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「体感」するということ
「体感」について、わかりやすい例を示すと
梅干しの実例
1-500円硬貨を思い浮かべる。
2-500玉が「梅干し」に変わる
3-熟した、の肉厚のある「梅干し」
4-思い浮かべた結果、口の中に唾液が分泌される。
条件反射の実例である。
「体感」とは、六識(六根)を通した記憶により身体感覚が反応する現象である。
自転車に乗る実例
1-自転車の乗り方は、考えると何回も転ぶ
2-バランスのとり方が修得されると、自然に乗れるようになる。
「体感すること」とは、このように自得することなのである。思考や概念ではない、具体的な事
実なのである。
私たちの行動は、このように身体感覚を通した体感による体験(生得的な反応)と、思考や概念
による後天的な反応により、自動的に起きているのだ。
先生のスピーチ・指導・御書を読むとは、多くの人は、思考や概念で読んでいるのだ。一念のブ
レ・ズレが起きて当たり前である。
体感する現象は人間である以上、日蓮大聖人・牧口先生・戸田先生・池田先生・そして自分自身
は同じ反応をしているのだ。戸田先生の「悟達」は無理と感じるのは、思考や概念で決めつけて
いる妄想なのだ。
「体感する世界」と「思考・概念の世界」の異なりが現実に起きている現象なのだ。
「自己」とは身体的機能を言い、「自我」とは、思考・概念である。自己には「実体」がある。
自我には「実体が無い」。自我で読むと自己都合という妄想読みとなる。自己で読むと智慧を誘
発する読み方となる。
法華経という物語(ストーリー)は、思考・概念となる。その思考・概念を体感することが「知
識の智慧化」なのである。自我の働き作用から自己機能へとシフトさせることが「体感」するこ
となのだ。「色香美味」とは「体感反応」である。
自分自身を生きるとは、「自我で生きる」ことではない、「自己で生きる」ことを言うのだ。自
我ゆえに苦難・労苦がもたらされるのだ。自我ゆえに魔の働き作用が起きて来るのだ。結局は
「気づく」か「気づかない」かである。
「気づく」という現象、働き作用こそが仏の働き作用の現われなのである。「気づく」という当
り前すぎて、身近すぎて「わからない」という状況がある。※自我による気づきは制限されたも
のである。悪智慧による気づき、善という智慧による気づきもある。⇒相対的世界
「体感する気づき」は善悪を超えた仏の智慧として働き作用がもたらされるのである。⇒絶対的
世界
「仏法は勝負を先とする」とは自我から自己・体感する事のへの促す言葉なのだ。しかし最初か
ら自己を生きれば苦難や労苦は「楽となる」のだ。残念ながらこのような教学、信心指導は皆無
である。ゆえに機能不全・不良が起きているのである。体感する世界に身を置けば、常に勝利の
人生なのだ。自我があるから闘いとなる。
自我で祈っても歓喜は思い込み信じ込みとなる。体感で祈れば歓喜・大歓喜なのだ。
私たちは牧口先生・戸田先生・池田先生、なかんずく日蓮大聖人と同じ生命なのだ。あとは、
「いつ、どこで、気づくか、」である。生命論を「論」として読むと思考・概念となる。生命論
のストーリを「生命として体感」すればいいのである。このことを覚知、目覚め、解放、または
発迹顕本というのだ。「知識の智慧化の体験過程」である。
いつの時代、どこの世界でも「自我」は「不変真如」とはならない、迷妄の世界に在る。「自
己」という身体機能は「不変真如の智」となり現れるのだ。ただ「気づけない」だけなのだ。教
学部の師範であろうと、副会長であろうと、役職や立場にはまったく関係ない。見かけの肩書は
組織でしか通用しない。体感することは個人なのである。
日蓮教学体系の論理は、本来は「智慧の知識化」であったが「知識止まり」となっているから不
具合が生じているのだ。創価教学の不具合も体感無き者による「モノ化」現象なのだ。(智慧の
欠落現象)、つじつま合わせの御都合主義教学の誕生である。
こうした様々な問題も体感すれば、くだらない事・どうでもいい事に気づく。そして、なるよう
に、なっていくことが「わかる」のだ。智慧の働き作用が自然にもたらされるのである。
智慧とは、体感する事である。身体機能によりもたらされる体感を「体感智」と言う。賢き人と
は体感智の人を言う。愚者・愚考の人を愚人の人と言う。体感智の人と愚人の人と同じ世界を生
きていても、その差は大きい。それを「信心の厚薄」というのだ。先にも触れたが、信心の厚薄
は組織の問題、役職ではない。どこまでも個人の世界なのだ。
イマイチ信心の者の多くは「体感する事」を求めている。しかし思考・概念という自我により迷
妄の中に在るのだ。「体感する」「体感しない」は求める側、弟子の側の「信心の厚薄」なの
だ。「日蓮がとがに非ず」である。
体感無き愚考の信じ込み・思い込みの様々な板の書き込み、メールは、それぞれ今日も明日も続
く。それが今という現実なのだ。
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