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迹化の菩薩と地涌の菩薩の違いについては様々な解釈があるが、
ここでは、試論として私見を述べてみたい。
まず、自分自身は迹化の菩薩なのか、地涌の菩薩なのか、考えてみる。
結論から言えば、迹化の菩薩であり、地涌の菩薩であると思う。
書籍や新聞、映像などで池田先生の言葉や行動を知って、
ほとんどの会員が、頭で理解し、尊敬し、自分もそうなりたいと思うだろう。
また、そうした雰囲気が組織でも出来上がり、池田先生を称え、
その行動を倣うことが良しとされるようになった。
逆に言えば、池田先生の言動に反することは、問答無用で悪とされる。
近年、池田先生のお姿に接する機会がめっきり減り、
だんだんと池田先生の言葉のみが独り歩きするようになってきた。
会員同士の相談事や、幹部からの指導も、最後は、水戸黄門の印籠よろしく、
池田先生の言葉で締めくくられる。
最近の学会本部、公明党の執行部に対する肯定も批判も、
お互いに池田先生の言葉を引用して応酬が続く。
判断基準は、あくまでも池田先生の言葉だ。
ここまで読んで、ほとんどの人が、そのどこがいけないのかと怪訝に思うだろう。
そう、確かにそれ自体は何も悪くない。
なぜなら池田先生の言葉は、真実だからだ。
問題は、その言葉が真実だからといって、「教条的に」従うことである。
教条的に従えば、行き着くところは盲信から狂信になるか、
又は、頭では理解しているが、心では納得できていないために、
「まことの時」に、その言葉を容易に捨て去り、良心の呵責を感じることも出来なくなる。
例えば、先般の安保法案についての会員の対応を見ていると、
池田先生の創立した政党だから、間違いがあるはずないと盲信してしまった人たちや、
政治的判断で、池田先生の言葉に平然と反する決定を行った学会と公明党の執行部の人たちがおり、
いずれも池田先生の言葉に「教条的に」従うことへの限界があらわになった。
これらの人たちは、始成正覚の釈尊に出会った「迹化の菩薩」のように、
たんに「導かれる側」として、教条的に釈尊の言葉のみを受け入れていた人たちと同じである。
迹化の菩薩たちは釈尊が生きている間は、一途に修行に励むが、釈尊がいなくなると、
その言葉の真意が分からずに、また迷ってしまう。
なぜ釈尊が末法の人々を救うために、それを「迹化の菩薩」に託さずに、
わざわざ「地涌の菩薩」を召し出されて託されたのか。
それは末法濁世において、人々を救っていくには、「迹化の菩薩」では、
耐え忍ぶことが出来ないからである。
では、この世において、ある人たちは「迹化の菩薩」であり、
またある人たちは「地涌の菩薩」であるというように、別々の菩薩が存在するのだろうか。
例えば、安保法案に賛成した執行部や会員は「迹化の菩薩」で、
反対した人たちは「地涌の菩薩」なのか。
私はそうではないと思う。
私は、一人の中に、「迹化の菩薩」と「地涌の菩薩」が存在すると考える。
どういうことか。
それは多くの人たちが、池田先生の言葉を聞いて、広げて言えば、日蓮大聖人の言葉や、
歴代三代会長の言葉を読んで、聞いて、頭で理解し、良いことと判断し、
それを受け入れて、その言葉に従うようになる。
師の言動は、凡夫では理解し難いほど、素晴らしい言動であるため、
盲目的に受け入れるしかないと思ってしまう。
そして、「救われる側」として自身の成仏を最優先とし、師の言葉に付き従っていく。
その結果、師が身近に御在命のうちはいいが、おられなくなると、
残された言葉に教条的・狂信的に従うか、
あるいは、師の言動は仏だから可能なことであって、凡夫の自分には不可能だと見切りをつけ、
いざという時に、容易にそれを捨て去ってしまう。
これはまさに、末法において広宣流布を担うには、荷が重すぎる「迹化の菩薩」の姿である。
では、地涌の菩薩はどこにいるのか。
それは池田先生の言葉を聞いて、また御書を読んで、その真意を自分の中に思い出す時、
その胸中にいる。
師の言葉は、その真意が自分の「内側」にあることを気づかせてくれるものであって、
決して、真意や真理を、「外側」から押し付けたり、与えたりするものではない。
例えば、「広宣流布」という言葉。
それは単に池田先生から与えられたスローガンではなく、
自分自身が、それを願い、実現するためにこの世に生まれてきた目的であり、
自分自身の「誓願」である。
だから広宣流布は、池田先生から言われたからやるのではなく、
自身の誓願として、自発能動的に行なう「自分の使命」なのである。
結論として、自分の中で「自身の誓願」を思い出せず、広宣流布への行動を、
誰かに言われて、義務感や教条的・盲目的にやっている時は「迹化の菩薩」であり、
一方、「自身の誓願」を思い出し、広宣流布への行動を自発能動的に、
喜び勇んでやっている時は「地涌の菩薩」である。
自分自身の中で、ある時は「迹化の菩薩」、またある時は「地涌の菩薩」というように、
どちらかが現れるが、無明の闇が深い末法濁世においては、釈尊の言うとおり、
「地涌の菩薩」でなければ、広宣流布を成し遂げることは出来ない。
では、どうすれば、「地涌の菩薩」を自身の中に顕現できるか、言葉を換えれば、
どうすれば仏界を涌現できるか、それは、すでに師に教えて頂き、皆さん御存知であろうし、
日蓮大聖人の御金言によれば、「やすやすと」仏になれるのである。
アルベア様の言葉を、自分なりに解釈すれば、
アルベア様の言う「自我」とは、「迹化の菩薩」としての自覚であり
(九識論で言えば、自我の広がりに応じて六識、七識、八識であり)、
「体感」とは、「地涌の菩薩」としての自覚(つまり九識)ではないでしょうか。
以上
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