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「誰が、何して、なんとやら」浪花節だよ、自我の世界、
自我が渦巻く世界には平和は来ない。なぜならば常に相対的な世界だからである。智慧の働き作
用を顕現していくことが池田先生の思いなのだ。
今日、創価の世界に見られる混同、混乱現象は「しょうがない」のである。個人の自我(思惑)
が集合化され稼働しているからである。この現象は、「今ここにいる自分の」外で起きている現
象である。
厳密に言えば「関係ないこと」関係の在る事とは本来「今、ここに在る」自分自身の身体感覚の
みである。
人事について、いろいろ思っても考えても自分の思う通りにはいかない現実、対象化することに
よりウサ晴らしを正当化しているだけ、人事についてのなんの権限もない現実、どうして、そう
いう思いが内側から出て来るのか、起きて来るのか、それが自我の働き作用だかである。思考・
概念の世界にて生息しているということだ。
当の本人は、まったく気づけない、それが自我の殻なのだ、思い込み・信じ込みが、あたかも自
分自身にとって重要な事のことのように起きている現象なのだ。身体感覚から離れたことによる
ストーリーによるドラマだからだ。
例:執行部人事が新体制になっても、あらたな執行部を攻める、執行部以外の者が任命されて
も、同様な現象を気づかずに起こしていくことが「わからない」すべて相対的な世界に身を置く
がゆえの妄想・幻想なのだ。
なぜ、そういうことをするのか、わからない、わからないまま続いている。
ちなみに池田家のひとが会長に選出されたらどうするのでしょうか?ガス抜き?こうしたことも
自我がもたらせている物語にしかすぎない、自我を離れることができない程、身体感覚を取り込
んでいる状態、働き作用があるからである。自我を中心に意識を置く限り、何が起きても満足せ
ず、納得しないことは目に見えている現実である。肥大する自我の主人公になっているのだ。こ
のような事は、いつの世にもあった現象であり、世代を超えた愚考が継承が繰り返され、もたら
されているだけの現象でもある。
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