより内実性が形成されていく
ものです)
戸田先生の小説人間革命にある悟達場面の「俺は地涌の菩薩なんだ!」という表現は、体感する
ことによる自得・修得です。池田先生の「法華経の智慧」「方便品・寿量品講義」には戸田先生
の悟達の場面を引用されている中で語られています。
現代人は「自我」という「獄中にあって」「体感する身体感覚」を閉じ込めているようなもので
す。「体感」することにより「やすやすと仏になれる」のです。
自分自身が体感している現象を観察しながら見ていくと御書や先生のスピーチが、今までと異な
り「見えてきます」「感じるようになってきます」それこそが「地涌の菩薩」です。
今日も1日体感していきましょう。有難うございました。
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