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体感する

 投稿者:アルベアメール  投稿日:2015年11月10日(火)06時18分21秒
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  「体感」するということ

「体感」について、わかりやすい例を示すと

梅干しの実例

1-500円硬貨を思い浮かべる。

2-500玉が「梅干し」に変わる

3-熟した、の肉厚のある「梅干し」

4-思い浮かべた結果、口の中に唾液が分泌される。

条件反射の実例である。

「体感」とは、六識(六根)を通した記憶により身体感覚が反応する現象である。

自転車に乗る実例

1-自転車の乗り方は、考えると何回も転ぶ

2-バランスのとり方が修得されると、自然に乗れるようになる。


「体感すること」とは、このように自得することなのである。思考や概念ではない、具体的な事

実なのである。

私たちの行動は、このように身体感覚を通した体感による体験(生得的な反応)と、思考や概念

による後天的な反応により、自動的に起きているのだ。

先生のスピーチ・指導・御書を読むとは、多くの人は、思考や概念で読んでいるのだ。一念のブ

レ・ズレが起きて当たり前である。

体感する現象は人間である以上、日蓮大聖人・牧口先生・戸田先生・池田先生・そして自分自身

は同じ反応をしているのだ。戸田先生の「悟達」は無理と感じるのは、思考や概念で決めつけて

いる妄想なのだ。

「体感する世界」と「思考・概念の世界」の異なりが現実に起きている現象なのだ。

「自己」とは身体的機能を言い、「自我」とは、思考・概念である。自己には「実体」がある。

自我には「実体が無い」。自我で読むと自己都合という妄想読みとなる。自己で読むと智慧を誘

発する読み方となる。

法華経という物語(ストーリー)は、思考・概念となる。その思考・概念を体感することが「知

識の智慧化」なのである。自我の働き作用から自己機能へとシフトさせることが「体感」するこ

となのだ。「色香美味」とは「体感反応」である。

自分自身を生きるとは、「自我で生きる」ことではない、「自己で生きる」ことを言うのだ。自

我ゆえに苦難・労苦がもたらされるのだ。自我ゆえに魔の働き作用が起きて来るのだ。結局は

「気づく」か「気づかない」かである。

「気づく」という現象、働き作用こそが仏の働き作用の現われなのである。「気づく」という当

り前すぎて、身近すぎて「わからない」という状況がある。※自我による気づきは制限されたも

のである。悪智慧による気づき、善という智慧による気づきもある。⇒相対的世界

「体感する気づき」は善悪を超えた仏の智慧として働き作用がもたらされるのである。⇒絶対的

世界

「仏法は勝負を先とする」とは自我から自己・体感する事のへの促す言葉なのだ。しかし最初か

ら自己を生きれば苦難や労苦は「楽となる」のだ。残念ながらこのような教学、信心指導は皆無

である。ゆえに機能不全・不良が起きているのである。体感する世界に身を置けば、常に勝利の

人生なのだ。自我があるから闘いとなる。

自我で祈っても歓喜は思い込み信じ込みとなる。体感で祈れば歓喜・大歓喜なのだ。

私たちは牧口先生・戸田先生・池田先生、なかんずく日蓮大聖人と同じ生命なのだ。あとは、

「いつ、どこで、気づくか、」である。生命論を「論」として読むと思考・概念となる。生命論

のストーリを「生命として体感」すればいいのである。このことを覚知、目覚め、解放、または

発迹顕本というのだ。「知識の智慧化の体験過程」である。

いつの時代、どこの世界でも「自我」は「不変真如」とはならない、迷妄の世界に在る。「自

己」という身体機能は「不変真如の智」となり現れるのだ。ただ「気づけない」だけなのだ。教

学部の師範であろうと、副会長であろうと、役職や立場にはまったく関係ない。見かけの肩書は

組織でしか通用しない。体感することは個人なのである。

日蓮教学体系の論理は、本来は「智慧の知識化」であったが「知識止まり」となっているから不

具合が生じているのだ。創価教学の不具合も体感無き者による「モノ化」現象なのだ。(智慧の

欠落現象)、つじつま合わせの御都合主義教学の誕生である。

こうした様々な問題も体感すれば、くだらない事・どうでもいい事に気づく。そして、なるよう

に、なっていくことが「わかる」のだ。智慧の働き作用が自然にもたらされるのである。

智慧とは、体感する事である。身体機能によりもたらされる体感を「体感智」と言う。賢き人と

は体感智の人を言う。愚者・愚考の人を愚人の人と言う。体感智の人と愚人の人と同じ世界を生

きていても、その差は大きい。それを「信心の厚薄」というのだ。先にも触れたが、信心の厚薄

は組織の問題、役職ではない。どこまでも個人の世界なのだ。

イマイチ信心の者の多くは「体感する事」を求めている。しかし思考・概念という自我により迷

妄の中に在るのだ。「体感する」「体感しない」は求める側、弟子の側の「信心の厚薄」なの

だ。「日蓮がとがに非ず」である。

体感無き愚考の信じ込み・思い込みの様々な板の書き込み、メールは、それぞれ今日も明日も続

く。それが今という現実なのだ。
 
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