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ありゃ?最高幹部らにもいえることか??
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畜生と乞食の政権 投稿者:太ちゃん 投稿日:2015年 9月16日(水)13時28分4秒
『趙高』の行状は、最高幹部らの行状でもあるように感じますね。
去年の『改定』はちょうど故事の『馬鹿』の語源とそのままではないでしょうか。
安保の賛成・反対にしても同じことがいえるのではないでしょうか。
もっとも、この場合は最高幹部らによって「馬鹿にされてる」といったところですが。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%B9%BF
馬鹿 - Wikipedia
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馬鹿(ばか)とは、
愚かなこと[1]。
社会的常識に欠けていること[2][1]。(「専門馬鹿」「役者馬鹿」「親馬鹿」などと用いる。)
知能が劣り愚かなこと[2]。
つまらないこと[2]。無益なこと[1]。
役に立たないこと[1]。機能を果たさないこと[2]。
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語源
史記の「指鹿為馬(しかをさしてうまとなす)」の故事を語源とする説
最も普及している説。秦の2代皇帝・胡亥の時代、権力をふるった宦官の趙高は謀反を企み、廷臣のうち自分の味方と敵を判別するため一策を案じた。彼は宮中に鹿を曳いてこさせ『珍しい馬が手に入りました』と皇帝に献じた。皇帝は『これは鹿ではないのか』と尋ねたが、趙高が左右の廷臣に『これは馬に相違あるまい?』と聞くと、彼を恐れる者は馬と言い、彼を恐れぬ気骨のある者は鹿と答えた。趙高は後で、鹿と答えた者をすべて殺したという。しかし「馬鹿」のうち鹿の「か」は訓読みであり、中国風の音読みで馬鹿を「ばか」と読むことはできないなどの問題がある。
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そして、学会で最近起きてる各地の「除名」についても、本質は『趙高』と非常に酷似してるものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E9%AB%98
趙高 - Wikipedia
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皇帝の操り手
始皇帝の五度目の行幸にも参加するが、始皇帝が行幸中に病死すると、丞相の李斯を強引に抱き込み、その遺言を書き換えて、太子の扶蘇を自決に追い詰め、末子の胡亥を即位させる。 この時、遺言には扶蘇が葬儀を取り仕切るよう記されていた。すなわち実質上の後継指名である。これもあり、即位することを胡亥は躊躇ったが、その説得の際に趙高が放った台詞が「断じて行えば鬼神もこれを避く」である。
そして、自ら郎中令(九卿の一。宮門をつかさどる)に就任し、胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を握った。胡亥の傀儡ぶりは著しく、丞相李斯ですら趙高の仲介なくしては胡亥に奏上も適わなかった程であった。
政策は基本的には始皇帝の方針を引き継いだが、皇帝の権威、即ち自らの権威を高めることに腐心し、阿呆の語源とも言われる阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課す。恐怖政治を敷いたことと合わせ、大いに人民から恨みを買うことになった。 また蒙恬、公子将閭や2人の弟たち、公子高など有力者や不平派を悉く冤罪で殺害した。これにより悪臣などが増え、政治に対する不平不満は増大、始皇帝在位時は豊富であった人材も枯渇することになった。
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秦帝国の滅亡と趙高の最期
天下に満ちた怨嗟は、陳勝・呉広の乱の挙兵をきっかけに、枯野へ火を放ったように一気に全土での反乱として現れた。事態を憂慮し、対策と改革が必要と考えた李斯と、現状保持に拘る趙高は対立を深め、ついに趙高は胡亥に讒言して、李斯を胴斬りの刑で処刑させ、自分が後任の丞相となった。その間にも反乱は広がり、主力軍でもある名将章邯が項羽に破れた際も、趙高は増援を送るどころか敗戦の責任をなすりつけようとしたため、章邯は、項羽率いる楚に20万の兵と共に降伏し、秦帝国の崩壊は決定的となった。
その間も胡亥は何も知らされていなかったが、王都である咸陽のすぐ近くにまで劉邦の軍勢が迫ると趙高はさすがに隠し切れぬと思い、胡亥の殺害を計画した。この際に群臣が自分のいうことを聞くかどうかを試すためにあることを行った。
趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れてきた。 胡亥は「どうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です。君らはどう思うか?」と群臣に聞いた。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。このエピソードが馬鹿の語源としてよく知られている。
これにより反対者を粛清した趙高は謀反して胡亥を殺した(望夷宮の変)。この時、劉邦軍と密かに内通を画策したが、劉邦からは全く相手にされていなかった。胡亥の後継として、人望の厚い子嬰を擁立し、全てを胡亥のせいにすることで自身への非難をかわそうとするが、趙高を憎悪する子嬰と韓談らによって、屋敷に呼び出されて殺害され、一族も皆殺しにされた。
これにより秦国内は大いに士気が高まったが、時既に遅く、既に関中へ劉邦軍が入っており、咸陽の目前に迫っていた。子嬰は観念して降伏し、ついに秦は滅亡した。
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後世における評価
秦帝国を私物化し、保身のため忠臣賢臣を謀殺するに足らず皇帝をも殺し、天下万民からも恨みを買い帝国滅亡の原因となった趙高は、悪臣の象徴として後世でも引き合いに出されている。 なお、日本でも『平家物語』に漢の王莽、梁の朱异、唐の安禄山とともに趙高が引き合いに出され、天下を私した結果滅んだ例として紹介されている。
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このような事態にならないよう、我々は「声」をあげているのです。
『我、地涌の菩薩なり』
http://www.geocities.jp/bosatu2015/
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